◎近衛文麿公は、独り晩秋の軽井沢に赴いた
人物往来社から発行されていた雑誌『人物往来』の第4巻第12号(1955年12月号)は、「昭和重大事件の真正報告」と題された特集号になっている。この特集号にある記事のひとつ「護衛に撃たれた美濃部達吉」(有松祐夫執筆)は、以前、当ブログで紹介したことがある。
今回は、この特集号から、富田健治の「近衛文麿の自決」という記事を紹介してみたい。
近 衛 文 麿 の 自 決
――平和を求め激流に抗して死を求めた政治家!
出頭命令から自決までの心境を秘書たりし筆者が描く――
富 田 健 治【とみだけんじ】
近衛公逝きて十年
私は今ここに、近衛公逝って十年の冬を迎え、その時の情景を、きのうのことのようにさえ思い返えされるのである。戦前は軟弱といわれ、戦争中は和平、敗北論者と罵られ、更に戦争が終れば、戦犯の汚名をきせられて行った近衛公の移り行く運命の皮肉を、どう算定すればいいのであろうか。いま、公の自決の真相を、明かにせんとして感慨又新たなるものがあるのである。
運命の出頭命令
近衛公は、昭和二十年十月四日マッカーサー元帥の求めにより、元帥と約二時間にわたって会談した。その会談が基になって、公は内大臣府御用掛〈ゴヨウガカリ〉として佐々木惣一博士らの援助をうけ、憲法改正の大事業に着手することになったのである。それから四十数日間、公は箱根の入生田の山荘で憲法改正の御奉答について案を練っていた。そして十一月二十二日、宮中に参内して改憲についての奏上、同時に一切の栄爵拝辞の手続をとった。
この間、東久邇宮内閣当時から、公に対する攻撃の声が次第に高まり、公が内府御用掛になるに及んで故意や誤解に基く、中傷さえ追々強くなってくるのであった。又終始戦争反対であった公に対し、その戦争責任を問うという声までが新聞紙上に喧伝〈ケンデン〉され、近衛攻撃に拍車をかけて行く、世相の移り様〈ヨウ〉であった。こうした非難、中傷の声をよそに公は、十一月二十七日、独り晩秋の風も冷い軽井沢に赴いた。軽井沢は四季を通じて公がもっとも愛好された土地であり、ここで読書し、冥想することを唯一の楽しみとされていたようでもあった。梨本宮殿下の逮捕なども、この地で知られたのであった。暗然として信州の空の雲を追っていた公自身にもやがて運命の日が訪れた。十二月六日、戦争犯罪容疑者として占領軍総司令部から出頭命令の通知を受けとったのである。
近衛公は、すでにこのことあるを予知していた風で、逮捕命令に接しても、不思議なほどいつもの通り、平静であった。今にして思えば、公の軽井沢行も、その運命に対する自己の所在を冥想の中に決しようとしたものであったといえよう。
何ごとか胸中に決意した公は、十二月十一日、軽井沢の山を降り、帰京してからは一切の訪客を避けて世田谷の長尾〔欽弥〕邸の一室に閉じこもった。ひたすら静思してしるようであった。しかし、十四日からは身近な人たちともぼつぼつ会われ、十五日からは荻窪の荻外荘に移られた。この日は朝から、親しい人々とも話し合われ、ふだんの姿に返っていた。その日の夕刻には、外務省の中村(豊一)公使が「明日(十六日)の打合せに来ていた。また同じ日公は側近者の懇請によって帝大内科の柿沼〔昊作〕博士や二年越しの痔の手術をうけた大槻〔菊男〕博士の健康診断をうけた。両博士の診断では「公の痼疾は入所によって悪化の恐れが強い。政治上のことは、自分らには、わからないが、なるべくなら入所を延期されたい。医者の良心において確言する」との強い助言まで出ていた。更にこの年の初夏、一丈余〔3メートル余〕の条虫が出たこともあり、主治医からも「条虫の駆除のため一週間ほど入所を延期されたい」との注意もあったほどだ。こうした医者の忠告を公は、ただ黙ってきいていた。このあとの中村公使との会談において中村公使が、公に対する命令は、政治的意味が多分にあるから、余人ならば格別、出頭延期は、到底承認せられまいと述べたのに対し、公はうなづきながらきいていたが、「猶予のことは止めましょう」と一言ゆっくりと言われただけであった。しかし、「出頭する」とは終始一言も公の口からはきかれなかった。その時公自身運命の死に対決する決意を固めていたのかもしれない。〈110~111ページ〉【以下、次回】
文中、「箱根の入生田の山荘」とあるのは原文のまま。ここは、「箱根宮ノ下の奈良屋旅館」などとすべきところであった。なお、「入生田(いりうだ)」は小田原市内の地名(大字)で、ここには、近衛文麿の別荘があった。