◎涙が熄むと、死からの解放感が浮かび上がった
篠田五郎『天皇終戦秘史』(大陸書房、1980)から、冒頭の部分を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
玉音放送は、いま、終わろうとしていた。再び繰り返されることのない、その戦中終結を告げる勅語は、いままさに、日本帝国にピリオドを打とうとしているのだった。
東京・渋谷の焼け跡でラジオ放送を聞いている中学生たちは、これが天皇の声なのだという感想しか持てなかった。詔勅の意味を理解出来ないのだった。そして、何人かが、(やはり、これからも頑張れということなんだ)と思った。無理ないことであった。
少年たちは、青年将校の方を振り向いた。が、飛行服を着たその姿は、いつの間にか、その場から立ち消えていた。少年たちは互いに顔を見合わせ、それからあたりを見回した。とにかく、青年将校の姿は、どこにも見当たらなかった。奇妙な想いが、少年たちの間に揺れた。
「……誓ッテ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スへシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」
玉音放送が終わり、再び、〝君が代〟が流れた。
多くの日本国民の間に、不審さからくる戸惑いが波紋のように拡がっていた。しかし、中には明確に勅語の意味を摑んだ人たちも少なくなかった。
鎌倉に住む作家の高見順も、その一人であった。高見は日誌に誌している。
「遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。
夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。
烈日の下に敗戦を知らされた。
蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」
多くの人たちが、漸く情勢の変転を知ったのは、続いて放送された内閣告諭によってである。
「本日畏くも大詔を拝し、帝国は大東亜戦争に従ふこと実に四年に近く、而も遂に聖慮を以て非常の措置に依り其の局を結ぶの他途【みち】なきに至る……」
と、和田放送員が朗読した。
国民は、あらためて、自分たちのまわりを見回した。その眼に映ったのは、破壊され、まさに壊滅状態にある日本の国土であった。人びとは今更の如く、自分たちが疲れ切っていることを痛切に感じた。
すると、涙が出た。それは口惜しさとか、悔恨とかで簡単に理由づけられる性質のものではなかった。長い間の苦しい日々から解放されたことへの歓びでもない。日本が戦争に敗けたという、その歴史的な瞬間に立ち会った感動からくる涙であったかも知れなかった。
しかし、それにしても戦争終結は、あまりにも突然過ぎる事態の変化であった。
本土は空襲によって、鉄道を寸断され、物資輪送も自由にはならなかった。また、海上の輸送にしても途絶えがちであった。B29から投下された機雷だけでも一万二千百三十五個を数え、それに接触して損害を蒙った日本船舶は百二十万頓に達している。
だが、それでも国民は、いまのいままで最後までの戦いを決意していたのである。それがいきなり、〝中止〟なのだった。
その心境を、開戦以来、天皇の侍従武官として仕えてきた尾形健一大佐は日誌に書いた。
「盲目的ニ前進ヲ続ケアリシニ急ニ〝廻レ右、前へ〟ノ大号令ヲ受ケ、正ニ四肢ハ硬直シテ動カザルニ似タリ」
多くの国民にしても、同じ想いであった。その日々の糧〈カテ〉を手にすることに喘【あえ】ぎながらも、国民は戦い続けてきたのである。そして、戦場で多くの肉親が示したように、天皇の兵士、日本人の戦には、死こそあっても降伏はないと理解していた。その戦いに、突如、幕が降ろされたのである。新たな戸惑いが、涙の後から襲った。
宮城前広場には、午後になると、続々と人の波が詰めかけた。広場の砂利の上に土下座して慟哭する人びとの姿が、至る処に見られた。ある者は顔を砂利の中へ埋めるようにして、蹲った〈ウズクマッタ〉躯全体を大きく波打たせていた。涙で濡れた顔を仰向かせ、固く両眼を閉じたまま、〝海ゆかば〟を唱い続ける中学生の姿もあった。また、狂気の如く、「天皇陛下、万歳!」を絶叫し続ける若い娘も見られた。
そうした人びとの姿を、その近くで不動の姿勢のまま立哨〈リッショウ〉している、近衛師団の兵士が見戍【みまも】っていた。しかし、兵士の頰もまた、涙で濡れ光っていた。その眼には、なにも映っていないようであった。
人びとの間からは、
「天皇陛下……申し訳ありません……」
「陛下……お許し下さい……」
という悲痛な叫び声が起きた、と翌日の新聞は伝えている。
その声は、いったい、なにを意味するのだろうか。敗戦という忌まわしい事態を招いたのは、臣下である国民の努力が足りなかったためだという表意が、「お許し下さい」という言葉に表われたのではなかったか。
いずれにせよ、それまでピーンと張られていた糸が、突如、断ち切られたのだった。まさに国民は、〝四肢ハ硬直シ〟であった。
涙が熄【や】むと、人びとの脳裏には、本能的に死からの解放感が浮かび上がった。これで助かったんだ、という想いが、新たに胸の裡に拡がっていった。しかし同時に、(なぜ、もっと早く言ってくれなかったんだ)という憤懣が湧いてきたこともまた事実であった。【以下、割愛】
筆者の篠田五郎は、敗戦時、「陸軍技術本部」に在職していたという。篠田自身が、どこで「玉音放送」を聴いたのかは不明だが、あるいは、東京・渋谷の掘立て小屋で、ラジオを聴いていた人々のひとりだったのかもしれない。