◎陛下のために弁護をする余地すらない(近衛文麿)
『人物往来』1955年12月号から、富田健治執筆「近衛文麿の自決」という記事を紹介している。本日は、その二回目。
僕の志は知る人ぞ知る
私は十二日の朝公にお目にかかった時、公から「犯罪人としての出頭は、拒否するのが当然ではないか」と強い語調できかされてこんなことはそれ迄私には思い及ばなかったことで、実はビックリしたことであった。その日から十五日の朝まで時に独りで瞑想し、時に親近者の意見をきかれて、その最後の時間を待っていたのである。そして十五日夜、入浴後午後十一時ごろから床に就いた公は、次男の通隆〈ミチタカ〉君と翌十六日の午前二時ごろまで語り合った。その際公は、通隆君に対して、硯〈スズリ〉の蓋を台にして鉛筆で近衛家の用箋に自ら認め〈シタタメ〉られ、「これは字句も整っていないが、自分の心境であるから……」とメモを手渡したのであった。そのメモが、もちろん公の最後の言葉となったのであるが、その鉛筆の走り書きは次のようなものであった。
「僕は支那事変以来、多くの政治上の過誤を犯した。これに対し深く責任を感じているがいわゆる戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受けることは、堪え難いことである。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、この事変の解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から犯罪人として指名を受けることは、誠に残念に思う。然し、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさえ、そこに多少の知己が存することを確信する。戦争に伴う昂奮と激情と、勝てる者の行過ぎた増長と、敗けた者の過度の卑屈と、故意の中傷と誤解に基づく流言蜚語〈リュウゲンヒゴ〉と、是等一切のいわゆる輿論なるものも、いつかは冷静を取戻し、正常に復する時も来よう。その時初めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう」
このメモの一部は、当時占領軍によって新聞紙の掲載を禁止された。更に生前、公と通隆君との雑談中に洩れた言葉の中に次のようなことがあるのだ。
一、自分は日支事変の解決、日米交渉の成立に全力を尽したが力及ばず、今日の事態に立至ったことを深く遺憾とし、上は陛下に対し下は全国民に対して責任痛感していた。
二、自分は第東亜戦争直後(昭和十七年初め)「第二次及び第三次近衛内閣における日米交渉の経過」を、またその後において「三国同盟に付て」を記しておいたから、自分として言うべきことは大体あの中に尽くしているつもりだ。あれによって世界の公正なる批判をうけたい。
三、国体護持の問題については自分が全力を尽してきたところのものだ。これは国民は別 して近衛家としては当然そうあらねばならぬ。
自決への招待者は誰か
この雑談の後、通隆君は隣室に退き、時々公の寝室に声をかけたりなどしていたが、父文麿公は、案ずる令息の声を耳にしながら静かに毒を呷って〈アオッテ〉いったのである。自決の時刻は多分午前五時から五時半までの間であったと推測されている。枕頭には小さな茶色の瓶が空のままおかれ、安らかな眠りについたそのままの顔で、いつものように深々と布団の中に埋れていた。
こうして、敗戦の混乱のさ中に、自らの手で死を選んだ近衛公の、偽らざる当時の心境とはどんなものであったろうか。一体、何が公をして死に追いやったのであろうか。それについては十二月六日から自決前日の十五日までに、公が側近者に洩らした片言雙句の集録から覗いてみるのが妥当であろう。
まず近衛公は、「戦争には終始反対してきた」と言っている。公は支那事変の失敗を認め、「蒋政権を相手とせず」との考え方は、明らかに間違っていたとしている。支那事変は大東亜戦争とは性格を異にし、計画的なものではなかったといっている。それだけに戦争には終始反対し、日米交渉に全力をつくした。公自身を戦争犯罪人ということについて公は「犯罪には意思がなければならぬ。自身にはその意思は全くなかった」と述懐している。したがって米国から犯罪人呼ばわりされることは、絶対に認め難いと考えた公なのである。
また、戦争犯罪人として逮捕命令に従うべき法的根拠について、多分に疑問をもっていた。戦勝国を楯に得手勝手は許されないとの毅然たる態度を貫き通そうとした。したがって理由なき逮捕命令は当然拒否すべきと考え占領軍に対して公なりの抵抗を示したものともいえよう。
このような公自身の考え方も、所詮、戦敗国という決定的な運命には抗し切れなかったようである。公は、「逮捕命令は拒否すべきだが、今日の我が実情は、こちらにその権利は何一つないという考え方が、風潮をなしており、又その熱意はどこにもない、固より実力もない」と敗れ去った民族の悲哀を認めざるをえなかったようだ。加えて、梨本宮〔守正王〕の戦争犯罪容疑者としての出頭命令と天皇の退位を予想させる暗い客観情勢とがあった。しかし、「話せば分る」自由は、敗戦国の指導者には望むべくもないと判断したことだ。更に決定的なまで公自身を死の淵に追い込んだのは、「陛下のために弁護をする余地すらない」と自覚しはじめたことであったようだ。ある人が公に対して「陛下を弁護する人はあなたをおいて他にない」と言ったことに対して公は「もはや、そうは思えなくなった。陛下のおためになることなら考慮の余地もあるが自分は却って逆効果になるとさえ考えてきた」とまで悲観的な見方に移っていた。
なかには、巣鴨入りについて身体の強健でない公に同情するものもあったが、公は「日常生活の苦しさなど問題ではない。ただ戦争犯罪人としての屈辱には、絶対に堪えられないのだ」と終始犯罪の汚名を憎んでいた。たとい、法廷に立っても真実は歪められるし、公正な批判は下されない、裁判の良心を否定してかかっていたし、「歴史は百年後に証明されるであろう」と一すじに未来だけを信じていたようでもあった。〈111~113ページ〉【以下、次回】
富田健治によれば、近衛は、戦犯裁判への出廷について、「陛下のおためになることなら考慮の余地もあるが自分は却って逆効果になるとさえ考えてきた」と述べていたという。戦犯裁判において、近衛が正直に証言した場合、天皇を弁護するどころか、かえって逆効果になるだろう、と言うのである。これは、実に含みの多い言葉である。富田にしても、そうした「含み」について、十分、承知した上で、この近衛の言葉を紹介したのであろう。
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