礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ナチスの社会観はフィヒテの思想と一脈通じる

2025-01-17 03:21:31 | コラムと名言
◎ナチスの社会観はフィヒテの思想と一脈通じる

『社会経済史学』第9巻第2号(1939年5月)から、フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)についての梶山力の書評を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 尚ほ注意すべきことは、フィヒテの改革的思想のうちに国家の役割がきはめて重要な地位を占めてゐるといふことである。国家の任務がたゞ各人に人格的権利と財産とを所有させておいてその保護をなすのみでよいといふ観念は、フィヒテを満足させることが出来ない。むしろ彼によれば国家は「人々に初めて彼のものを与へ、初めて彼に財産を得しめ、しかるのちに彼のこの状態の保護をなす」ものでなくてはならない(二四頁)。国家こそは国民のうちに正義を実現するところの唯一の理性の代表者である。吾々はこゝでもまた、ドイツの社会思想に共通するあの国の一つの発現に衝きあたるのである。それは、一つには当時のブロシアの国家形態を反映するものであると同時に、また思想史的にはルッター以来のあのドイツ国民の精神的性格――個人の自由の精神は権威への服従と、奇妙にも結ばれてゐるのである――をひきつぐものであることを忘れてはならない。それはやがてヘーゲルの国家哲学においてその頂点に達して、ブロシア軍国主義の形成に、著るしく貢献したところのあの思想にほかならない。フィヒテを学ぶにつけても吾々は、この国家観を採用するか否かの、選択のまへに立たせられる。今日のナチス・ドイツでさへも古い形態の権力的国家観をうけいれてゐるのでは決してない。ナチスにとつては民族こそは最高の存在であつて「国家」は民族発展に役立つところの一手段にすぎないからである。と同時にまた、ナチスの社会観がフィヒテの思想と一脈共通するところのあることをも、吾々は否定しえないであらう。ナチスの思想家達がフィヒテをその精神上の祖先として大いに尊敬しはじめたことに、吾々はさまざまの意味を見ることが出来る。――個人か民族か国家か。この三人の女神は、牧人パリス〔Paris〕のまへに互ひに主権を競つてゐるのである。もし吾々が人間の進歩を下からの力ではなく、「上からの革命」によつてのみ成就されうると考へるならば、吾々はフィヒテとともに国家を択ぶことに躊躇しないであらう。(了)
   (菊判、二九六頁、索引一四頁、二円、弘文堂刊) 〈118~119ページ〉

 以上が、フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』についての梶山力の書評であった。出口勇蔵と梶山力とは、同年(1909年)の生れで、同じ年(1938年)に、翻訳書を世に問うている。
 梶山力が、マックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳を有斐閣から上梓したのが1938年(昭和13)5月、出口勇蔵が、フィヒテ著『封鎖商業国家論』の翻訳を弘文堂書房から上梓したのが、同年の8月であった。
 なお、梶山力は、この書評の発表から二年後の1941(昭和16)4月、肺結核のため32歳の若さで亡くなっている。

今日の名言 2025・1・17

◎個人の自由の精神は、権威への服従と奇妙にも結ばれている

 梶山力の意味深長な言葉。上記の引用参照。梶山力によれば、ドイツ国民の精神的性格として、個人の自由の精神が権威への服従に結びつくことが指摘できるという。こういった精神的性格は、わたしたち日本人についても、指摘できるような気がする。なお、あくまでも私見だが、梶山力の指摘する「精神的性格」(個人の自由の精神が権威への服従に結びつく精神的性格)は、「自発的隷従」と言い換えられるように思う。

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