◎梶山力の書評、フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』
本年元旦のブログで述べた通り、昨年の11月、五反田の古書展で、『社会経済史学』のバックナンバー十数冊を入手した。そのうちの一冊に、1939年(昭和14)5月発行の第9巻第2号がある。
同号の末尾に、梶山力による書評が載っていた。書評の対象は、フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)である。本日以降、何回かに分けて、この書評を紹介してみたい。
なお、梶山力(かじやま・つとむ、1909~1941)は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、最初に翻訳したことで知られる経済社会学者。また、出口勇蔵(でぐち・ゆうぞう、1909~2003)は、マックス・ウェーバーの研究などで知られる経済学者である。
書 評
フィヒテ著・出口勇蔵氏訳
『封 鎖 商 業 国 家 論』 梶 山 力
フィヒテのこの書が哲学史においても、経済思想史においても、きはめて特異な、しかも重要な意味をもつものであることは、つとに吾々の充分に教へられてゐたことであつた。けれどもこの書を原文で丁寧に味読するだけの時間と忍耐力とをもちえた人は、我国ではさう多くはなかつたのではあるまいか。それだけに出口氏のこのすぐれた訳書*の上梓されたことに、ふかい喜びを感じた人々は決して少くないであらう。訳文にそへて詳しい訳者の解説**の加へられてゐることは、尚ほ一層の喜びである。
*訳文は充分に良心的であるが、邦語としてもよく消化されてゐて、原著の風韻をよく伝へてゐる。なほ欄外に原著の頁数を示されてゐることも親切である。
**解説は六八頁にわたつて、原著の経済的、政治的、社会的背景はもちろん、その思想史的背景やフィヒテの生立ち等を手ぎはよく叙述してゐる。
いふまでもなく、この書が吾々に大きい興味をあたへる理由の一つは、それが社会改革に対するフィヒテの情熱と思想との吐露だといふことである。社会に無関心な哲学者を、もはや吾々は充分に尊敬しえないであらう。フィヒテの情熱は抽象的真理の探究を超えて、現実社会の革新に向はずにはゐなかつた。しかもその革新思想が、真摯な哲学的思索のうへにうち樹てられてゐること――そのことは、フィヒテが吾々を魅する第二の要素であらう。尚ほ経済史を学ぶ者にとつては、フィヒテのこの書がその時代の社会関係の反映として、興味ふかいものであることは云ふまでもない。かうした点について、以下少しく述べてみよう。
まづ哲学との関連について。フィヒテの「封鎖商業国家論」の基礎をなしてゐる哲学は、いふまでもなくカントの理想哲学の延長である。だからといつて、此の書が現代において無意義だといふのは正当ではない。むしろ、それによつて此書への関心は倍加されねばならない。マルキストがカント哲学を俗流観念論として冷罵して以来、理想といふ言葉までが野暮くさく看做されてきたのである。けれども今や吾々は、歴史の発展が「必然的」に吾々をみちびく方向にも、もはやかつてのやうなかゞやく希望をもつことが出来ないではないか。理想は、いかなる意味でか、王座を回復しなければならない。そしてそれとともに、先験的理想の哲学は、新しい光のもとに、新しい意味を与へられる日がくるであらう。否、すでに来てゐるのである。〈115~116ページ〉【以下、次回】
本年元旦のブログで述べた通り、昨年の11月、五反田の古書展で、『社会経済史学』のバックナンバー十数冊を入手した。そのうちの一冊に、1939年(昭和14)5月発行の第9巻第2号がある。
同号の末尾に、梶山力による書評が載っていた。書評の対象は、フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)である。本日以降、何回かに分けて、この書評を紹介してみたい。
なお、梶山力(かじやま・つとむ、1909~1941)は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、最初に翻訳したことで知られる経済社会学者。また、出口勇蔵(でぐち・ゆうぞう、1909~2003)は、マックス・ウェーバーの研究などで知られる経済学者である。
書 評
フィヒテ著・出口勇蔵氏訳
『封 鎖 商 業 国 家 論』 梶 山 力
フィヒテのこの書が哲学史においても、経済思想史においても、きはめて特異な、しかも重要な意味をもつものであることは、つとに吾々の充分に教へられてゐたことであつた。けれどもこの書を原文で丁寧に味読するだけの時間と忍耐力とをもちえた人は、我国ではさう多くはなかつたのではあるまいか。それだけに出口氏のこのすぐれた訳書*の上梓されたことに、ふかい喜びを感じた人々は決して少くないであらう。訳文にそへて詳しい訳者の解説**の加へられてゐることは、尚ほ一層の喜びである。
*訳文は充分に良心的であるが、邦語としてもよく消化されてゐて、原著の風韻をよく伝へてゐる。なほ欄外に原著の頁数を示されてゐることも親切である。
**解説は六八頁にわたつて、原著の経済的、政治的、社会的背景はもちろん、その思想史的背景やフィヒテの生立ち等を手ぎはよく叙述してゐる。
いふまでもなく、この書が吾々に大きい興味をあたへる理由の一つは、それが社会改革に対するフィヒテの情熱と思想との吐露だといふことである。社会に無関心な哲学者を、もはや吾々は充分に尊敬しえないであらう。フィヒテの情熱は抽象的真理の探究を超えて、現実社会の革新に向はずにはゐなかつた。しかもその革新思想が、真摯な哲学的思索のうへにうち樹てられてゐること――そのことは、フィヒテが吾々を魅する第二の要素であらう。尚ほ経済史を学ぶ者にとつては、フィヒテのこの書がその時代の社会関係の反映として、興味ふかいものであることは云ふまでもない。かうした点について、以下少しく述べてみよう。
まづ哲学との関連について。フィヒテの「封鎖商業国家論」の基礎をなしてゐる哲学は、いふまでもなくカントの理想哲学の延長である。だからといつて、此の書が現代において無意義だといふのは正当ではない。むしろ、それによつて此書への関心は倍加されねばならない。マルキストがカント哲学を俗流観念論として冷罵して以来、理想といふ言葉までが野暮くさく看做されてきたのである。けれども今や吾々は、歴史の発展が「必然的」に吾々をみちびく方向にも、もはやかつてのやうなかゞやく希望をもつことが出来ないではないか。理想は、いかなる意味でか、王座を回復しなければならない。そしてそれとともに、先験的理想の哲学は、新しい光のもとに、新しい意味を与へられる日がくるであらう。否、すでに来てゐるのである。〈115~116ページ〉【以下、次回】
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