礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

8月5日午前5時、中央本線が全面開通

2025-02-25 01:31:02 | コラムと名言
◎8月5日午前5時、中央本線が全面開通

 斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第5章の「三、旅客列車の削減と四一九列車の運行」を紹介している。本日は、その二回目。

 この空襲にあった長野行き四一九列車は、削減されなかった列車のひとつであった。また、六時一〇分発名古屋行き五〇一列車に続いて一〇時一〇分に出発するため、比較的利用しやすかった。
 しかし、整備の遅れなどで遅れたり、空襲で運行が妨げられることもしばしばあり、ちょうどこの時も八月二日の八王子空襲で八王子駅などが被害を受けて一部不通となり、四一九列車は四日まで運行されていなかった。
 この空襲では八王子駅構内で本屋〈ホンオク〉、信号扱い所、車掌区、保線区などが焼け、八王子―浅川間の線路が五カ所四六〇メートルにわたって破壊され、枕木が四五〇本焼けた。
 二日の午後九時になって立川―豊田間で運転が再開され、三日の午前九時には豊田―八王子間で蒸気列車が運転され、四日は始発電車から八王子まで運転された。しかし八王子―西八王子間は依然不通のままだった。
 軌道と枕木を交換するなどの応急補修をして五日の午前五時にようやく全面開通し、新宿駅から六時一〇分発名古屋行きの五〇一車が運転された。四一九列車も三日ぶりに運転されることになった。(鴨原吉之助『国鉄の空襲被害記録』、「読売新聞」など)
 四一九列車は、ED16-7号電気機関車が客車七~九両ぐらいを引く列車だった。
 牽引していたED16型機関車は、中型国産機の標準形式として設計され、急勾配の路線用として、幹線用制式機閲車EF52と共に作られた。それまでの機関車の運転台が、輸入機関車の基準で作られ運転しにくかったのに対し、このED16は当時の日本人機関士の体型に沿って作られていたから運転しやすく、運転を楽しみにしていた機関士もいた。
 東海道本線のあとに行なわれた中央本線、上越線の電化に合わせて一九三一(昭和六)年から日立、三菱、芝浦、川崎の四社が一八両製造し、このED16-7は芝浦製だった。
 そして一九三一年五月一三日の東京を振り出しに、国府津〈コウヅ〉、水上〈ミナカミ〉、八王子などの機関区を経て、一九四三年四月五日には甲府機関区に移り、空襲にあった時は甲府機関区に所属していた。
 その後、一九五三年四月五日には八王子機関区、五九年には西国立〈ニシクニタチ〉支区(西国立支区は六三年に機関区に昇格して立川機関区と改称)と移った。(『鉄道ビクトリアル』一九六三・九・一)一方、一九七七年までにすべてのED16が立川機関区に集められ、青梅、五日市、南武線の貨物輸送に使われた。そのほとんどがタンク輪送と奥多摩や五日市から産出される石灰石〈セッカイセキ〉輸送だった。
こうしてED16は半世紀も働き続けたあと、7号は一九八一年二月一二日、国鉄の大宮工場で解体され、その他のED16も前後してすべて解体された。
 ED16は最高時速六五キロメートルとさほど出ないかわりに牽引力が強く、上越線、中央本線の「山線」、つまり勾配が急な地域で貨物列車を引いていた。しかし、戦局が悪化してくると、機関車を旅客列車用、貨物用と区別して連転している余裕がなくなり、この機関車も旅客用に使われていたのである。
 当時の中央本線の旅客列車は、勾配と機関車の関係で客車は最大でも九両しか連結されていなかった。その客車も「木製車のオンパレードの中に申し訳け程度の半鋼鉄車が入ってい」たという。(『鉄道と街・新宿駅』)多くの方の証言からすると、この列車には七両から九両が引かれていた。〈256~258ページ〉【以下、次回】

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