礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

青木茂雄「記憶をさかのぼる」その5

2017-12-07 02:29:58 | コラムと名言

◎青木茂雄「記憶をさかのぼる」その5

 数日前、青木茂雄氏から、「自伝」の続きが送られてきた。本日および明日は、これを紹介する。本日、紹介するのは、「わたしの幼少期(5)」と題する文章で、「みんなが貧しかった」という見出しがある。
 
記憶をさかのぼる    青木茂雄
わたしの幼少期(5)

みんなが貧しかった
 小学校入学の1年前の昭和28年4月に、水戸市立新荘幼稚園に入園した。1クラス30人ほどで、全部で4クラスあったように記憶している。そうとうの大所帯である。当時ようやく普及し始めた幼稚園教育で、1年保育である。戦後のベビーブームの波が大挙して学齢期にさしかかろうとしている頃であった。新荘幼稚園は新荘小学校の隣りに併設されていた(5年ほど前に小学6年のクラス会でその場所を訪れてみた。幼稚園はとうの昔に閉園されて今は地域のコミュニティセンターのようなものになっていた。当時の建物は当然何も残っていない)。
 この1年間の幼稚園での出来事は、不思議と記憶にあまり残っていない。ただ遊んで暮らしたというだけで、何かをやったという印象がない。園児の数は多く、やたらと騒がしかった。劇をやったり、紙芝居を見たり、歌を歌ったり、踊ったり、工作なんかをしたようだが、あまり憶えていない。
 当時のことを記録した写真もほとんどない。私自身のかすかな記憶以外に何も残っていない。おそらく今の20歳代以下の人の場合、ホームビデオやスナップ写真、その他いちばん本人に関する記録の多いのが、この幼稚園期ではあるまいか。
 この昭和28年という年は、後に映画を多く見るようになって以後は小津安二郎の「東京物語」の公開年としてまず頭に浮かぶ。終戦7年が経過して、東京が戦後の形を成してきたころである。映画のロケが行われたのがその前年の27年ころであろうが、私はこの映画を観るたびに、4、5歳であった当時の私を思い浮かべる。
 さて、4、5歳のころはまだ、自分の境遇というのがわからない。金持ちであるのか、貧乏であるのか、社会的地位が高いのか、低いのか、まったく眼中にない。それに加え、ごく一部を除けばこのころは皆一様に貧しかった。「貧乏」が意識されるのは、耐久消費財が少しずつ行き渡り始めた昭和30年代以降であるように思う。
 貧しさが普遍的である一方、私には「飢えた」という経験はない。多少とも物心がついてからは、「買い出し」によってその日の食料を得たという、良く映画の中などに出でくるそういう風景も、私の記憶の中にはない。その意味で私の記憶の中に直接に戦争につながるという出来事の記憶はない。私の長兄(私より6歳年長)や次兄(私より4歳年長)にはその経験が生々しくあるようだ。とくに長兄は砲弾の破片で脚を負傷している。
 しかし、この国が戦争に負けたということはいつのまにか知ることになった。その知識をいつどこで得たのかというはっきりした記憶もない。どうやら「くうしゅう」や「かんぽうしゃげき」という言葉から、何か大変なことがつい最近起こったのだということは薄々分かってきたようだ。日立市助川の仮住居を覆っていたトタン板からもそのことは知れたはずだが。
 父も母も、私がもの物心ついて以後は、最近の戦争のことはほとんど話すことはなかった。わが家では、家族のみならず近い親族の中にも、幸いにも戦争が直接の原因で命を失った者が一人もいなかったこともその理由なのかもしれないし、毎日生きるのに精一杯で話す余裕もなかったのかもしれない。母は当時住んでいた水海道から東京の方が真っ赤に燃えるのを鬼怒川の堤防の上から見たということをよく話していたが、私はこれを東京の空襲と勘違いをしたこともあったが、それは関東大震災の時の話であった。
 父は入隊はしたが、内地勤務で戦地には行っておらず、鉄砲の弾の下をくぐってはいない。胸を患ったせいか、早めに除隊したらしい。それに軍隊生活にはまったく適応しなかったようであった。兵舎での共同宿泊が大の苦手で、夜は不眠症に悩まされた、ということである。
 この頃は、街の所々にまだ焼け跡が放置されていた。一番大きく、しかも最後まで残っていたのが、家から歩いて20分ほどのところにある、旧制水戸高校の廃墟であった。私がそこのすぐ裏手にある新制の水戸第一中学校に入学する少し前までは廃墟のままであった。その頃に、敷地の中に入って廃墟で遊んだ記憶がある。
 このように戦争の爪痕が残っていたにもかかわらず、私には「戦争」ということの意識がほとんどなかった。「戦争」について改めて知ったのは、小学校に入って3、4年たったころからである。このきっかけとなったのが、夏の夜に小学校の校庭で行われた映画会である。広島・長崎の原爆を題材とした記録映画で、そのタイトル『生きていてよかった』だけは憶えていた。亀井文夫監督の記念碑的な作品であることは後にわかった。
 私が「歴史」というものと向き合いはじめたのもその頃からであったように思う。これについては後述する。

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