礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

八王子市は8月2日未明に大空襲を受けていた

2025-02-26 01:37:42 | コラムと名言
◎八王子市は8月2日未明に大空襲を受けていた

 斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第5章の「三、旅客列車の削減と四一九列車の運行」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 八王子への小型機の空襲
 湯の花〈イノハナ〉トンネルがある浅川町や八王子市では、この空襲までにしばしば小型機の空襲にみまわれていた。P51は伊豆諸島に沿って北上し、途中から分かれて関東各地に侵入したが、相模湾から入って相模平野を北上してくるコースにあたるためであった。
 二月一七日の艦載機の初来襲の時には、八王子の小宮町〈コミヤマチ〉高倉、旧元八王子村、旧由井村小企比〈コビキ〉、旧由木村中山などで機銃掃射をしたり爆弾を落としたりして、その恐ろしさを市民にしらしめた。しかし、中央本線の列車などへの攻撃はなかった。
 P51が初めて八王子を空襲したのは一九四五年五月二五日だった。この日お昼ごろ、浅川駅とその周辺が北方から現われたP51の機銃掃射をうけ、駅の南側にあった日本発送電倉庫と近くの山林から火災が発生した。当時、この駅の南西側一帯の山々には中島飛行機武蔵製作所が地下工場を建設しており、それをねらったと考えた人もいた。八王子のようにまわりを山にかこまれた地域では、小型機は轟音とともに突然に山かげからあらわれたから、人々は隠れるの準備も十分にできないまま銃撃にさらされたのである。
 その後もP51による空襲は続き、六月一一日の空襲では八王子市内が機銃掃射を受け、七月六日には市内への銃撃のほか、焼夷実砲により旧加住村〈カスミムラ〉高月〈タカツキ〉円通寺が焼失した。
 さらに七月八日には浅川駅でドラム罐を積んでいた停車中の貨車が銃撃を受け、火災が発生、駅員一名が重傷、二名が軽傷を負い、子どもひとりが負傷した。旧元八王子村でも隣保館〈リンポカン〉に集団学童疎開で来ていた品川区立原国民学校初等科四年生の神尾明治〈カミオ・アキジ〉が亡くなった。(このことについては古世古和子〈コセコ・カズコ〉『ランドセルをしょったじぞうさん』として知られている)
 七月二八日には、旧元八王子村で元八王子村国民学校が銃撃を受け、横山村では焼夷実砲で民家一戸が焼失している。東京都西多摩郡西秋留村〈ニシアキルムラ〉(現・秋川〈アキガワ〉市)では、やはり学童疎開中の岡崎和雄が銃撃で亡くなっている。
 このように、七月に入るとP51は八王子市内外にも頻繁に来典し、交通機関や学校なども 狙って機銃掃射を繰り返したのである。
 一方、この年の六月からは中小都市空襲が始まり、地方の主要都市が空襲を受けていったが、ついに八王子市も八月二日未明にB29、一六九機による大空襲を受けた。市街地の八六パーセントが焼け野原になり、小型機が飛来した時に姿を隠す建物は焼けのこった土蔵ぐらいしかなくなってしまった。
 早くも翌日の三日にはP51が飛来し、市内八日町に銃撃が加えられたといわれる。
 そして八月五日を迎えたのである。〈258~260ページ〉

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