◎山梨や長野へ向う人たちが新宿駅にやってきた
斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)の紹介を続ける。
本書中の白眉は、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」ではないだろうか。
そこには、当日、どういう人たちが、どのような事情で、この列車に乗り込むことになったのかということが、克明に描かれている。その全文を紹介したいところだが、29ページ分もあるので(29~57ページ)、ここでは、その要所要所を紹介してゆくことにしたい。
以下は、「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」の節の「八月五日、快晴」の項の前半部分である。同項の後半部分は、割愛した。
一、長野行き四一九列車、悲劇への出発
八月五日、快晴
一九四五(昭和二〇)年八月五日、快晴、朝から暑かった。
国鉄中央本線は八月二日の八王子空襲で不通になって以来、三日ぶりに全面的に開通した。そのうえ戦時中とはいえ日曜日ということもあり、山梨や長野へ向かおうという人が、朝早くから新宿駅にやって来ていた。新宿駅はこの時、五月二五日の空襲で「西口のコンコースは全焼、ホームは東京駅同様屋根がなくなり鉄骨のみ、ホームに立つと青空がおがめ」るよう(『鉄道と街・新宿駅』)なありさまであった。
一九三三(昭和八)年から運行が始まった中央線の長野、山梨方面への中距離列車は、三五年ごろには二番線が中央線列車の到着ホームで、三番線が出発―ムだったというから、乗客はこの時も三番線ホームに集まってきたのであろう。
彼らが乗ろうとしていた一〇時一〇分発、長野行き四一九列車の機関士は八王子機関区の鈴木頼之、車掌は女性だったといわれている。
乗客のほとんどはリユックサックや風呂敷などなにがしかの荷物を持ったり背負ったりしていた。それには貯金通帳や現金などの財産、故郷や疎開先に待つ家族、知人などに届けるための食料や衣類などのおみやげがつまっていた。物不足の時代だったからどれも生活に欠かせない大切なものばかりだった。
乗客の中には兵隊の姿も多かった。兵隊には部隊に屈ける電線などの物資を持っているものもいた。
兵隊を除くとほとんどの人は、苦労してやっと手に入れた切符で乗ろうとしていた。というのも、当時は列車の本数が削減されていたうえ、大混雑をさけ、運行を円滑にするために切符の発売そのものが駅で制限されており、なかなか買うことができなかったからである。
当時の旅客は「通勤旅客」、「軍公務旅客」、「国策集団旅客」、「軍隊」、そして「一般旅客」の五種類に大別されていた。
ちょうどこの年の六月一〇日、国鉄では大幅な時刻改正を行い、軍事輪送を確保するために旅客列車を三割も減らしていた。戦争末期でもあり、軍隊はもちろんのこと、通勤旅客や軍公務旅客などはできるだけ輪送を確保するものとされたから、乗客として減らす対象となるのはすべて一般旅客となり、三割どころか五割、あるいはそれ以上になると推定された。国鉄ではなるべく私的な旅行を避けるように繰り返し呼びかけていた。
乗車を制限するため、乗車券は「軍公務公用旅行」と「一般旅行」に分けて各駅に割り当てられ、その日の割り当て枚数に従って順次発売されていたから、一般旅行客が乗車券を手に入れるのは大変だった。もちろん、私的な旅行でも緊急の用務だった場合は、主要駅に配置されている旅行統制官に申し出て審議をしてもらい、必要と判断された場合には乗車券を発売してもらえることになっていた。しかし実際は、駅で長いこと並んでやっとのことで切符を手に入れたり、知人に頼んで手に入れたりしていたのである。〈29~31ページ〉
斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)の紹介を続ける。
本書中の白眉は、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」ではないだろうか。
そこには、当日、どういう人たちが、どのような事情で、この列車に乗り込むことになったのかということが、克明に描かれている。その全文を紹介したいところだが、29ページ分もあるので(29~57ページ)、ここでは、その要所要所を紹介してゆくことにしたい。
以下は、「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」の節の「八月五日、快晴」の項の前半部分である。同項の後半部分は、割愛した。
一、長野行き四一九列車、悲劇への出発
八月五日、快晴
一九四五(昭和二〇)年八月五日、快晴、朝から暑かった。
国鉄中央本線は八月二日の八王子空襲で不通になって以来、三日ぶりに全面的に開通した。そのうえ戦時中とはいえ日曜日ということもあり、山梨や長野へ向かおうという人が、朝早くから新宿駅にやって来ていた。新宿駅はこの時、五月二五日の空襲で「西口のコンコースは全焼、ホームは東京駅同様屋根がなくなり鉄骨のみ、ホームに立つと青空がおがめ」るよう(『鉄道と街・新宿駅』)なありさまであった。
一九三三(昭和八)年から運行が始まった中央線の長野、山梨方面への中距離列車は、三五年ごろには二番線が中央線列車の到着ホームで、三番線が出発―ムだったというから、乗客はこの時も三番線ホームに集まってきたのであろう。
彼らが乗ろうとしていた一〇時一〇分発、長野行き四一九列車の機関士は八王子機関区の鈴木頼之、車掌は女性だったといわれている。
乗客のほとんどはリユックサックや風呂敷などなにがしかの荷物を持ったり背負ったりしていた。それには貯金通帳や現金などの財産、故郷や疎開先に待つ家族、知人などに届けるための食料や衣類などのおみやげがつまっていた。物不足の時代だったからどれも生活に欠かせない大切なものばかりだった。
乗客の中には兵隊の姿も多かった。兵隊には部隊に屈ける電線などの物資を持っているものもいた。
兵隊を除くとほとんどの人は、苦労してやっと手に入れた切符で乗ろうとしていた。というのも、当時は列車の本数が削減されていたうえ、大混雑をさけ、運行を円滑にするために切符の発売そのものが駅で制限されており、なかなか買うことができなかったからである。
当時の旅客は「通勤旅客」、「軍公務旅客」、「国策集団旅客」、「軍隊」、そして「一般旅客」の五種類に大別されていた。
ちょうどこの年の六月一〇日、国鉄では大幅な時刻改正を行い、軍事輪送を確保するために旅客列車を三割も減らしていた。戦争末期でもあり、軍隊はもちろんのこと、通勤旅客や軍公務旅客などはできるだけ輪送を確保するものとされたから、乗客として減らす対象となるのはすべて一般旅客となり、三割どころか五割、あるいはそれ以上になると推定された。国鉄ではなるべく私的な旅行を避けるように繰り返し呼びかけていた。
乗車を制限するため、乗車券は「軍公務公用旅行」と「一般旅行」に分けて各駅に割り当てられ、その日の割り当て枚数に従って順次発売されていたから、一般旅行客が乗車券を手に入れるのは大変だった。もちろん、私的な旅行でも緊急の用務だった場合は、主要駅に配置されている旅行統制官に申し出て審議をしてもらい、必要と判断された場合には乗車券を発売してもらえることになっていた。しかし実際は、駅で長いこと並んでやっとのことで切符を手に入れたり、知人に頼んで手に入れたりしていたのである。〈29~31ページ〉
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