◎警報発令中だったが、列車は八王子駅を出た
斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
本日は、その四回目で、「八王子駅午前一一時三分」の項(51~55ページ)を紹介する。ただし、途中、52~54ページにあたる部分は割愛する。
八王子駅午前一一時三分
八王子駅では乗務員の交代が行なわれ、新宿から運転してきた鈴木機関士は降りて甲府機関区の竹井機関士に代わり、小尾機関助士、河野運転教習生、深沢隆機関助士見習いの計四人が運転台に乗りこんだ。
駅のホームには三日ぶりの全面開通を待ちわびた人々が荷物を抱えていた。彼らは八王子市内から来たり、八高線〈ハチコウセン〉で埼玉県から、あるいは横浜線を使って神奈川県の相模原〈サガミハラ〉などからやってきていた。
神奈川県横浜市鶴見区から八王子市本町〈ホンチョウ〉二丁目の親戚に息子二人を連れて七月初めに疎開してきた星野コト(三三歳)は、七月一四日に三男を出産していた。空襲で疎開先を焼かれ、バラック住まいをしていたので、神奈川県津久井郡の千木良〈チギラ〉の実家に再疎開しようと、生まれたばかりの三男を背負い、六歳の長男の賢一と次男の手を引いて一両目に乗りこんだ。
わずか四ヵ月前に、父親の縁故を頼って東京都豊島区東長崎から神奈川県津久井郡小原町〈オバラマチ〉に疎開をし、そこから中央線で東京都立第四高等女学校(現・都立南多摩高校)に通っていた高橋道子(三年生)は、一〇日ほど前から中耳炎になり医者にもかかっていた。この日、その耳の具合があまりよくなかったが、母が「今日はいかない方がいいのではないか」と言うのを振り切って登校した。先生や友逹は大勢来ていて仕事をしたが、やはり具合が悪いのは治らず、友達より一足早く下校して、この列車に乗りこみ「後より二両目か三両目のデッキより一寸中に入った通路に立っていた」。(体験記)
【中略】
午前一一時七分に発車するはずだった四一九列車が実際に発車をしたのは、一一時一五分の警戒警報が発令されたあとだった(あるいは三〇分の空襲警報後だったかもしれない)。この警報は、伊豆諸島上空を北上するP51の編隊が確認されたためのものだった。しかし八王子駅では、P51は北上中でまだ来ないと判断したのであろうか警報発令中にもかかわらず列車は発車した。
しばらくの間、窓の外には焼け跡が広がるばかりだったが、線路が左に曲がるころから畑が広がりだした。西八王子駅を通過してからは列車は直進し、京王御陵線(大正天皇の多摩陵に参拝する客を目当てに北野駅から敷かれた線だったが、一九四五年一月運行は中止されていた)の鉄橋をくぐり、東浅川駅を右に見ながら通過し、緑連なる山々の手前にある浅川駅に着いた。予定では午前一一時一七分に到着するはずであった。
都立第四高等女学校は八王子市明神町(みょうじんちょう)にあった。最寄りは八王子駅である。小原町に疎開していた同校三年生の高橋道子は、最寄りの与瀬駅(現・相模湖駅)から八王子駅まで通っていたのである。
東浅川駅とあるのは、中央本線にあった駅で、正式名は「東浅川仮停車場」か。多摩御陵の近くに設けられていた、皇室専用の乗降施設だったが、1960年に廃止。
斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
本日は、その四回目で、「八王子駅午前一一時三分」の項(51~55ページ)を紹介する。ただし、途中、52~54ページにあたる部分は割愛する。
八王子駅午前一一時三分
八王子駅では乗務員の交代が行なわれ、新宿から運転してきた鈴木機関士は降りて甲府機関区の竹井機関士に代わり、小尾機関助士、河野運転教習生、深沢隆機関助士見習いの計四人が運転台に乗りこんだ。
駅のホームには三日ぶりの全面開通を待ちわびた人々が荷物を抱えていた。彼らは八王子市内から来たり、八高線〈ハチコウセン〉で埼玉県から、あるいは横浜線を使って神奈川県の相模原〈サガミハラ〉などからやってきていた。
神奈川県横浜市鶴見区から八王子市本町〈ホンチョウ〉二丁目の親戚に息子二人を連れて七月初めに疎開してきた星野コト(三三歳)は、七月一四日に三男を出産していた。空襲で疎開先を焼かれ、バラック住まいをしていたので、神奈川県津久井郡の千木良〈チギラ〉の実家に再疎開しようと、生まれたばかりの三男を背負い、六歳の長男の賢一と次男の手を引いて一両目に乗りこんだ。
わずか四ヵ月前に、父親の縁故を頼って東京都豊島区東長崎から神奈川県津久井郡小原町〈オバラマチ〉に疎開をし、そこから中央線で東京都立第四高等女学校(現・都立南多摩高校)に通っていた高橋道子(三年生)は、一〇日ほど前から中耳炎になり医者にもかかっていた。この日、その耳の具合があまりよくなかったが、母が「今日はいかない方がいいのではないか」と言うのを振り切って登校した。先生や友逹は大勢来ていて仕事をしたが、やはり具合が悪いのは治らず、友達より一足早く下校して、この列車に乗りこみ「後より二両目か三両目のデッキより一寸中に入った通路に立っていた」。(体験記)
【中略】
午前一一時七分に発車するはずだった四一九列車が実際に発車をしたのは、一一時一五分の警戒警報が発令されたあとだった(あるいは三〇分の空襲警報後だったかもしれない)。この警報は、伊豆諸島上空を北上するP51の編隊が確認されたためのものだった。しかし八王子駅では、P51は北上中でまだ来ないと判断したのであろうか警報発令中にもかかわらず列車は発車した。
しばらくの間、窓の外には焼け跡が広がるばかりだったが、線路が左に曲がるころから畑が広がりだした。西八王子駅を通過してからは列車は直進し、京王御陵線(大正天皇の多摩陵に参拝する客を目当てに北野駅から敷かれた線だったが、一九四五年一月運行は中止されていた)の鉄橋をくぐり、東浅川駅を右に見ながら通過し、緑連なる山々の手前にある浅川駅に着いた。予定では午前一一時一七分に到着するはずであった。
都立第四高等女学校は八王子市明神町(みょうじんちょう)にあった。最寄りは八王子駅である。小原町に疎開していた同校三年生の高橋道子は、最寄りの与瀬駅(現・相模湖駅)から八王子駅まで通っていたのである。
東浅川駅とあるのは、中央本線にあった駅で、正式名は「東浅川仮停車場」か。多摩御陵の近くに設けられていた、皇室専用の乗降施設だったが、1960年に廃止。
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