◎若き日の伊藤博文は密偵として彦根藩に潜入していた
昨年、古書展で国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)という冊子を入手した。
国民新聞社は、一九二九年(昭和四)一〇月二六日夜、東京市公会堂で、「伊藤博文公遭難二十周年」を記念する講演会を開いた。右の冊子は、そのときの講演記録である。
なかなか興味深い文献であるが、本日は、その中から、元田肇〈モトダ・ハジメ〉の「伊藤公を憶ふ」の一部を紹介してみよう。
一、少壮、長藩の密偵として彦根藩に住み込む
さて伊藤公は少壮にして木戸〔孝允〕公に従ひ、各地に奔走されたといふことは皆様ご承知のことゝ存じますが、僅か十幾歳の時に長藩の密偵して井伊家の老職の家に若党として住み込み、幕府方の動静を探られて居つたといふことであります。このことは私が曽つて東海道の汽車中で元彦根藩士の谷鉄心翁に聞いたのであります。谷翁は今日のことは知らぬが、維新前のことならば生き歴史といつてもよいと色々話を致しまして、その中に明治維新になりまして京都で参与その他の役人が勤王の志士中より選任され、谷翁もその中の一人で太政官に出仕中、「私は今日兵庫県令に拝命致しました不肖の身でありますが何分宜しく願ひます」と挨拶に来た男がある。それを見るとどうも何処かに顔に覚えがある「どうも君は始めて御目にかゝるのではない、何処かで会つたことがある様だ」と申しますと、「私は屡々お宅に伺つたことがあります」「どういふ機会に」「実は若い時分に彦根藩の老職の某家に若党として住み込んで居りました、その際貴方のお顔を拝しました」といふのを聞き、茲に始めて長藩の密偵たりしを知り驚きました。世の中に伊藤公は文弱の政治家で胆力に乏しいといふものがあるが、僅か十七、八歳の時に長藩の密偵となつて幕府方の中心彦根藩の老職の若党に住み込んで、その秘密を探るといふことは胆力のないものが出来るものか、今の奴等は何に知らぬのだと云はれ、私も始めて之を知つたのであります。伊藤公が少壮の頃から如何に藩の先輩から認められたかはこの一事でも知らるゝのであります。
ウィキペディアの「元田肇」の説明、コトバンクの「谷鉄臣」(鉄心は号)の説明を紹介しておく。
元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日(安政5年1月15日)-1938年(昭和13年)10月1日)は、明治、大正、昭和期の日本の政治家。号は国東。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣(初代)を歴任した。中央大学創立者18人の内の一人。
谷 鉄臣 たに-てつおみ 1822-1905 幕末-明治時代の武士,官吏。文政5年3月15日生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)彦根の町医者の長男。江戸、長崎で経学、蘭方をまなび、家業をつぐ。文久3年彦根藩士にとりたてられ、藩の外交を担当。維新後は新政府の左院一等議官。明治38年12月26日死去。84歳。旧姓は渋谷。初名は退一。字(あざな)は百錬。通称は■太郎。号は太湖。*■は、馬ヘンに留
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