礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

あの三人は八王子の奇人といわれる人達だから……

2019-07-21 02:59:38 | コラムと名言

◎あの三人は八王子の奇人といわれる人達だから……

『丘もゆる』(『暴風雨の中で』の出版を祝う会、一九九七)から、田中紀子さんの「『暴風雨の中で』の出版記念会によせて」という文章を紹介している。本日は、その三回目。

 私は昭和十六年〔一九四一〕三月末迄、八王子尋高〔八王子尋常高等小学校〕に勤めておりましたが、四月からは日野第一小へ転勤になりました。足掛け五年の八王子勤務でしたが、その間に「ようらん社のおじさん」こと橋本義夫さんから教えられたことや、ここで紹介された人々との交際は、その後もずっと続けられ現在に到っております。故人になられた方も多いわけですが、中でも、松井翠次郎〈スイジロウ〉さんと、須田松兵衛〈マツベエ〉さん、太田秀穂〈ヒデオ〉先生は忘れがたい人物でした。松井翠次郎さんはベレー帽のよく似合う、当時としてはたいへんモダンな方で、郡役所に勤めておられましたが、考えることも新鮮味があり、勉強家でもありました。歯医者の須田松兵衛さんは、たいへん真面目な方で、頑固ではあったが几帳面な方であり、第三小学校の後援会の役員もしておられました。童話の本を沢山集めていらして、時々貸していただきました。この須田一族については、昭和六十年〔一九八五〕十月六日、日野市で動物病院を営む須田沖夫氏(私の友人の須田静子さんの息子さん)の手によって、『五臓圓〈ゴゾウエン〉松五郎と八王子須田一族』という立派なご本が刊行され、私も一冊いただきましたが、八王子須田一族のご先祖、武州高麗郡より五臓圓松五郎が武州八王子横山宿に移り住み、以来百五十年を迎えようとし、また、初代松五郎の生誕二百年を記念して、八王子須田一族二百年の記録としてまとめられたものでした。そのあとがきに、昭和六十年の夏、橋本義夫さんが亡くなられ、見ていただけなかったことが非常に残念であったと記されております。
 橋本さんと松井さんと須田さんの三人がたまたま「ようらん社」で一緒になる時は、三人がお互いに時勢を論じ、悲憤慷慨し、未来への希望を語り合うのでした。私は一人聞き役でしたが、時間の経つのも忘れて聞き入るのは実に楽しくまた、勉強になりました。教員の中には、あの三人は八王子の奇人といわれる人達だからつき合わない方がよいなどと変な忠告をする人もおりましたが、私の社会生活の初めに、この方々に巡り合えたことは、私の一生にとっては実に得がたい指針を与えてくださったことと思われます。【以下、次回】

 文中、「日野第一小」とあるが、当時の日野は南多摩郡日野町である(現・日野市)。また、一九四一年(昭和一六)四月一日から、尋常小学校は国民学校と改称されたので、日野第一小は、たぶん「日野第一国民学校」と呼ばれるようになったと思う。ちなみに、八王子尋常高等小学校は、同日から、八王子第七国民学校と改称。
 また、「あの三人は八王子の奇人といわれる人達」という言葉がある。さしずめ、「八王子の三奇人」といったところか。松井翠次郎(一九〇二~一九八八)は、農民生活改善運動で知られる文化人。南多摩郡恩方村(おんがたむら)出身。須田松兵衛は、代々この名前で入れ歯師を務めてきた一族のようだ。ここでいう須田松兵衛の生没年は、まだ調べていない。多摩勤労中学(現・八王子学園)が創立されたとき、それを支援した地元有志のひとりである。橋本義夫(一九〇二~一九八五)は、ふだん記運動で知られる在野の文化人。南多摩郡川口村出身。ここまでが三奇人。太田秀穂(一八七四~一九五〇)は教育者で、多摩少年院初代院長として知られる。

*このブログの人気記事 2019・7・21(8位に珍しいものが入っています)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 八王子で一番の本屋さんは「... | トップ | この時の教え子の一人が小町... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事