◎伊藤博文、岩倉具視に頼まれ大久保利通の幕賓となる
昨日の続きである。国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、元田肇の「伊藤公を憶ふ」を紹介している。
この文章(講演の速記録)は、前置き的な文章のあと、「一、少壮、長藩の密偵として彦根藩に住み込む」、「二、身命を賭して国事に奔走す」、「三、日露開戦と公の決断」、「四、立憲政友会の創立」と続き、「五、国歩艱難の秋偉人を思ふ」で終わる。昨日は、「一、少壮、長藩の密偵として彦根藩に住み込む」の全文を紹介したが、本日は、「四、立憲政友会の創立」の最後のところを紹介する。
尚ほ一言〈イチゴン〉せねばならぬことがあります。そは公が薩長の間にありて亀裂動揺を防止した事であります。幕府政権を奉還し、三百諸侯封土を返還し、維新の大業も漸く確立せんと致しましたが、薩長の間に動も〈ヤヤモ〉すれば亀裂動揺の端を発せんとした。岩倉〔具視〕公はこれを憂ひて伊藤公に向ひ、誠に忍びないところであるが、お前は長州人であるけれども、大久保〔利通〕側に居り調停を図つて呉れと懇望せられました。茲に於て伊藤公は表面木戸〔孝允〕侯に背いた形になつて、大久保公の幕賓となり、薩長間の亀裂を防止するに努めたのであります。私共がこの事実を知り得たのは伊藤公の還歴祝の席でありました。山県〔有朋〕公が祝辞を草して贈られました。その文中に伊藤公が国家のために尽されたことは幾等〈イクラ〉あるか知れぬが、多くは世上に知られてゐる、秘密のことも沢山あるが併しこれも知るものは知つてゐる。唯一つ知れて居らぬことで伊藤公が終生遺憾に思つてゐられることが一つある、これは山県が云ふよろ外あるまい。維新の業漸く成らんとして薩長の勢力争が起り、如何なることになるかも分らぬといふ場合に、伊藤公が岩倉公の頼みに依り大久保の幕賓となつて薩長の間を調停し、途に破綻に至らしめなかつたその苦心は山県より外に証明するものはない、今日は還歴の宴を開くまでに天寿を全うされて芽出度い〈メデタイ〉といふ祝辞を読まれた時であります。この時伊藤公は井上〔馨〕伯等の旧志友と相抱擁し泣いて当年の苦衷を語られ、桂〔太郎〕首相が来賓を代表しての祝詞には耳をも傾けず、桂公は不満に思はれた程であつたといふことであります。
マの「翔ぶが如く」では、伊藤は(大久保の台湾
出兵に反対して)病床から起き上がろうとする木
戸を嗜めていました。