礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

渋沢栄一における萬屋主義と合本主義

2019-04-25 05:15:26 | コラムと名言

◎渋沢栄一における萬屋主義と合本主義

 土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介している。本日は、その八回目(最後)。「(五)萬屋主義と合本主義」の全文を紹介する。今回、引用した部分にある二か所の『 』のうち、最初のものは、渋沢栄一の文章から引いたものと思われるが、あとのものは、別の文献から引いたものであろう。

    (四) 萬屋主義と合本主義
 明治三十三年〔一九〇〇〕渋沢は多年実業界に尽力した功労により華族に列せられ、男爵を受けられた。龍門社はこの年授爵と環暦を祝して「青淵【せいゑん】先生六十年史」二巻を編【へん】して彼に贈つた。この「六十年史」は「一名近世実業発達史」と題されたが、その副題が決して誇張でないことは既に我々がこれを上に見来【みきた】つた処である。彼は銀行、鉄道、海運、紡績等の外殆んど一切の事業――保険、鉱山、織物、製鋼、陶器、造船、瓦斯【ガス】、電気、製紙、印刷、製油、築港、開墾及び植林、牧畜、石油、セメント、麦酒【ビール】製造、帽子製造、製麻、製藍【せいらん】及びインデゴ〔indigo〕輸入、水産、煉瓦製造、人造肥料、硝子【ガラス】製造、熟皮〈ナメシガワ〉、汽車製造、ホテル、倉庫、取引所等に関係し一々挙ぐることは煩瑣に堪へない位である。彼は自ら称して萬屋【よろづや】主義といつた。そしてかくの如く多くの事業に関係するに至つた動機を自ら次の如く語つてゐる。
『維新以来の我国商工業は混沌として適帰【てきき】する所を如らざる状態にあり、恰【あた】かも雑草離々たる原頭に「商工業」と云へる一市街を新設せるが如【ごと】かりき。元来新開地に於ては住民の僅少と購買力の薄弱とによりて、凡百の商估【しやうこ】分業を守りて活計を立つること極めて困難なり。例【れい】せば斯【かゝ】る場所に於て単に呉服商のみを以て生計するは困難なるべく、‥‥茲に於てか呉服商にして荒物商を兼ね、酒屋にして飲食店を兼ねる者を生ずるは、其商店の維持経営上、已【や】むを得ざる事情なりとす。而して維新以来の我国商工界は新開地に打【うつ】て出でたる余をして萬屋主義を取るの已むを得ざるに至らしめたるは、即ち前述の理由に依れり。若し他日我国商工界の進歩欧米先進国と同一の地位に進み、奇材四方に群起して一人一業に専らなるも、尚ほよく凡ての事業を経営して世運の進展に伴ふを得るに至らば、余亦た喜んで萬屋主義を放棄せんのみ。』
 又渋沢が終始合本主義の主唱者であつたことは、前に既に見た所である。
 渋沢の萬屋主義及び合本主義に対して最も之を攻撃し、一人〈イチニン〉一業主義を採つて堅く動かなかつたのは、彼の岩崎弥太郎であつた。十一年〔一八七八〕八月岩崎は一日〈イチジツ〉渋沢を招いて舟遊し、柏屋に酒をくみ、人を退けて実業界の形勢を論じ、大に合本会社主義と個人主義との得失を論争したが、遂に議論一致する所なく相【あひ】別れた。後郵船会社の成立に当つて岩崎も合本主義の必要を知るに至つたが、当時世人はこれを曹操と玄徳の会合に比したといふ。
 後れて舞台に登場した日本資本主義が急速に世界的水準に自らを高めるためには、即ち、『封建的生産様式から資本家的生産様式への転化過程を、温室的に促進し、且つその過渡を短縮するために、社会の集積され、且つ組織された強制力たる国家権力』が利用されねばならなかつたと同じく、かゝる萬屋主義もその成立の特殊条件によつて急速に発展せしめられなければならなかつた日本資本主義の必然的な要求であつたのである。又彼の主唱した合本主義が、資本主義発展の基本的な方向に添ふものであつたことは、云ふまでもない。

 文中、「合本主義」には、【がふほんしゆぎ】というルビが振られているが、これは「がっぽんしゅぎ」と読むのが正しい。ちなみに、本書の一七四ページ等では、「合本」に【がつぽん】というルビが振られている。「合本」とは、一か所に資金と人材とを集中するという意味だという。

*このブログの人気記事 2019・4・25(なぜか『暗黒街のふたり』にアクセスが集中)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅野総一郎と渋沢栄一、瓦斯局の払下げをめぐって激論

2019-04-24 05:31:46 | コラムと名言

◎浅野総一郎と渋沢栄一、瓦斯局の払下げをめぐって激論

 土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介している。本日は、その七回目。「(四)公正」の全文を紹介する。今回の引用部分『 』に関しては、渋沢栄一以外の者による発言もあるが、それらも含め、おそらくすべて、渋沢栄一の文章から引いたものであろう。

    (四) 公   正
「自由平等」と共に「公正」は新興資本主義によつて高く掲げられた旗印であつた。フエア・プレイは――その裏面に何が隠されてゐるかは今問題でない――新興資本の精神であつたのである。被等は『虚偽に対しては立証を、偽善に対しては公正』を対抗せしめた。凡【あら】ゆる封建的な暗冥【あんめい】は、資本主義的「公明」にとつて代られねばならない。
 渋沢は常に昔の商業と今の商業とを比較し、昔の商人は偽【いつはり】も資本の一部分と言ひ伝へたが、今日にあつては最早かゝる考へは商人の社会的地位を卑下【ひげ】せしむるに過ぎないことを説いて、「言【げん】忠信に行【こう】篤敬」なる論語の一句を新しい商人道徳の基礎であるとした。
『商人は責任が重い為に尚更【なおさら】考へて行かなければならぬのが徳義でございます。誤つた言葉に商売人は嘘で固めると云ふことがあります。美は是は大なる間違【まちがひ】、情ない有様で涙が溢れる様に思はれます。然るに是は商人の当り前の言葉だといふ様に人にも言はれますし、商人自身も又さう思うてゐるは実に嘆息に堪へませぬ。元来嘘と掛引とはまるで違ひます』
 東京瓦斯局は明治四年〔一八七一〕東京府知事由利公正【ゆりこうせい】が新吉原に瓦斯灯【ガスとう】を建設せん為めに機械を英国に註文したのに濫觴【らんしやう】したが、十四年〔一八八一〕頃に至り府が瓦斯業の如き営利事業に従事するのを非とする声起り、越えて十六年〔一八八三〕浅野総一郎主となり、府知事松田道之【みちゆき】、府会議員藤田茂吉【しげきち】、沼間【ぬま】守一等【ら】と諮り瓦斯局払下げを企て、当時瓦斯局長に在職した渋沢に援助を求めた。渋沢その条件を問うたに対し、浅野曰く、
『総額十五万円、内五万円を即金納入し、残金十万円は五ケ年賦となす条件である。』
 渋沢はその余りに不当なるに怒り、声を励して言つた。
『足下は抑々【そもそも】瓦斯業の事業を以て府に不利益であるとするのであるか。然らば府は不利益なる事業を個人に転嫁する譏【そしり】を免【まぬか】れない。若し又有利有望であるとするならば既に巨額の投資をなしたこの事業を僅々【きんきん】十五万円に払下げるは府民の共有財産に多大の損害を与へることになる。余は何れにせよ、足下の提議に賛成することは出来ない。』
 そこで浅野は声を和【やはら】げて、
『足下の議論は一理あるが、此の事業の将来有望なのは日を見るよりも明らかである。今若し貴下が私のこの計画に賛意を表してくれるならその利益の一半を提供しよう』
 と。渋沢はますます怒りを加へて、
『こは怪【け】しからぬ事を聞く者かな。余は自己の利益を目ざして払下問題を阻止せんとするのではない。擁護するものは公共の利益た。何ぞ足下の甘言に欺かれんや』
 浅野も亦此処に至つて沸然【ふつぜん】として罵つた。
『貴下理に偏して処世の法を知らず、迂腐【うふ】寧ろ愚に類せり』
 声に応じて渋沢も答へた。
『余は狡猾【かうくわつ】盜賊に類するの所業をなさんよりは寧ろ愚人の称を甘受せんのみ』
 浅野との談判破裂となるや、彼は知事、府会議員を説いて浅野への払下を中止せしめ、越えて十八年〔一八八五〕自ら発起して即金二十四万円を以て瓦斯局を払下げて民業とした。これ現在の東京瓦斯会社の前身である。
 我々はこの例を新興資本主義の「公正」なる精神の一例としてこゝに掲げたのではない。その若き時代に於ても資本主義が何を為したかといふことは、幾多の例によつて人々は知つてゐる。だが我々はたゞ渋沢の古武士的風格の一面の現はれがこゝにあることを知ればよい。

*このブログの人気記事 2019・4・24(10位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渋沢栄一、東京大学で銀行と手形の実況について講義

2019-04-23 04:42:07 | コラムと名言

◎渋沢栄一、東京大学で銀行と手形の実況について講義

 土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介している。本日は、その六回目。「(三)学問と実業」の後半部分を紹介する。『 』は、渋沢栄一の文章から引いたものであろう。

 渋沢は德川時代に於ける商業の発達が遅々としてゐた一理由を学問と商業との懸隔に求めてゐた。『かゝる仕事は斯様【かやう】な道理に依て為し得べきものであるといふ攻究』に乏しかつたが故に商業にせよ、工業にせよ、農業にせよ、経験といふ費用のかゝる途【みち】を通じて割出されねばならなかつたのであると考へた。『どうしても事物に就て学問の応用を為し得なければ其事は大きくもならぬし、上手にもならない。尚強めて云へば拡し得られない。』商工業の進歩は今や学理との堅き提携なくしては求められない。彼の商業教育――更に一般教育普及の努力は此処に出発したのである。
 同様な見地から彼は高等教育卒業者が商業社会を志ざすことを歓迎した。かういふ話がある。
 彼が東京府瓦斯【ガス】局に関係してゐた時、技術者を雇入【やとひい】れようとして当時の大学総理加藤弘之に頼んで東京大学の応用化学出【で】の者を世話して貰つた処、其の人について直接相談して見ると、先づ第一にどれ程の給金をくれるか、又どういふ地位に使ふかを尋ねられた。そして云はゞ半官半民といふ様な仕事で給金と云ふと学校の教師よりも安い様に思ふ。左様【さやう】な名誉もなければ利益も少ない所は、大学中の生徒一体の顔に対しても勤めるわけにはゆかぬと拒絶された。此処に於て彼は『国家を裨補【ひほ】するにはお役人さへ造れば、日本の国が大変強くもなり、富みもすると云へぬことは弁を須【ま】たずして明かである。然るに学校で学ぶ人達が左様に実際の商売る若くは工業に付いて働くと云ふことを卑め、且つ嫌と云ふ風【ふう】があつた日には一体此の学校は何の必要になる』と老へて、加藤弘之を訪【た】うて『唯文字上さへ整【とゝの】ひ、理論さへ充分に云ひ役人さへ利巧であつたならば、日本は富み且つ強くなり得る者と思うて御座るか』と問ひ、『どうしても実業に学問を応用させる様に是から先き大学の方針を充分執つて行かねばならぬこと』を力説した。加藤はその説の当然なるに感じ、今後大学もその弊風除去に進むことを約すると共に、この気風一新のためには渋沢自身大学の講壇に上り、学生をして商工業家にも亦かゝる人あり、商工業決して卑しむべきにあらざる所以を示してくれる様に慫慂する所あつたので、渋沢も之を快く承諾し、明治十四五年〔一九八一、一九八二〕の交【かう】東京大学に銀行および手形の実況につき講義し、全学生に多大の感銘を与へた。男爵阪谷芳郎【さかたによしらう】氏も亦当時の聴講生の一人であつたのである。

*このブログの人気記事 2019・4・23(8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京商科大学と渋沢栄一

2019-04-22 01:17:52 | コラムと名言

◎東京商科大学と渋沢栄一

 土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介している。本日は、その五回目。「(三)学問と実業」の前半部分を紹介する。今回の引用部分『 』に関しては、渋沢栄一以外の者による発言もあるが、それらも含め、おそらくすべて、渋沢栄一の文章から引いたものであろう。
 なお、ここで言う「東京商科大学」とは、現在の一橋大学のことである。

    (三) 学 問 と 実 業
 日本に於ても新興資本主義の発展は新しい商業理論を必要としたのである。封建的な大福帳は最早役に立たなかつた。代つて簿記学が研究されねばならない。「銀行」、「手形」、「為替」、「株式」等【とう】の新智識が普及されねばならない。新しい商業教育の要求は新興資本は何は措いても必要とする処であつた。
 今日の東京商科大学は、明治八年〔一八七五〕八月森有礼【いうれい】によつて創設された商法講習所にその歴史を始める。有礼は久しく米国にあつて、同国の商工業の隆盛を見、商業教育普及の必要を痛感せしめられたのであつた。八年十一月有礼特命全権公使として清国駐剳を命ぜられたので、渋沢栄一等【ら】に諮つて商法講習所の事を挙げて東京会議所【くわいぎじよ】の管理に附した。次いで朿京府庁の管理に属し矢野二郎所長に任ぜられた。当時社会百般の事物概【おほむ】ね皆創始に属し、商業教育の如きに至ては世人未だ其必要を感ぜざるのみならず、多くは尚其果して何物たるを知らず、甚しきに至つては此の教育を以て却て『商業衰微の原因たるべしと信じたるものすら』あつた状態であつたので、十二年〔一八七九〕三月東京府会は十二年度商法講習所経費予算四千九百四十八円余に大削減を加へ、僅かに二千五百円の支出を承諾した。しかも遂に十四年〔一八八一〕七月には僅かの多数を以て商業講習所支出を拒絶し廃校の議決をなした。その理由とするものは殆んど取るに足るものがなかつたに反し、講習所存続派は『商法は我国の生命なり。後来【こうらい】我国を富強ならしむるの資本なり。然るに為替の打方【うちかた】も知らずして可なり。我国古来の商法にて足れりとするが如き見解にては恐らくは国家の為国益を謀ること能はざるべし。』と論じて商業教育の必要を高調した。十二年〔一八七九〕に於いて講習所予算削減に反対した福地源一郎〔桜痴〕の主催する東京日日新聞の如きは激越なる調子を以てその廃止に反対した。
 商法講習所委員として創立当時よりその発展に努力してゐた渋沢は嚮【さき】に経費削減に当つは有志者を説いて維持寄附金二百円を募り経費を補充したが、今廃校の悲運に遭ふや、『一般の人民が、即ち商売社会が此の学校の存立を望むといふ事実がありましたに依って』農商務省に建議し、十四年度〔一八八一〕の経費九千六百余円の補助を得て、更に事業を継続するを得た。翌年に至つては宮内省を始め商業家有志より寄附二万余円を得てこれを元資にその存続を計つた。十七年〔一八八四〕三月商法講習所は農商務省の直轄となり、東京商業学校と改称し、二十年〔一八八七〕十月高等商業学校と改めた。文部省移管以来渋沢は同校商議委員としてその発展に尽力したので、十九年〔一八八六〕十二月「商業教育振興」の功により褒状を与へられた。越えて三十三年〔一九〇〇〕には帝国大学に独り商業部門のないのを遺憾とし、高等商業学校の大学昇格運動を起した。当時益田孝の如きは『商人は威張つてはならぬのに学問を尊重し、学問を尊重し、高尚な学理を授けると徒【いたづ】らに気位【きぐらひ】が高くなる弊がある。現在以上に高尚な学問の必要はない。』といつて反対したが、渋沢は、『実業家には見識が必要である。舜【しゆん】も人なり吾も人なりといふ考へがあつてこそ実業界は発達して行くのである。』と論じて譲らなかつた。今日の商科大学はかくてこそ生れ出でたのである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・4・22

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京市水道鉄管問題と渋沢栄一

2019-04-21 11:03:36 | コラムと名言

◎東京市水道鉄管問題と渋沢栄一

 土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介している。本日は、その四回目。「(二)国家と人民――公利と私利」の後半部分を紹介する。『 』内は、渋沢栄一の発言である。

 かゝる資本主義的理解は又彼を安価な国産愛用主義者から区別してゐたところのものである。明治二十五年〔一八九二〕の頃東京市は六百五十万円の費用を投じて市水道改良を計画したので、こゝに其水道用鉄管は内国製を用ふべきか、外国製を用ふべきかに就いて朝野に一大論議が捲き起された。当時市参事会員であつた渋沢は多年瓦斯業【ガスげふ】を経営し、鉄管の製造をなしたる経験から、我国の技術は未だ大鉄管製造には不充分であることを熟知してゐたので、外国製鉄管使用の刺益を虫腿レ、此の際新に製造場を建て新【あらた】に技師職工を集皸めて直ちに多年経験ある外国鋳鉄業と競争をなすことは、結果に於て国家に益なく資本を徒費するものであることを論じ、寧ろ簡易なる瓦斯管【ガスくわん】の如きものから始め技師職工の養成に努むべきことを説いた。然るに内国製使用を主張するものは、我国近年工業の発展は充分に鉄管製造に堪ゆることを主張し、遂には国民の愛国的熱情を煽【あふ】つて外国製使用の利を説く者は外国人と結托して私利を営まんとする奸物であるとの風評を流布し、或は演説により或は新聞紙により渋沢等【ら】に対して痛烈なる攻撃の矢を放つた。
 明治二十五年〔一八九二〕十二月十一日渋沢は侯爵伊逹宗城【だてむねぎ】の病篤きを聞き、侯を今戸の邸に訪【と】はんとし、馬車に乗じて兜町【かぶとちやう】の宅を出て兜橋にさしかゝつた。この時兇徒二人左右より躍り出【い】でて馬足を斬払【きりはら】ひ、直ちに刀を振つて車窓のガラスを突き破つた。しかしながら渋沢はガラスの破片で左掌を傷ついたのみで、御者の機転によつて事なきを得た。渋沢遭難の報伝はるや、兇徒を教唆した者は鋳鉄会社の発起人遠武秀行【とほたけひでゆき】であるとの流言【るげん】がしきりに行はれた。遠武は海軍大佐、現役を去つて実業界に入り渋沢と相知ること久しかつた。数日前【ぜん】に渋沢を訪【と】ひ鋳鉄会社設立に対して賛成を求めたが、渋沢これに応じなかつたので、辞色を変じて激論し、これがためにかゝる流言が行はれたのである。渋沢流言を聞き、『此の流言は遠武の信用を傷【きづゝ】け再び実業社会に立つ能【あた】はざらしむに至る恐【おそれ】がある。』といつて遠武を招き、平日の如く談笑し、両人間【りやうにんかん】に何等【なにら】の忿怨【ふんゑん】もないことを示したので、此に於て流言罷【や】み、鉄管問題を中心とする衝突の気炎も従つて鎮静に帰した。世人渋沢の雅量に敬服したと伝へられてゐる。
 鉄管問題東京市会の議に上るや、又容易に決せず、遂に水道改良工事長たる内務省土木局長工学博士【はかせ】古市公威【ふるいちこうゐ】の意見により、内国製使用に決し、二十六年〔一八九三〕一月東京鋳鉄会社は成立し、遠武秀行社長の任に就いた。後【のち】株式組織とし、雨宮【あめみや】敬二郎、浜野茂等【ら】社長となつたが、果して渋沢の予言の如く、収支償【つぐの】はず、竣工期限の延期を屡々乞ふ有様であつた。そして更に二十八年〔一八九五〕十一月不正品納入によつて一大疑獄起り、会社役員および市会議員中に多くの有罪者を出した。此【こゝ】に於て前に渋沢を攻撃したものも、異口同音に彼の識見を嘆称したといふ。
 日清戦役後の外資輸入に対しても、同様の見地から、国家の信用を云々する排外論に反対して、外資輪入は我商工業の発達にとつて必要であると説いてその実現に努めた。又三十年〔一八九七〕頃外国人が我国設立の会社株券を条約改正前にても適法に所有し得るかの問題が起つた時に、所有し得ることを論じて輿論の喚起に力【つと】めたのも亦同様の根拠によるのである。

*このブログの人気記事 2019・4・21

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする