礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

右以外の日本国の選択は、迅速かつ充分なる潰滅あるのみ

2024-07-06 04:10:21 | コラムと名言

◎右以外の日本国の選択は、迅速かつ充分なる潰滅あるのみ

 井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)から、山田風太郎の「戦中派不戦日記(抄)」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

「お可哀そうに……天皇さま、お可哀そうに……」
 肩をもんで泣きつづけるおかみさんの声をよそに、ラジオは冷静にポツダム宣言成文を読みあげている。七月二十六日、トルーマン、チャーチル、蒋介石によって日本につきつけられたものである。
「一、我ら合衆国大統領、中華民国政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣は、われら数億の国民を代表し、協議の上、日本に対し、今次の戦争を終結するの機会を与うることに意見一致せり。
 二、合衆国、英帝国及び中華民国の強大なる陸海空軍は四方より自国の強大なる陸海空軍による数倍の増強を受け、日本に対し最後の打撃を加うるの態勢を整えたり。右軍備をして、日本が抵抗を終止するに至るまで、同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意により支持せられ、かつ鼓舞せられあるものなり。
 三、蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツの無益かつ無意義なる抵抗の結果は、日本国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合に於て、全独逸国人民の土地産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し、測り知れざる程度に強大なるものなり。
我らの決意に支持せらるる我らの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全なる潰滅を意味すべく、また同様必然的に日本本土の完全なる破壊を意味すべし。
 四、無分別なる打撃により日本帝国を滅亡の淵に陥れ〈オトシイレ〉たるわがままなる軍国主義的助言者に、日本を引続き統御せらるべきか、または理性の経路を日本が踏むべきかを、日本が決定すべき時期は到来せり。
 五、我らの条件は左の如し。我らは左の条件より離脱することなかるべし、左に代わる条件は存在せず、吾らは遅延を認むるを得ず。
 六、我々は無責任なる軍国主義者が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和安全及び世紀の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずる過誤を犯さしめたるものの権力及び勢力は永久に除去せざるべからず。
 七、右のごとき新秩序が建設せられ、かつ日本の戦争遂行能力が破壊せられたることが確証あるに至るまでは、連合国の指定すべき日本領域内の諸地点は、我らのここに支持する基本的自的達成を確保するために占領せらるべし。
 八、カイロ宣言の条項は履行〈リコウ〉せらるべく、また日本国の主権は、本州、北海道、九州、及び四国ならびに我らの決定する諸小島に局限せらるべし。
 九、日本国軍隊は完全に武装解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的なる生活を営むの機会を得しめらるべし。
 十、我らは、日本人を民族として奴隸化し、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも、我らの俘虜を虐待せるものを含む一切の戦争犯罪者に対しては、厳重なる処罰を加えらるべし、日本政府は、日本国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし。言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし。
 十一、日本は、その経済を支持し、かつ公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるが如き産業を維持することは許さるべし。但し日本として戦争のため再軍備を許さしめるがごとき産業はこの限りにあらず。右目的のため原料の入手(その支配とはこれを区別す)は許さるべし。日本は将来世界貿易関係への参加を許さるべし。
 十二、前記目的が達成せられ、かつ日本国民の自由に表明せる意志に従い、平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立せらるるに於ては、連合国の占領軍はただちに日本国より撤収せらるべし。
 十三、我らは日本政府がただちに前記の各軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ右行動における同政府の誠意につき、適当かつ充分なる保証を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は、迅速かつ充分なる潰滅あるのみとす」
 この傲慢なる威嚇、この厳酷なる要求。
 いまここに新聞より再録していても、歯軋り〈ハギシリ〉せずにはいられない。――しかもこれを聴くよりほかはない立場に立たされたのだ。
 首を垂れた。全身に血液がなくなった感じで、足もよろめいた。四人は顔を見合わせて、おばさんの方を振返った。何か言おうと思ったが、声も出なかった。四人は啞のように黙したまま外へ出ていった。
 明るい。くらくらするほど夏の太陽は白く燃えている。負けたのか! 信じられない。この静かな夏の日の日本が、今の瞬間から、恥辱に満ちた敗戦国となったとは!
 四人はひとことも話さなかった。寮に帰って昼食のテーブルについたが、全然食欲がなかった。一口も物をのみこむことが出来ず、僕は箸を捨てた。二階に上ると、暑い灼けた〈ヤケタ〉たたみの上に寝そべった。【以下。割愛】

*このブログの人気記事 2024・7・6(8・9・10位に珍しいものが入っています)

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臥すべき薪なく、嘗むべき胆もなし

2024-07-05 00:24:46 | コラムと名言

◎臥すべき薪なく、嘗むべき胆もなし

 井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)から、山田風太郎の「戦中派不戦日記(抄)」を紹介している。本日は、その三回目。

 ラジオは続いて内閣告諭を伝え初めた。真相は一点の疑惑もなく明らかとなった。
「本日畏くも大詔を拝す。帝国は大東亜戦争に従うこと実に四年に近く、而もついに聖慮を以て非常の措置によりその局を結ぶのほか途なきに至る。臣子として恐懼〈キョウク〉いうべきところを知らざるなり。
 顧みるに開戦以降遠く骨を異域にさらせるの将兵その数を知らず、本土の被害無辜の犠牲またここに極まる。思うてここに至れば痛憤限りなし。
 然るに戦争の目的を実現するに由〈ヨシ〉なく、戦勢必ずしも利あらず、ついに科学史上未曽有の破壊力を有する新爆弾の用いらるるに至りて戦争の仕法を一変せしめ、ついでソ連邦は去る九日帝国に宣戦を布告し、帝国はまさに未曽有の難に逢着〈ホウチャク〉したり。
 聖徳の広大無辺なる、世界の和平と臣民の康寧とをねがわせ給い、ここに畏くも大詔を渙発せらる。聖断すでに下る。赤子の率由〈ソツユウ〉すべき方途はおのずから明らかなり。
 もとより帝国の前途はこれにより一層の困難を加え、さらに国民の忍苦を求むるに至るべし。然れども帝国はこの忍苦の結実によりて、国家の運命を将来に開拓せざるべからず。本大臣はここに万斛〈バンコク〉の涙をのみ、あえてこの難き〈カタキ〉を同胞に求めんと欲す。
 今や国民のひとしく向うべきところは国体の護持にあり。而していやしくも既往に拘泥〈コウデイ〉して同胞相猜し、内争以て他の乗ずるところとなり、或いは情に激して軽挙妄動し、信義を世界に失うがごときことあるべからず。また特に戦死者戦災者の遺族及び傷痍軍人の援護については、国民悉く力を効すべし。政府は国民とともに承詔必謹、刻苦奮励、常に大御心に帰一し奉り、必ず国威を恢弘〈カイコウ〉し、父祖の遺託に応えんことを期す。
 なおこの際特に一言すべきは、この難局に処すべき官吏の任務なり。畏くも至尊は爾臣民の衷情は朕よくこれを知るとのたまわせ給う。官吏はよろしく陛下の有司としてこの御仁慈の聖旨を奉行し、以て堅確なる復興精神喚起の先達とならんことを期すべし。
   昭和二十年八月十四日
      内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎」
【一行アキ】
 ああ、思うてここに至れば痛憤限りなし。…… 
「然れども帝国はこの忍苦の結実によって国家の運命を将来に開拓せざるべからず。本大臣はここに万斛の涙をのみ、敢てこの難きを同胞に求めんと欲す。……」
 復讐せよ、とはすでにいうことが出来ぬ。すでに敵の巨大な影は政府の背後に幻のごとくのしかかっているのである。けれど、この腸をえぐるような老首相の言葉の裏に、何とてそれを思わぬ日本人があろうか。
 臥薪嘗胆! この言葉は三国干渉以来十年の日本人の合言葉であった。しかしこんどの破局はそれと比倫を絶する。再興するにはほとんど百年を要するであろう。しかもその間、臥す〈ガス〉べき薪〈タキギ〉も、嘗む〈ナム〉べき胆〈キモ〉もない惨苦の中に生きることを覚悟せねばならぬ。
 けれど、日本人は「百年後の十二月八日」を心魂に刻みつけて待つであろう。【以下、次回】

 内閣告諭中に「同胞相猜し」とあるが、「相猜し」の読みは不明。意味は「たがいにねたみ」であろう。

*このブログの人気記事 2024・7・5(8位になぜかゲッベルス、9・10位になぜか帝銀事件)

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「おばさん、日本は負けたんだ」山田風太郎

2024-07-04 00:23:34 | コラムと名言

◎「おばさん、日本は負けたんだ」山田風太郎

 井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)から、山田風太郎の「戦中派不戦日記(抄)」を紹介している。本日は、その二回目。

 御放送は終った。みな凝然と佇立〈チョリツ〉したまま動かない。……
 じっと垂れて動かない黒い覆いに煤のたまった電燈。油があちこちにこぼれて黒びかりしているテーブル、棚に並んでいる茶碗どんぶり、色あせたポスターを貼りつけた壁。……冷え冷えとする町の大衆食堂の中に、四人の学生は茫然とうつろな眼を入口の眩しい日光にむけ、主人は端座して唇をかみ、おかみさんは脅えたような眼を天井に投げ、娘は首を垂れ、両腕をだらりと下げたまま立ちすくんでいる。……
「とうなの? 宣戦布告でしょう? どうなの?」
 と、おばさんがかすれた声でいった。訴えるような瞳であった。
 これはラジオの調子が極めて悪く、声がときどき遠ざかり、用語がやや難解で、また降伏などいう文字は一語も使用していないこと――などによる誤解ばかりではない。
 信じられなかったのである。
 日本が戦争に負ける、このままで武器を投げるなど、まさに夢にも思わなかったのである。
「済んだ」
 と、僕はいった。
「おばさん、日本は負けたんだ」
「どうしたんだ? え、どうしてだ?」
 と、驚いたことに柳沢もいった。
 しかしその眼の色は、彼がすでに真実を知っていることを示していた。あの悲痛を極めた音調のみからでも、どうしてそれが悟らずに居られようか。しかし頭はなおこれを否定しているのである。いや、否定したいのである。
「共同宣言を受諾する、という言葉が真っ先にあったろう」
 と、僕は答えた。
「あれはポツダム共同宣言だ。米国、英国、蒋介石の日本に対する無条件降伏要求の宣言をいっているんだ」
「く、口惜しい!」
 と、一声叫んでおばさんは急にがばと前へうつ伏した。はげしい嗚咽の声が、そのふるえる肩の下から洩れている。みな、死のごとく沈黙している。ほとんど凄惨ともいうべき数分間であった。【以下、次回】

 山田風太郎が玉音放送を聞いたのは、「大安食堂」という大衆食堂だったという。安西・柳沢・加藤・山田という医学生四人が、その食堂で放送を聞いた。中華民国留学生の呉は、放送が始まる前にラジオの前を離れた。
 安西・柳沢・加藤・呉が大安食堂にいたのは、たぶん、そこを下宿先としていたからであろう。山田風太郎は、寮に帰る途中、大安食堂に立ち寄ったのである。今日、飯田市主税町(ちからまち)に「ホテル大安」というホテルがあるが、あるいは、大安食堂の後身か。
 インターネット情報(信濃毎日新聞デジタル)によれば、主税町に現存する満津田(まつだ)食堂も、やはり戦争末期、疎開医学生の下宿を引き受けていたという。

*このブログの人気記事 2024・7・4(8・9位は、いずれも久しぶり、10位に極めて珍しいものが)

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その一瞬、全身の毛穴がそそけ立った(山田風太郎)

2024-07-03 02:50:40 | コラムと名言

◎その一瞬、全身の毛穴がそそけ立った(山田風太郎)

 本日も、井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)からの紹介。
 本日は、山田風太郎(やまだ・ふうたろう)の「戦中派不戦日記(抄)」を紹介する。これは、『戦中派不戦日記』のうち、「十五日(水)」、および「十六日(木)」とあるところである。かなり長いので、何回かに分けて紹介する。
  
  戦中派不戦日記(抄)  山田風太郎
  
 十五日(水) 炎天
 ○帝国ツイニ敵ニ屈ス。

 十六日(木) 晴・夜大雨一過
 ○朝九時全員児島寮に参集。これより吾々のとるべき態度について議論す。
 滅ぶを知りつつなお戦いし彰義隊こそ日本人の真髄なり。断じて戦わんと叫ぶ者あり。
 聖断下る。天皇陛下の命に叛く能わず。忍苦また忍苦。学問して学問して、もういちどやって、今度こそ勝たん。むしろこれより永遠の戦いに入るなりと叫ぶ者あり。
 軽挙妄動せざらんことを約す。
 ○中華民国留学生数人あり。その態度嘲笑的なりと悲憤し、酒に酔いて日本刀まで持ち出せる男あり。Kのごとき、真剣にこれを考えて余に手伝えという。断る。せめて屍骸の始末を手伝えという。断る。悲憤の向けどころが狂っているなり。
 ○東久邇宮稔彦王〈ヒガシクニノミヤ・ナルヒコオウ〉殿下に大命下る。このあと始末には皇族のほかに人なからん。
 ○八月十五日のこと。
 その日も、きのうや一昨日や、またその前と同じように暑い、晴れた日であった。
 朝、起きるとともに安西が、きょう正午に政府から重大発表があると早朝のニュースがあったと教えてくれた。その刹那、「降伏?」という考えが僕の胸をひらめき過ぎた。しかしすぐに烈しく打ち消した。日本はこの通り静かだ。空さえあんなに美しくかがやいているではないか。
 だから丸山国民学校の教場で、広田教授の皮虜科の講義をきいている間に、
「休戦?
 降伏?
 宣戦布告?」
 と、三つの単語を並べた紙片がそっと回って来たときには躊躇なく「宣戦布告」の上に円印をつけた。きょうの重大発表は天皇自らなされるということをきいていたからである。
 これは大変なことだ。開闢〈カイビャク〉以来のことだ。そう思うと同時に、これはいよいよソ連に対する宣戦の大詔であると確信した。いまや米英との激闘惨烈を極める上に、新しく強大ソ連をも敵に迎えるのである。まさに表現を絶する国難であり、これより国民の耐ゆべき苦痛は今までに百倍するであろう。このときに当って陛下自ら国民に一層の努力を命じられるのは決して意外の珍事ではない。
【中略】
 十二時が近づいて来た。四人は暑いのを我慢して、制服の上衣をつけた。加藤などはゲートルさえ巻きはじめた。
 呉〔中華民国留学生〕は椅子に座って僕達をモジモジと見ていたが、急に風のように外へ出ていった。僕達のやることを見ていて、素知らぬ顔でランニングシャツのままでいるわけにはゆかないし、さればとて改めて空ぞらしい芝居をする気にはなれなかったものと思われる。僕は彼に同情を感じた。
 加藤の腕時計は十二時をちょっと回った。ラジオはまだ何も言わない。が、遠い家のそれはもう何かしゃべっている。……おじさんがあわててダィヤルをひねった。――たちまち一つの声が聞えた。四人はばねのごとく立ち上り直立不動の姿勢をとった。
「……その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。……」 真っ先に聞えたのはこの声である。
 その一瞬、僕は全身の毛穴がそそけ立った気がした。万事は休した!
 額〈ヒタイ〉が白み、唇から血がひいて、顔がチァノーゼ症状を呈したのが自分でも分った。
 ラジオから声は流れつづける。
「……然るに交戦已に〈スデニ〉四歳〈シサイ〉を閲し〈ケミシ〉朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘わらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また吾に利あらず。……」
 何という悲痛な声であろう。自分は生まれてからこれほど血と涙にむせぶような人間の声音というものを聞いたことがない。
「加うるに敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜〈ムコ〉を殺傷し、惨害の及ぶところ真に〈シンニ〉測るべからざるに至る。而もなお交戦を継続せんか、ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず延て〈ヒイテ〉人類の文明をも破却すべし。かくの如くんば、朕何を以てか億兆の赤子を保し〈ホシ〉、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。……」
 のどがつまり、涙が眼に盛りあがって来た。腸がちぎれる思いであった。
「朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず、帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れ〈タオレ〉たるもの、及びその遺族に想〈オモイ〉を致せば五内〈ゴナイ〉ために裂く。……」
 魂はまさに寸断される。一生忘れ得ぬ声である。
「惟う〈オモウ〉に今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。爾臣民の衷情も朕よくこれを知る。然れども朕は時運の趨く〈オモムク〉ところ堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。……朕はここに国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚〈シンイ〉し、常に爾臣民と共に在り。……」
 十二月八日よりももっと熱烈な一瞬を自分は感じた。【以下、次回】

 山田風太郎(本名・山田誠也)は、当時、東京医学専門学校の学生。1945年6月に同校が飯田市に疎開したため、同地で敗戦を迎えた。
 8月15日の日記は、「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」の一行のみ。翌16日になって山田は、「八月十五日のこと。」として、敗戦の日を振り返った。その際、新聞に掲載された「終戦の詔書」ほかを参照したもようである。
 なお、8月15日の新聞は、この日に限って、同日午後に配達されたが、すでにそこには、「終戦の詔書」が掲載されていたという。

*このブログの人気記事 2024・7・3(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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ラジオが正午重大発表があるという(高見順日記)

2024-07-02 01:25:09 | コラムと名言

◎ラジオが正午重大発表があるという(高見順日記)

 本日も、井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)からの紹介。
 本日は、高見順(たかみ・じゅん)の「高見順日記(抄)」を紹介する。これは、『高見順日記』のうち、「八月十五日」とあるところである。

  高見順日記(抄)    高 見 順

 八月十五日
 警報。
 情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。
かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。
「何事だろう」
 明日、戦争終結について発表があるといったが、天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を 賜わるのだろうか。
 それとも、――或はその逆か。敵機来襲が変だった。休戦ならもう来ないだろうに……。 「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」
 と妻がいった。私もその気持だった。
 ドタン場になってお言葉を賜わる位なら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。
 佐藤正彰氏が来た。リアカーに本を積んで来た。鎌倉文庫へ出す本である。
 上って貰って話をした。点呼のあとで佐藤君は頭髮が延びかけだ。――敵が上陸してきたら、坊主刈は危い、そんな笑い話があったのが思い出される。点呼の話になって、
「海軍燃料廠から来た者はみんな殴られた。見ていて実にいやだった」
 と佐藤君がいう。海軍と陸軍の感情的対立だ。
「誰が一体殴るのかね」
「点呼に来ている下士官だ」
 私はその場にいなかったのだが、想像しただけで、胸に憤りがこみあげた。なんという野蛮! 
「外国でも、軍隊というのは、こう理不尽に殴るものなのかね」
「いや、殴るのは外国では禁止されているはずだ」
 日本では理不尽な暴行が兵隊を結局強くさせるといわれている。
「あれを見てからいよいよ、兵隊に入るのがいやになった」
 と佐藤君はいった。私は従軍で、軍隊の内部を知っているから、いやというよりむしろこわい。兵隊に取られるのがこわかった。
 十二時近くなった。ラジオの前に行った。中村さんが来た。大野家へ新田を呼びにやると向うで聞くという。
 十二時、時報。
 君ヶ代奏楽。
 詔書の御朗読。
 やはり戦争終結であった。
 君ヶ代奏楽。つづいて内閣告諭。経過の発表。
 ――遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。
 夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。
 烈日〈レツジツ〉の下に敗戦を知らされた。
 蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。
「さよなら」
 佐藤君は帰って行った。明日、奥さんの疎開先へ行くという。当分帰ってこないという。
「おい」
 新田が来た。
「よし。俺も出よう」
 仕度をした。
 駅は、いつもと少しも変らない。どこかのおかみさんが中学生に向って、
「お昼に何か大変な放送があるって話だったが、何だったの」
 と尋ねる。中学生は困ったように顔を下に向けて、小声で何かいった。
「え? え?」
 とおかみさんは大きな声で聞き返している。
 電車の中も平日と変らなかった。平日よりいくらか空いている。【以下、割愛】

 1945年(昭和20)8月15日は、いわゆる「八・一五事件」(宮城事件ともいう)のために、NHKラジオの放送開始が遅れた。放送は、午前7時21分に始まったとされるが、高見順は、この異変には気づかなかったようだ。
 正午の時報のあと、君が代奏楽、昭和天皇の詔書朗読、君が代奏楽、内閣告諭、経過の発表と続いたとあるが、ほぼ史実の通りである。

*このブログの人気記事 2024・7・2(8・9位に極めて珍しいものが入っています)

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