風吹く豆腐屋

内容はいろいろ。不定期更新中。

命の認識とゲーム

2009-01-26 18:52:47 | Weblog
今日の新聞に死生学の先生とやらが投稿していました。

その中の一文が気になりました。
なんでも、中学生の15%が「人は死んでも生き返る」と思っているらしく、
それはテレビゲームの悪影響なのだと・・・。


なんでいつもこうゲームは悪者にされるのかねぇ。


仮にゲームの影響で命の認識が歪んできているとしても、それが全てではないはず。
ゲームを悪者にする人は、なぜ他の可能性を考慮しないのか疑問でなりません。

僕がゲーム愛好家だからゲームを擁護するのもあるけれど、
根拠のないことをさもそれがゆるぎない真実であるがごとく掲げることに、まず反発を覚えます。

せめて統計をとってからそういう主張はしてほしいもの。



ただ、僕自身も一部のゲーマーの感覚が怖いと思うことがあります。
だから、そういう主張に一定の理解を示すこともできます。


例えば、僕が好きなモンスターファームは育成ゲームで、
寿命が設定されたモンスターを鍛えて強くするというものなんですが、
一部のマニアは、ゲーム内で育てているモンスターに「愛」を感じると言うんです。
(一部ですよ?)


僕にはどうしてもそれが解せないんですよね。

愛着が湧くことがあっても、それは愛とは全く異なるもの。
だって対象は生物ですらない、単なるデータ。
所詮ゲームはゲーム。
それが擬している物と本物は全く異なり、
神秘的な「生」がゲームに摸倣しきれるはずもない。

逆に両者が絶対的に違うからこそ、ゲームを楽しめる面も強いです。
普通、そうじゃありませんかね・・・?
ゲームの魅力はその非現実性じゃないんでしょうか。


僕はそう思っているから、彼らの感覚が不思議でなりません。
「寿命」を終えて「死ぬ」モンスターに彼らは涙を流せると言うのだろうか・・・。
死んだらリロードして、死ぬ前に戻せてしまうようなゲームにおいて。

よく言われる「仮想世界と現実世界の区別がつかなくなっている」というやつなんでしょう。
むしろ僕には仮想を現実として捉えたいという願望があるように思えるけれど・・・


データに本物の「愛」を感じるゲーマーは、
最初に紹介した論者の主張にどう反駁するのか、興味がありますね。

僕からすればその感覚からかなり危ういものだと思っています。
mixi上じゃやりにくいけど、1回本気で喧嘩してみたい



たまごっちの開発者も、
一度死んだらもう再び育てることは出来ない仕様にしたかったらしいです。
さすがにそれじゃおもちゃにならないと言うので却下されたそうですが。

僕にはその発想自体がちょっと分かりません。

・・・ドットに生を見出せと?


社会全体が仮想と現実の境界を曖昧にする方向に進んでいると思います。
一人一人の認識が確実に変わってきていると。


ゲームが原因で子供の命への認識が歪んできたのは違うと思うんです。

最初にあったのはそういう社会の流れ。
その流れを汲んで「死者も生き返る」ゲームができ、
それは現代人の感覚にあったからあっという間に浸透した。
あくまでも先にあったのは、社会の大きな流れのほうだと思います。

(ただし、ポジティブ・フィードバック的な作用で、
ゲームがその流れを加速させている可能性も否定は出来ませんが・・・)


そして、この社会の流れは、色々な要素が絡み合っていた結果。
例えば・・・と書き出すと長くなりそうなのでやめておきますが
色々考えられそうじゃありませんか?

可能性の話ならいくらでもできますしね。
 



僕の考え方は冷たいかもしれません。だけど、譲れません。

AIがどんどん進歩して行って「人格」を持つようになったとき、
僕のような古い人間はきっと生き方を見失うんだろうな(笑



・・・と思ったけど、現時点でもう「生」の定義なんてかなり曖昧なものですね。
既に僕は道に迷っているんだろう・・・。