昨日書いた「勉強ごっこ」について、もう少し書き足します。
私が面談などでそのようなことを言った際、或る保護者は「でも、教えたり教えられたり」と言って、そこで言葉を止めたことがあります。きっと「教えたり教えられたり、楽しく勉強するのもありなんじゃないでしょうか」と言うようなことを言いたかったのかと思います。
敢えて言いますが、それが「勉強ごっこ」なんです。
100歩譲って、「教えたり教えられたり」があったとしましょう。でも、Aという子はC科目が苦手でD科目が得意、Bという子はC科目が得意でD科目が苦手だから、互いにこれらを交換して教えあう、というのを有とします。互いに苦手を補えばよいではないか、という、そんな一見理にかなった理屈であったとします。
でも、互いの苦手な科目や、さらにそれを掘り下げていった時の細かな単元が、まさに電池のプラスとマイナスのような関係であることがしょっちゅうあり得ると思いますか? 経験から言えば、そんなことはまず滅多にありません。あったとしても、では、D科目が得意な子が、これを苦手とするB君に教えている時間は、A君には何の利益もありません。反対の場合も同じことが言えます。そこにあるのは仲の良い二人の単なるお楽しみにも似た時間であって、ちっとも効率的ではありません。或いはどちらも苦手なF科目だったらどうするのでしょう? 二人して無駄に長い時間を非効率な勉強(と本人たちは思っている)に費やすのでしょうか?
これが「勉強ごっこ」なんです。塾の時間にこういった非効率なものを求めるなら、それはどこか本質的な意味で違うのではないでしょうか。
以前、不登校の子を連れた保護者の方がいらして、「塾で友達を作れるでしょうか」などと言われたことがありました。私は言いました。「いつか登校できるようになった時に、それまでの遅れを最小限にとどめておくための勉強をしっかり積み重ねていく中で自然に出来上がる友人関係というものはあり得ます。ですが、それを横に置いて、単に友達が欲しいから、それを目標の第一におくというのは違いと思います」(因みにその(親)子は、その話を理解してくれて、中三の大半を不登校に苦しみながらもなんとか塾でも勉強を頑張って、藤沢市の県立高校に見事に合格して卒業していきました)
今更ですが、勉強なんて楽しくはないです。苦労してわかるようになったら確かに嬉しいでしょうが、それは苦労の時間を積み重ねたその先に手にするものであって、やっている最中は大変だし、基本的には面白くもなんともない。でも、昔からそうした苦労を経てきた人たちだけが、成功の果実を手にしてきました。その間は楽しくなんかないんです。そこに楽しさなんか求めるのは違うんです。
塾で勉強することに、友達が一緒とかそうでないとか、あの子がいるから入るとかそうでないとか、費用と時間とを使って、そんなことを基準にしますか?
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