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軍艦島探訪記

2015年08月10日 00時24分30秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
 長崎・軍艦島旅行から帰って来ました!
 軍艦島(端島=はしま)には8月6日の午前中に行きました。とりあえず、その時の写真だけでも先にブログに載せる事にします。その他の長崎市内観光の写真と旅行記は、また次の更新に回したいと思います。
 しかし、その軍艦島の写真を整理・編集するだけでも大変でした。この記事に載せた分だけでも30枚位あるのですが、実際にはその倍ほどの分量の写真を撮影しています。その一つ一つに、いちいち撮影日時や場所を添付している余裕もなかったので、帰宅してからはずっと、ブログに載せる写真を選び、それをブログ掲載用に編集し、どこで撮った写真か撮影場所を特定するだけでも一苦労でした。
 また、写真撮影できるのは、島の西側にある軍艦島の見学路から観れる建物や風景だけです。見学路は島の周囲全体の約4分の1にしか過ぎません。残りの施設については、軍艦島ツアー会社のガイドさんが説明時に使った写真や、前日に訪れた軍艦島資料館の写真・ビデオを基に、ブログで紹介していく事にします。
 ちなみに、軍艦島の土産物は、私の知る限り、この資料館の販売コーナーが一番品数が豊富でした。私は荷物になるのが嫌で、土産物は帰りの飛行機に乗る直前に、市内か空港の土産物屋で買うつもりで、ここでは買いませんでしたが、そちらには軍艦島の物は数えるほどしかありませんでした。お土産を買うなら、たとえ手荷物が増えても、ここで買っておくべきでした・・・。



 いよいよ軍艦島が見えてきました!遠くから見ると本当に軍艦の形をしています。どうりで、端島が通称「軍艦島」と呼ばれるはずです。(なお、右の写真は軍艦島資料館に掲げてあった島の全景写真ですが、それを見ても軍艦のような形をしています)
 島内を散策できるのは見学路の中だけで、立入禁止区域は船の上からしか見れません。船は、まず島の北東角にある端島病院の方から外洋側を反時計回りに、陸地(長崎半島)側のドルフィン桟橋目指して進みます。(なお、この後も色んな施設名が記事の中に出てきますが、冒頭に軍艦島の島内案内図を掲げましたので、それも参考にしながら読んでもらえれば分かりやすいかと思います)
 「軍艦島には日陰は無い。長崎市内の最高気温が35℃ぐらいの時は軍艦島では40℃以上になる。くれぐれも熱中症にならないように気を付けて下さい」と、ツアーガイドの人が何度も注意されていました。熱中症・船酔い予防の為には日よけ帽子と飲料は必需品です。軍艦島には日陰だけでなく自動販売機もありませんから。



 ついに軍艦島に上陸!ドルフィン桟橋に接岸します。浮き桟橋ではないので、接岸時に波の衝撃で船が大きく揺れます。「手荷物はリュックに入れるなどして、いつ転んでも良いように両手を開けておくように」との指示がされました。(左上写真)
 上陸したらトンネルを潜って第1見学広場へ向かいます。昔はもっと長く薄暗いトンネルが、会社の総合事務所や30号棟アパートの方まで伸びていたそうです。(真ん中の写真)
 上陸してまず目に飛び込んで来たのが貯炭コンベヤーの支柱跡です。昔は、私たちが今回上陸したドルフィン桟橋の右の方に、石炭積み出し用の桟橋があり、後述する第2竪坑から積み出し用の桟橋まで、石炭を運ぶ貯炭コンベヤーが伸びていました。
 その貯炭コンベヤーの遥か後ろに見えるのが端島小中学校の校舎です。7階建ての校舎で、1階から4階までが小学校、それより上が中学校の教室でした。昭和40年代に入ってからは、体育館や給食室、7階まであるのでエレベーターも設置されました。しかし、今や見る影もありません。体育館は既に崩壊し、校舎の7階もつい最近、台風で崩れ落ちてしまいました。校舎の土台も海水によって浸食され、地盤沈下と建物自体の劣化で、もはや、いつ崩壊してもおかしくない状態だそうです。(右上写真)

 第1見学広場など、島内の要所要所には「見学路から外に出るな」との注意書きが立てられていました。今や軍艦島は世界遺産。遺跡保存が厳しく義務付けられるようになりました。それに、閉山して既に40年以上経ち、いつ建物が崩落するか判らないので、住宅街の中には立ち入ることができないのです。その代わりに、ツアーガイドが写真を掲げて当時の様子と今の状態を説明してくれます。
 ツアーガイドのほとんどが、軍艦島やその近くの島に住んでいた人たちです。伊王島や高島など軍艦島近隣の島々も、三菱の炭鉱で栄えた島でした。長崎市北方にある池島の炭鉱に至っては、2001年まで稼働していました。現在は「池島さるく」という名のテーマパークとなり、トロッコ電車に乗る事も出来るのですが、あいにく私が長崎を訪れた日は定休日で、場所も離れているので訪問を諦めざるを得ませんでした。ああ、トロッコにも乗りたかったなあ・・・。
 


 続いて第2竪坑の桟橋跡です。左上写真が現代の物で、桟橋の跡だけが、かろうじて残っています。労働者はこの桟橋を上り歩いて、右の竪坑から下に降り、「人車」と呼ばれたトロッコに乗って、海底数百メートル下の石炭採掘現場に向かいました。当時は櫓(やぐら)が組まれ、勤務を終えた労働者と、これから勤務に就く労働者の波で、桟橋の上はごった返していたそうです。
 軍艦島案内のリーフレットにも、「海底下千メートル以上もの地底で、気温30℃、湿度95%もの悪条件と闘いながら、ガス爆発と隣り合わせの過酷な業務に従事していた」とあり、労働者が交わす「ご安全に」という挨拶に、「絶対に事故を起こさない」という気持ちが込められていた、と書かれていました。



 軍艦島の中央部は岩礁でできた小山になっていて、山麓の炭鉱施設から山上の住宅街に向かって、「山道」とか「山通り」と呼ばれる道が伸びていました。左上写真の山頂にあるのが貯水タンクの跡です。1957年に海底水道が通じるまで、水は船で運ばれ、この貯水タンクに貯められていました。その為、真水は貴重品で、洗濯や浴場、プールの水には海水が使われていました。
 貯水タンクとは反対側の崖の上には、端島神社が鎮座していました。島民の信仰を集め、毎年4月3日の山神祭の祭礼では神輿や仮装行列で盛大に盛り上がったそうです。今は神社の拝殿も崩れ落ち、コンクリート造りの祠だけがかろうじて残っている状態です。
 その山の崖をぶち抜いて、ボタ(石炭ガラ)運搬用のコンベヤーが、31号棟アパートの中を通り、島の反対側まで伸びていました。石炭を掘ればボタが出ます。それを、島の反対側の海に捨てていたのです。右上写真の遺構は、そのコンベヤーが山をぶち抜くトンネルの入口をふさいだ跡です。



 続いて第2見学広場の方に移動します。ここからは三菱炭鉱の会社総合事務所跡が見えます。事務所の建物は既に崩れ落ち、南側の赤レンガの壁だけが残っていました。一般用の共同浴場とは別に、炭鉱夫専用の共同浴場が事務所の中にあり、浴槽はいつも真っ黒に汚れていたそうです。
 その赤レンガの壁の後ろから白い灯台が顔をのぞかせています。この灯台は、炭鉱閉山で無人島になった後に造られたものです。炭鉱が24時間フル稼働していた頃は島全体が不夜城で、別に灯台なぞ必要ありませんでしたから。
 昔は、石炭と赤土を混ぜた天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤で、護岸が作られていたそうですが、右上写真の瓦礫(がれき)が、ひょっとしてその名残でしょうか?



 左上の写真が第3見学広場から撮った30号棟アパートです。この30号棟アパートは、1916年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート造りの高層アパートです。右上写真はその隣の31号棟。前述のボタ運搬用コンベヤーの出口も、この31号棟の中に見えていますが、遠くから撮った写真なので分かりずらいかも。南北480メートル、東西160メートルしかない端島に、5千人余りの人が住む為には、このような高層アパートを次々と造らなければならなかったのでしょう。当時の人口密度は東京の9倍にもなる、世界で最も人口過密な地域だったそうです。
 真ん中の写真で、ツアーガイドが掲げているのが、当時の汲み取り式の便所の仕組みです。高層アパートという響きからは、戦後の団地を想像しがちですが、この30号棟アパートが造られた当時は、もっと狭く粗末な住まいだったようです。一世帯には、食べ物を煮炊きする竈(かまど)と6畳一間があてがわれただけで、浴場も炊事場もトイレも共同でした。水道も、もちろん共同水道です。建物の端に汲み取り式の共同便所があり、各階から1階に糞便を落とす仕組みになっていたのですが、雨風の強い日は下から吹き上げてくる風で、用を足したつもりが逆に糞まみれになる事も珍しくなかったそうです。
 この30号棟が、軍艦島で現存する建物の中で最も古い物です。軍艦島は、別名「コンクリート風化の実験場」とも呼ばれ、潮風や荒波、台風などによって年々浸食されています。今でも、コンクリートの劣化を食い止める根本的な対処法はなく、割れ目を補修するなどの対症療法でしのぐしかないそうですが、ここまで古くなると、もはや手の施しようがなく、朽ちるに任せる他ないそうです。



 第3見学広場の横に、床にラインが引かれたくぼ地があったので、何かと思って調べたらプールでした。端島では昼夜三交代で石炭が掘られ、ボタ投棄場所の浜辺(ボタの浜)付近の海は真っ黒に汚れていました。それに、離島で波が高かった事もあり、島の周囲では泳いではいけないと決められていました。但し、実際には、ボタの浜から離れた水のきれいな所では、子どもたちが一杯泳いでいる写真も目にしましたが。
 プールはその代替措置として建設された物でした。このプールは1958年に完成し、25メートルプールに幼児用プールが併設されていたようです。



 後は見学路からは撮影できない所ばかりなので、ツアーガイドや軍艦島資料館の写真やビデオを基に、説明して行きたいと思います。
 左上写真が、島の東側にある65号棟アパートです。1945年から1958年にかけて造られた高層10階建てのコの字型のアパートで、アパートの中でも最大の317戸もの収容数を誇っていました。その次に多かったのが前述の30号棟の140戸で、後は皆、10戸から60戸ぐらいまでの中小アパートでした。
 この65号棟は、単に規模が大きいだけでなく、居住性も他のアパートよりは優れていました。コの字型の空間には児童公園が、屋上には保育所が作られ、階段の傾斜も緩やかに設計されていました。もはや30号棟のような汲み取り式の共同便所ではなく、各戸にトイレがあり、一部には水洗トイレまで導入されていました。外の非常階段もエックス字型の粋なデザインで、住民の間でも人気が高かったようです。
 この65号棟とその向かいの59棟から67棟アパート周辺は、外洋に面しているので、台風や時化(しけ)の時には高波がまともに建物にぶち当たります。その波が、右上の写真のように、建物を越えて街路にまで押し寄せて来て、通行人がびしょ濡れになるので、通称「潮降り街」と呼ばれました。でも、そんな物を怖がっているようでは軍艦島には住めません。軍艦島では「大波見物」と称して、屋上から花火見物でもするように高波を観賞していたようです。



 次の写真は通称「地獄段」と呼ばれた階段です(左上写真)。65号棟から「潮降り街」を左に曲がって、16・17棟と56・57棟の間から端島神社の前に抜ける長い階段です。中学校のマラソンコースになっていて、一番心臓破りの難関だったので、そのような名前がつけられたらしいです。名前こそ仰々しいものの、道行く買い物客の顔からは、どことなく庶民生活の余裕みたいなものが感じられます。
 階段や通常の道以外にも、各棟の間に渡り廊下が造られ、住民は頻繁に他のアパートと行き来していたようです(右上写真)。同じ高層アパートでも、現代の無機質なオートロックの高層マンションとは全く趣が異なるようですね。 



 私が参加した軍艦島ツアーのガイドさんもそうでしたが、戦後の炭鉱住宅の暮らしを皆、懐かしがっていました。当時「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫は、他の地域では普及率がまだ20%ぐらいだった昭和30年代初めでも、既に100%を数え、まだ共同アンテナが開発される前だったので、アパートの屋上にはテレビアンテナが林立していました。資料によると、各家庭には「ダルマ」と呼ばれるプロパンガスが無料で配られ、水道や共同浴場の入浴料も無料で、アパートの家賃も昭和30年代までは無料、それ以降も月額10円とか、当時の物価を考慮してもタダ同然の値段でした。(以上、前回記事で紹介した長崎文献社・刊「長崎游学」シリーズ4「軍艦島は生きている!」の記述より)
 確かに、炭鉱労働は危険と隣り合わせの重労働で、住居は狭く風呂も共同浴場で、その点では不便でしたが、ガイドさんの話や写真に写っている人々の顔を見ても、今のワーキングプアのような悲愴感は全然感じられないのです。これが三菱に直接雇われた本工の炭鉱夫だけに限った話なのか、それとも当時、日給社員とか下請け社員とか呼ばれた人も含めてそうだったのか、そこまでは調べられませんでしたが。


春闘要求を掲げた組合掲示板の下でたむろする人たち(左上写真)と、会社の朝礼か何かの全体集会と思しき風景(右上写真)


端島メーデー(左上写真)と、端島労働組合定期大会(右上写真)の様子

 その一方で、端島炭鉱では大きな労災事故がたびたび起こっています。1955年(昭和30年)以降の落盤事故だけに限っても、1955年(死者3名・負傷者1名)、1956年(死者3名)、1963年(負傷者10名)、1964年(死者1名・火傷30名)、1973年(死者1名)と、立て続けに大きな事故が起こっています。特に1964年8月に起こった坑内火災では、消火の為に坑道を広範囲に水没させなければならない破目に陥っています。この事故がきっかけで、2千人余りも離職者が出ました。そして、過去84年間では215名もの方が事故でなくなっています。
 しかも、ガイドの話によると、朝鮮人などの外国人労働者の数は、これらの統計からも漏れているそうです。前述の長崎文献社の資料によると、朝鮮人の間では端島(軍艦島)は「地獄島」と呼ばれ、1925年から45年の20年間に、少なくとも63名の外国人が事故で亡くなっているそうです。

 このように、ツアーガイドの言う「豊かな生活」と、朝鮮人の間で噂された「地獄島」との間には、大きな落差があります。この落差は一体どこから来るのか。それがずっと謎でした。その謎はいまだに解明された訳ではありませんが、どうやら、大正時代に造られた30号棟アパートと、終戦直後から戦後に渡って造られた65号棟アパートの暮らしぶりの違いに、その謎を解く鍵があるようです。30号棟が、6畳一間で汲み取り式の共同便所しか無いタコ部屋同然の造りだったのに対し、65号棟では、6畳と4畳半の二間に増え、狭いながらも児童公園や緩やかな階段も設けられ、水道代・ガス代・家賃もタダの企業福祉社会が築かれました。
 その間に何があったのか。戦後の民主化で労働組合が合法化されたからではなかったのか(1946年に組合結成)。確かに、企業福祉に「おんぶにだっこ」で、下請け工も巻き込んでの運動だったかどうかは定かではないものの、組合が一定そこで果たした役割は無視できないと思います。この端島もそうでしたが、近隣の伊王島や香焼など、炭鉱や造船所のあった島は、保守県の長崎の中では、共産党が比較的強い地域として知られています。国政選挙でも約1割の得票率を保持し、地方選挙では定数2や3の選挙区でも当選を果たしたりしています。

 安倍政権は、軍艦島などの世界遺産登録に際して、「明治の栄光」という事を念頭に置いたと言われています。あくまで「明治の産業革命遺産」が登録申請の対象なのに、産業革命とは直接関係のない松下村塾などが申請リストに加えられている事からも、その事は明らかです。でも、地元が思い描く軍艦島は、あくまでも戦後の民主化によって一定豊かな生活が送れるようになった時代に限られています。ツアーガイドが、戦後の歴史については、自身の歴史も含めて生き生きと語っていたのに対し、戦前については、外国人強制労働の話はしても、「明治の栄光」については「マニュアルに載っているから言っているだけ」にしか感じられませんでした。
 もちろん、そこには「当時は生まれていなかったから」という理由もあると思いますが、それ以上に、「明治の栄光」と「戦後の家電ブーム」の、どちらにより親近感が感じられるか、という問題があると思います。
 「三種の神器」の家電ブームも、農地改革や今の平和憲法、労働基準法などが施行され、特高警察がなくなり労働組合の活動が合法化されたからこそ起こったものです。戦前の貧しい小作農や「蟹工船」「女工哀史」のような状態では、消費ブームなぞ起こりようもなかったでしょう。もちろん、当時の庶民全てがそこまで考えていたとは私も思いませんが、「明治の栄光」なぞ、しょせん我々とは別世界の出来事なのだという事は、庶民も薄々は感づいているのではないでしょうか。同じ軍艦島ブームに沸く場合でも、安倍と地元の一般庶民との間には、「同床異夢」の関係が厳然と存在しています。安倍がいくらその点を曖昧にして、「昔は良かった」と、戦後も戦前もごちゃ混ぜにして「明治の栄光」を強調しても、一般庶民との間には、埋められない落差が厳然として存在し、安倍が「明治の栄光」を強調すればするほど、その落差もますます大きくなっていく事でしょう。
コメント (4)
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