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長崎の心

2015年08月13日 23時32分02秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ

左から順に、梅屋庄吉ミュージアム、梅屋庄吉、孫文の写真。

 長崎・軍艦島旅行記の続きです。長崎へは8月4日の夜に大阪を立ち6日の夕方に帰って来ました。そのうち、5日午前中に訪れた軍艦島資料館と6日の軍艦島の様子については前回記事に書きましたので、今回は5日午後の長崎市内観光について書きます。市内で回った主な場所は、梅屋庄吉ミュージアムとグラバー園、オランダ坂、孔子廟、眼鏡橋と原爆関連の史跡です。中華街や坂本竜馬、シーボルトゆかりの史跡についても観たかったのですが、そこまで回る余裕はありませんでした。

 軍艦島資料館の見学を終えて次に向かったのが梅屋庄吉ミュージアム(旧香港上海銀行長崎支店記念館)です。梅屋庄吉と言うのは長崎の実業家で、今の日活映画の前身に当る会社の創立者の一人でもあります。その梅屋が、香港で商売をしている時に、中国の革命家・孫文と知り合いになり、終始彼を支援していく事になります。
 孫文と言うのは、今の中華人民共和国が出来る前の、中華民国を建国した人です。中国では1911年の辛亥(しんがい)革命で清帝国が倒れ中華民国が成立しますが、革命後も国内の混乱が続く中で、孫文は1925年に58歳の若さで亡くなってしまいます。今も台湾と中国の両方から「革命の父」と敬われている人です。その孫文を、梅屋庄吉・トク夫妻が支え、孫文と宋慶齢(後に中国政府の要人にまでなった)の結婚仲人も勤めました。

 梅屋は中国だけでなく、フィリピンの独立運動も支援しています。当時の日本は、富国強兵政策の下で、欧米諸国に追いつこうと必死でした。「欧米に侵略される前に、早く欧米に追いついて、欧米と同じようにアジアに植民地を獲得しなければならない」と。その考えの下に、台湾や朝鮮を植民地にし、満州や東南アジアに侵略して行ったのです。その中で、梅屋のように、アジアを侵略するのではなく、独立運動に共感して、自分もその中に身を投じようとする人は、まだまだ少数派でした。いまだに安倍首相は「明治の栄光」にすがっていますが、私に言わせれば、当時の梅屋の方が今の安倍よりも、ずっと進歩的だと思いました。
 また、梅屋以外にも、中国の革命運動を支援しようとした日本人が多くいました。その中には、三菱の経営幹部や右翼の宮崎滔天(とうてん)と言った人たちもいました。右翼の中にも中国革命を支援した人がいた事は私も知っていましたが、三菱の経営幹部までいたとは思いもよりませんでした。孫文も梅屋も、第二次大戦が始まる前に、いずれも50~60歳代の若さで亡くなってしまいますが、もし彼らがずっと生き続けていたら、その後の日本と中国の関係も、ひょっとしたら変わっていたかも知れませんね。
 

旧グラバー邸とトーマス・グラバー像。坂本竜馬を財政的に支援した長崎在住の英国商人です。


グラバー邸から見た長崎港の風景と大浦天主堂


眼鏡橋とオランダ坂

 梅屋庄吉ミュージアムを出た後、すぐ近くの中華料理の老舗・四海楼で遅めの昼食を取るのですが、その時のエピソードについては、もう少し後でまとめて書く事にします。遅い昼食を済ませた後は、少しでも先を急ぐべく、大浦天主堂・グラバー園・オランダ坂・孔子廟・眼鏡橋と、周辺の史跡を片っ端から巡りました。どこも有名な観光地なので、私もせっかく長崎に来た以上は回らなければ損と、夏の暑さと闘いながら半分意地で巡りました。やはり、市内観光は春か秋に限ります。夏の日中に回っても暑いだけです。しかも、どこに入るにも600円の入場料が要ります。4ヶ所の有料拝観史跡を巡ったので、入場料だけで2400円もの出費となってしまいました。
 それでも、グラバー園から見た景色は美しかったです。この大浦一帯は、出島からも目と鼻の先で、長崎の中でもとりわけ異国情緒が強く感じられる場所でした。でも、その反面、余りにも観光地化され過ぎてしまい、どこも人だらけで、今やただのテーマパークに成り下がってしまったようにも感じられました。 眼鏡橋のたもとにある縁結びのハート形の石組みも、最後まで見つける事ができずに終わってしまいました。


長崎原爆資料館と爆心地の碑


メモリアルパークの護岸に掲げられたゲルニカの壁画と、原爆によって崩れ落ちた浦上天主堂の遺構


被爆間もない頃の爆心地の様子と、溶けたガラスの破片などが刺さった当時の護岸の石組み(史跡保存されている)


山王神社(爆心地から約800メートル)の一本足鳥居と、崩れ落ちた鳥居の残骸


同じ山王神社の被爆クスの木と、原爆の爆風で木の幹にめり込んだ大石

 そんなこんなで、平和公園周辺にたどり着いたのは、もう夕方近くになってからでした。原爆資料館は夏休み中は18時まで開いているので、何とか観る事ができましたが、平和公園や永井隆記念館の方へは行けずじまいでした。
 資料館を出て、すぐ前の爆心地公園を巡った後、山王神社の一本足鳥居と被爆クスノキを観てきました。山王神社は原爆資料館から歩いても行けます。爆心地から800メートルの距離にある山王神社には、当時、四つの鳥居がありました。そのうち、一の鳥居だけが、原爆の爆風が真横から吹き付けた為に、どうにか倒壊を免れた事ができましたが、二の鳥居は片足が吹き飛び、三、四の鳥居は完全に倒壊してしまいました。そして、倒壊を免れた一の鳥居も、戦後の交通事故で車の衝突によって倒壊してしまい、二の鳥居(一本足鳥居)だけが残っているのです。その近くには被爆したクスノキも茂っています。原爆の熱線で幹が焼けただれた上に、爆風で飛んできた大石によって幹に大穴があき、枯れ死寸前にまで追い詰められた山王神社の大クスノキが、驚異の生命力で生き抜き、今も枝を茂らせているのです。その時に飛んできた大石も横に展示されています。
 原爆資料館の写真やビデオも凄かったですが、やはり、現存している被爆遺跡の方が、その何倍も真に迫ってくるものがあります。もし、その場に私が居合わせていたら、一体どうなっていたであろうかと思うとゾッとします。この一本足鳥居と被爆クスノキの前で、核戦争なぞ絶対に起こしてはならないと、改めて心に誓いました。


四海楼の建物と、そこで5日のお昼に食べた皿うどん


5日の夕食で食べたトルコライスとミルクセーキ


「通の食べ方」を勧める喫茶店内のメニューと、6日昼に帰りの航空便の時間を気にしながら食べたちゃんぽん。

 ここで中華料理店・四海楼での「ちゃんぽん」にまつわるエピソードについて書きます。長崎に着いた初日・5日の昼食は、「ちゃんぽん」発祥の地とされる四海楼で食べる事にしていましたが、実は「ちゃんぽん」にしようか「皿うどん」にしようか、ずっと迷っていました。と言うのも、以前、大阪で「ちゃんぽん」を食べた時に、余り美味しくなかったので、それ以来、余り「ちゃんぽん」は好きになれなかったのです。
 それで、その時も四海楼で、「ちゃんぽん」にせずに「皿うどん」で昼食を食べたのですが、レストランは満員で30分以上も待たされてしまいました。ようやく席につく事ができ、「皿うどん」とギョーザのセットを注文したのですが、ギョーザは意外と早く持ってきたものの、「皿うどん」が全然来ずに、とうとう待ちきれずにギョーザだけ先に食べてしまいました。だから、写真には「皿うどん」しか写っていません。

 その日は晩も、夕食はホテル近くの喫茶店でトルコライスを注文しました。トルコライスとは、ポークカツが載ったピラフとスパゲティが一つのお皿に盛られた料理です。「ちゃんぽん」や「皿うどん」と並び、長崎を代表するB級グルメとして、最近特に注目されるようになりました。「トルコライス」の名称の由来についても少し調べましたが、とうとう分からずじまいでした。しかも、「トルコライスとミルクセーキをセットで食べるのが通の食べ方だ」と言う事も聞いていたので、更にミルクセーキも注文してしまい、食べた後は満腹で少し動けませんでした。
 そして、翌6日、軍艦島から帰ってきて、もうそろそろ空港に向かわなければならない時間に、最後の最後になって、「せっかく長崎まで来たのだから、ちゃんぽんも食べて帰ろう」と意を決して、ついに「ちゃんぽん」にも挑戦する事にしました。そして・・・「なあんだ、美味しいじゃないか」という結果に終わりました。今まで「シツコイ」と思っていた「ちゃんぽん」の濃厚なスープも、てんこ盛りの魚介類や野菜の具と食べなければならないので、これくらい濃厚な味でないと、具に負けてしまう事が分かりました。じゃあ、大阪で食べた不味い「ちゃんぽん」は一体何だったのだろうか・・・?

 そこで、「ちゃんぽん」の由来を調べてみると、この料理は、元々は広東料理の「あっさり味のラーメン」だったそうです。その「あっさり味のラーメン」を、当時、四海楼の初代オーナーだった人が、長崎の中国人移民や中国人留学生の粗末な食生活を憂いで、「安くて栄養のあるものを腹一杯食べさせてやりたい」という思いで考案したのが、この「ちゃんぽん」という料理だったそうです。同じ事は「皿うどん」やトルコライスにも言えます。どちらも、安い値段で沢山の具を腹一杯食べられる点は、「ちゃんぽん」と似通っています。
 私はその話を聞いて痛く感激しました。貧乏な外国人留学生に対する長崎の人の優しさに。大阪も、コリアンタウンやリトル沖縄があったりして、それなりに異文化を受け入れてきた土地柄ですが、ここまで優しくはありません。外国人や地方出身者に対する風当たりも結構きついのです。ところが長崎には、中国の革命運動やフィリピンの独立運動を支援してきた人たちも少なくありません。それも、左派だけでなく右派や財界人の一部にも、そういう人たちがいたりする。もし、「長崎の心」というものがあるのなら、それは(1)梅屋庄吉に見られるような「海外との友好」精神や、(2)「原爆許すまじ」に代表される「平和愛好」精神、(3)「ちゃんぽん」に見られるような「弱者への思いやり」、この3つを指すのではないだろうかと思いました。





 最後に、路面電車に関するエピソードについても少し書いておきます。
 長崎市内の移動には路面電車を利用しました。端から端まで乗ってもわずか120円と、運賃が非常に安いので重宝しましたが、途中の乗換が少しややこしいのが玉に傷でした。長崎駅前から赤迫・蛍茶屋・正覚寺下の各終点へは乗換なしで行けるのに、石橋へは途中の築町で乗り換えなければなりません(上記路線図参照)。その場合、石橋までの運賃を先に払った上で、築町で乗り換える際に乗継券を運転手からもらい、石橋の停留所で降りる際に乗継券を渡せば良いのですが、最初はその乗換方法が分からず少しまごつきました。また、乗換の際も、同じ築町のホームでも赤迫行きと石橋行きで待機場所が違ったりと、結構ややこしかったです。
 石橋周辺にはグラバー園やオランダ坂などの観光地も多いので、出来れば長崎駅前からも乗換なしで行けるようにしてほしい旨、路面電車を運行している長崎電気軌道(株)本社に旅先からメールしました。その返事が後日返ってきましたが、現実にはなかなか難しいようです。と言うのも、石橋行の路線(5系統)は、大浦海岸通から先は単線になるので、もうこれ以上の増便は難しいのだそうです。この区間は川沿いの狭い道を走るので、複線にしたくても出来ないのです。川を暗渠にしてその上を走らせれば複線にできない事もないのでしょうが、それでなくとも坂の多い長崎で、安易に川に蓋をしてしまうと水害の被害を拡大してしまう事にもなりかねません。それで直通便が出せないのだそうです。ここでも一つ勉強になりました。

 そんなこんなで、結構学ぶ事が多かった旅行でした。旅行費用も、新幹線の早割切符が買えなかったので、その代わりに夜行バスとLCC(格安航空便)を使う事で、往復旅費を最小限に抑える事ができました。通常旅費の4割ぐらいに抑える事ができたと思います。その反面、5日午前中に長崎市郊外・野母崎にある軍艦島資料館にまで足を延ばしてしまった事で、その分、午後からの長崎市内観光のスケジュールにしわ寄せが来てしまいました。たとえ朝早く長崎に着いたとしても、1泊2日ではギリギリの旅程日数です。軍艦島ツアーに参加すれば資料ももらえるのだから、無理に資料館まで足を延ばす必要はなかったかも知れません。また、老舗の評判にこだわる余り、四海楼で30分以上も待たされたのも痛かったと思います。夕食は場末の喫茶店でもトルコライスを堪能できたのですから、無理に老舗にこだわらなくても良かったのではないかと思います。以上、今後の反省点にしたいと思います。
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