・「フクシマは警告する」ドイツで大規模デモ(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110327-OYT1T00422.htm
・ドイツ:緑の党初の州首相誕生か 選挙に原発事故追い風(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110328k0000m030055000c.html
日本の福島原発事故を機に、ドイツでは脱原発運動が空前の盛り上がりを見せている。この3月26日もドイツでは、「フクシマは警告する、全ての原発の稼働停止を」などのスローガンを掲げた、主要4都市だけでも25万人、全国では50万人が参加する大規模な反原発デモが行われた。しかも、それだけに止まらず、直後に行われたドイツ南西部バーデン・ビュルテンベルクの州議選では、今まで脱原発を訴えてきた環境政党の「緑の党」が大躍進し、保守地盤の同州において、初の脱原発州政府を実現するまでに至った。
前回記事でも少し触れたけど、今回の様な原発災害を素直に解釈すれば、このドイツの様に「脱原発」に向かうのが普通だろう。勿論、国情による違いはある。あちらでは日本とは比べ物にならないほど、環境保護運動の裾野が広い。左派・リベラルだけでなく、右翼や、ネオナチですらも環境保護運動に取り組んできた歴史がある。ドイツの反原発運動は、いわば日本での「原水禁運動」に匹敵するだけの幅と広がりを持っている。
しかし、その点を割り引いても、日本国民の今の「大人しさ」は異様だ。しかも、それを「成熟」と勘違いしている輩も決して少なくない。
冗談じゃない。今まで散々、原発に対する不安や反対の声を金と権力で押さえ込み、「安全・安心」の嘘を撒き散らしておきながら、今回の事故が起こったら、今度は俄かに「想定外の事故だった」とか「この期に及んで原発の批判をすべきじゃない」とかの大合唱で、今までの事を有耶無耶に済まそうとする。
おかしいじゃないか。今までしてきた事の結果が、今回の事態を招いたのじゃないか。物事の結果には必ず原因がある。当面は今の事態をどう収めるかに力を集中しつつも、これまで政府・財界や原発推進勢力がやってきた事の責任を、決して曖昧には出来ない。ナアナアで済ませば、また同じ轍を踏む。
本当にマスコミが「社会の木鐸」を自認するのであれば、何故、原発から半径20~30キロ圏内での屋内退避指示だけ出して、家を失った被災者を避難所で飢えや放射能汚染に晒しながら、何も具体的手立てをとろうとしない政府の無策を追及しないのか。
何故、実際には被災地でコンビ二強盗やATM・ガソリンスタンド襲撃も起こっているのに、その背景となる救援網の寸断や被災地差別にはメスを入れずに、「配給の行列に黙って並ぶ日本人は素晴らしい」みたいな報道ばかりで誤魔化そうとするのか。
本当に原発が「安全・安心」なら、何故、電力大消費地の東京・横浜や京阪神に原発を置かず、そこから遠く離れた福島県や福井県に原発を集中立地させてきたのか。そして、地元の反対を力ずくで押さえ込み、地元自治体財政を原発がなければ何も出来ないような「原発漬け」体質に変えてきたのか。
何故、全国の寄せ場から食い詰めた労務者を、ヤクザまで使って半ば騙す様に集めてきて、「安心・安全」の嘘で放射能まみれにした挙句に、闇から闇に葬るような真似をしてきたのか。
本当に今回の震災・津波が「想定外」なら、何故、平安時代の貞観地震や江戸時代の安政大津波のような、今と同規模で既に文献記録にも残されている過去の災害を参考にして、耐震設計に取り入れなかったのか。今までも国会質問で指摘された福島原発の老朽化や低耐震性、活断層の危険性を、何故見直さなかったのか。
本当に電力が不足するなら、何故、太陽光や地熱発電などの代替エネルギー開発に、もっと本腰を入れて来なかったのか。火力発電も石油から天然ガスに切り替えるならCO2排出量を減らせるのに、何故、原発乱造をそのままにして、オール電化推進一本槍で来たのか。その事を抜きにして、原発延命の邪な意図を隠して鳴り物入れで強行した計画停電も、被災地を更に困窮に追い込む一方で、都心や首相の地元は巧妙に避けるなどのインチキがばれ、すっかり化けの皮が剥がれ落ちた。
本当に放射能汚染の危険がないのなら、何故、「少量摂取なら大丈夫」とかいう持って回った言い方ばかりせずに、「毎日どれだけの量を、どれだけの期間摂取すれば大丈夫でなくなるのか」と、具体的に明らかにしないのか。
何故、原発作業者の許容放射線量を、年間250ミリシーベルトもの、身体に具体的影響が出てくる限度一杯にまで引き上げながら、その事には何も触れずに、表に出てきた放射能火傷の報道だけでお茶を濁そうとするのか。水道水や大気中に含まれる放射性ヨウ素やプルトニウムの環境基準をこっそり緩和しておきながら、何ら具体的根拠も示さず、通り一遍の「安全・安心」キャンペーンで押さえ込もうとするのか。
実際には、現地の土壌・大気や地元産の野菜・牛乳から、環境基準を大幅に上回る放射能が検出されているのに、「風評被害防止」を名目に、「寝た子を起こすな」式の論評ばかり垂れ流すような姑息な真似は止めろ。本当に必要なのは、寧ろ「寝た子」を起こして、真実と本当の対処法や解決の道筋を明らかにし、政府や東電にその実施を迫る事だろう。ところが、今の様なマスコミ報道では、被災者を勇気付けるどころか、ただ「臭い物に蓋」で誤魔化しているだけではないか。
東北地方の被災者を助けるのは重要だ。東北産の野菜も「放射性物質がしみこんでしまわないうちに」どんどん買って、少しでも生活再建に役立てて貰えれば良いと思う。しかし、今のままでは早晩、東北産の農産物が売れなくなるのは明らかだ。それは、現実に放射能汚染が深刻さを増しつつあるからだ。問題はその後どうするかだ。今のままでは、今回の事態を引き起こした責任は曖昧にされ、「ガンバレ日本」の熱気が冷めた後は、今度は「被災者はゴネ得」などのバッシングや被災者差別が頭をもたげて来る事は、これまでの日本人の国民性からも容易に想像がつく。
「おかしい事はおかしい」と正直にブログに書いた中学生を叩いたりシカトする事ではなく、実際に被災者を貶める発言を繰り返す大の大人の政治家の責任こそ、追及して然るべきだろう。「天罰は福島県民に対してではなく国民全体に言った」との、この石原慎太郎の詭弁に対して、「福島県民も国民ではないのか」とは思わなかったのか。
これはジャスミン革命の時に書こうと思っていた事だが、日本の国民は、政府・お上やマスコミの言う事を、余りにも無批判に受け入れ過ぎだ。チュニジアやエジプトでも日本以上にマスコミは権力迎合だったが、それは当地の国民にとってもとうに自明の事だったので、国民の側もアングラ情報で対抗してきたのだ。だから、「大企業が潤えば国民も潤う」という独裁者や西側諸国の嘘にも、「では何故、いつまで経っても我々は貧乏なままなのか?」と、自分の身に引いて捉え直す事がすぐに出来たのだ。
ところが日本では、明治以降、なまじっか形だけ先進国になった分、逆に国民の間にそういう発想が生まれにくい土壌が出来てしまったのではないか。富国強兵政策で欧米に追い付き追い越そうと、科学技術や政治制度の模倣ばかりに汲々として、その背景にある民主主義や人権の真髄を学ばずに来た。だから、実際にはまだまだ人権後進国なのに、一丁前に先進国民になった気分で、「日本人は偉い、アジア人はバカだ、とにかく今は中国・北朝鮮みたいにならないように、多少不満やおかしな点があっても、お上大事で『欲しがりません勝つまでは』」という思考回路が出来上がってしまったのではないか。実際には、戦前の日本が今の中国・北朝鮮そのものだったのに。
「若いうちの苦労は買ってでもしろ」と昔の人はよく言うが、戦争や人権侵害みたいなものまで、そんな「苦労」に含められては堪らない。「おしん」の様にただ黙って耐え忍ぶのは、単なる「奴隷根性」にしか過ぎない。寧ろ、「おしん」の様な不幸な思いをしなくても済む世の中にしていく事こそが、本当の意味での「買ってでもしなければならない苦労」ではないか。その様な「奴隷根性」は打ち破られなければ、この先の日本社会の進歩・発展は在り得ない。
しかし希望はある。今回、中学生の芸能人が、仕事上に不利になる事を承知の上で、自分の気持ちを正直にブログに書いてくれた。そのブログに寄せられたコメントの中には、勿論ゴミの様なコメントも多かったが、その一方で、原発関係者や被災者からの声も含め、彼女の今後に期待する声援も多数寄せられた。そして、これまではともすれば、政府・財界の御用報道を更に右から煽る(しかもそれを反権力と履き違えているw)「原発擁護・黙認」の声の大きさが目立ってきた言論界でも、原発の危険性に警鐘を鳴らしてきた意見が、再び注目されるようになってきた。今は、そういう意味でこその、本当に「変えなアカン、変わらなアカン」時期に来ているのではないか。