朝鮮通信使の旅日記―ソウルから江戸 「誠信の道」を訪ねて (PHP新書)辛 基秀PHP研究所このアイテムの詳細を見る |
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1月31日は”荒らし”の相手で休日の午前中が潰れてしまいました。おまけに当日は終日雨模様だったので、午後からも自宅でゆっくりしようと、たまたま見たテレビ番組がNHKのETV特集「日本と朝鮮半島2000年」シリーズの「朝鮮通信使」に関するもので、これが私にとっては「目からウロコ」ともいうべき良い番組でした。荒らされても只では起きない(わら)。
「朝鮮通信使」については、私も言葉だけは知っていたものの、詳しい歴史的背景については殆ど何も知りませんでした。詳しくは下記の参考資料を見てもらうとして、まずは大まかな説明から。
豊臣秀吉が天下統一の余勢を駆って引き起こした朝鮮出兵(1592~1598年)。日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬申倭乱(イムジンウェラン)と呼ばれるこの戦いで、抗日将軍・李舜臣の活躍や、伊万里焼が朝鮮人によってもたらされた事などは断片的に知っていたものの、何万人もの朝鮮人が被虜人(ひりょにん:捕虜)として日本に連行されていた事については、全く知りませんでした。後の朝鮮人強制連行、日本版・拉致事件ともいうべき事が、当時から引き起こされていたのですね。
その後、豊臣家を関ヶ原の戦い(1600年)で倒して江戸幕府を開いた徳川家康が、日朝貿易再開に向けて動き出し、対馬の宗家を仲立ちにして、当時の李氏朝鮮に復交を申し入れます。しかし朝鮮側の警戒はそう簡単には解けません。その中で、山がちの離島で日朝貿易に活路を見出すしかない対馬の宗家としては、是非とも日朝復交を実現したい。そこで、李氏朝鮮が半信半疑で対馬に送ってきた民間人僧侶の交渉人を、わざわざ京都にまで呼び寄せ、家康からの国書(親書)を偽装してまでして、何とか復交に漕ぎ着けた。
そうして始まった朝鮮使節団(朝鮮通信使)の来日ですが、4回目までは朝鮮通信使ではなく回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)という名称で、歴代将軍の国書伝達と被虜人の本国送還だけに役割が限られていました。しかしそれでも、実際に多くの被虜人の帰国を実現した点は流石だと思います。今の拉致問題とはえらい違いだ。
しかし4回目の段階で、宗家からの内部告発によって、その国書偽装がとうとう暴かれてしまいます(1633年の柳川一件)。そうして、もはや朝鮮使節団の来日もこれまでかと思われたのが、何と宗家は一切お咎めなしで、逆に内部告発者の宗家家老が流罪を言い渡されてしまいます。幕府としては、あくまでも日朝貿易による実利の方を選んだのです。他方で、朝鮮側も国書偽装には薄々気付いていたものの、こちらも満州女真族(後に清朝を興す)への対抗上、日本との友好関係維持の為に、偽装には目を瞑ります。何か、豊臣秀吉がブッシュ(麻生太郎)に、徳川家康がオバマ(鳩山由紀夫)に、国書が日朝ピョンヤン宣言に、それぞれ似てなくはない?時系列が多少前後するのはご愛嬌として。
こうして、偽装でない公式の国書を携えた、正式な朝鮮通信使に基づく日朝交流が、江戸時代末期まで、その後ものべ8回に渡り行われます。その中で、通信使の接待を仰せつかった対馬藩儒学者の雨森芳洲と、朝鮮通信使製述官(書記)の申維翰(シン・ユハン)との交流が本格的に始まります。雨森芳洲はハングルの辞典まで作って朝鮮語を覚え、申維翰も日本に対する警戒を次第に解いていきます。芳洲が唱えた「誠信」「交隣」外交というのは、今風に言えば友愛外交・「東アジア共同体」に相当するのでしょうが、その一方で申維翰にも言うべき事はきちんと言っています。決して今のネットウヨクがいう「媚中・親北」なぞではなかった。例えば、申が日本を「倭」国呼ばわりするのを、雨森は「日本」と呼ぶ様にきちんと本人の面前で指摘しています。
その甲斐もあって、朝鮮通信使との接見を通して、朝鮮や朝鮮人に対する日本人の見方が徐々に変わってきます。朝鮮通信使の宿泊施設などの遺構が、通信使の通り道となった瀬戸内海沿岸や近畿地方に散在していますが、それによると、今で言う韓流ブームのような事が起こっていたようです。それも一方通行の交流ではなく、日本が朝鮮から高麗人参を取り入れ、韓国も日本からさつま芋の栽培を学んでいったという、双方向での交流が広がっていました。
以上がそのETV特集番組のあらましですが、何か、今よりも安土桃山・江戸時代の方が、遥かに開放的・進歩的だったような気がしません?日本人民衆の意識も朝鮮人民衆の意識も。確かに当時は、儒教道徳や封建身分制に絡め取られた「切捨て御免」の社会でしたが、その一方で、八っつぁん熊つぁんらによる江戸下町長屋の自由気ままな暮らしも厳然としてありました。「靖国神社」「軍人勅諭」「教育勅語」も「自己責任」「成果主義」もなく、百姓・町人も分け隔てなく朝鮮通信使と交流できた当時の方が、ある意味では明治以降や現代よりも遥かに自由だったのでは。
そして、日朝間の過去の清算や拉致問題解決のヒントも、この中に埋もれているような気がするのですが。北朝鮮の人権状況改善や民主化を掲げる場合も、北朝鮮の民衆を敵に回すのではなく、寧ろ継続的に対話を働きかけていかなければならない。勿論、北朝鮮政府の言うがままでなく、働きかける側が目的意識をもって。それをせず、単に武力で相手の政権をぶっ潰せばそれで良しとするのは、所詮は帝国主義の考え方でしかない。その行き着く先が何であるかは、ベトナム・アフガン・イラクでの米国の失敗を見れば直ぐに分かる。そもそも、「嫌韓流」的な心性の持ち主が、幾ら北朝鮮民衆に民主化の説教をした所で、誰が聞く耳を持ちますか。彼の人たちにとっては、朝鮮通信使も北朝鮮・拉致問題も、単に朝鮮人を貶す為のネタでしかないのですから。
(参考資料)
・ETV特集「シリーズ日本と朝鮮半島2000年 第9回 朝鮮通信使」(NHK)
http://www.nhk.or.jp/japan/program/prg_091227_3.html
・やさしい朝鮮通信使の話(八幡ガイド)
http://www.yamapla.jp/kankou/tsusinsi/
・雨森芳洲と朝鮮通信使(高月観音の里歴史民俗資料館)
http://www.biwa.ne.jp/~kannon-m/hosyu-3.htm
・雨森芳洲庵
http://inoues.net/club/amenomori.html
・朝鮮通信使と村上水軍(上関町商工会)
http://www.y-shoko.com/suigun1/tushin/tuushinsi.htm
・朝鮮通信使in鞆の浦
http://swan.srv7.biz/tomo10.htm
・歴史・対馬から観た日韓関係
http://www1.ocn.ne.jp/~kurose/c-history.htm
・朝鮮通信使のなぞ(フナハシ学習塾)
http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka81.html
あと、ちょっとテーマと外れるかもしれませんが、江戸時代の実態を外国人の日本訪問者の目を通じて描いた「逝きし世の面影」(渡辺京二著)は素晴らしい本。ただ大著なので、とりあえず内容を読んでみたければ高世仁氏のブログを http://d.hatena.ne.jp/takase22/20100119
従って「この頃の方がよかった」というのは国民国家の概念がない状態で、実は相互に見下していた状況を美化したファンタジーともいえます。
色メガネ付きの視線では、偏った歴史しか見えませんね。
誤読してまで当時の李氏朝鮮を擁護する必要はないと思いますが?
私は「割れ鍋に閉じ蓋」だと評しているのに。
1)プレカリさんが「両国関係はかなりいい」
2)(私)朝鮮には当時小中華日本も世間知らずで「割れ鍋綴じ蓋」
3)まことさん「色眼鏡で偏見」
ほら、かみ合った議論じゃないでしょ?
私の「朝鮮通信使」は「相互通信使じゃない片務的」との指摘を考慮する気もないくせに、「色眼鏡」と決め付けておられる。それではまことさんは李氏朝鮮の「朝鮮通信使」方式が対等平等で、日本を尊重した「交隣関係」と言えるのでしょうか?
朝鮮の小中華思想とやらをあれこれ論ずるのであれば、江戸期の日本にあった中華意識も捉えなければ、日朝両国間における朝鮮通信使の政治的位置付けなぞ、何も見えないってことですね。
ご紹介の本はアフェリエイト資料として掲げさせてもらいました。その方が私にとっても何かと便利なので。実際に注文があるかどうかは別として。
ただ、高世仁さんブログ記事「逝きし世の面影2・3」の内容については、幾つか反論を。先方ブログにはコメント欄が見当たらなかったので、こちらに書かせてもらいます。
まず「日本の知識人は過去を全否定」みたいな評価は、ちと違うのでは。室町から江戸期にかけての商品経済・町人文化の発展については、左派系知識人でも決して否定的には見ていない筈。
しかし、幕末期の外国人来訪者の言説を引用しての、「日本は地上の楽園だった」という見方も、余りも一面的では。自分も似た様な事を書いておきながら、こんな事を言うのもあれですが。
何故なら、それら来訪者の目に留まった農民・町人は、いずれも江戸・上方や主要街道沿いに住む、謂わば経済先進地の人々でしょう。それらは当時社会の一断面にしか過ぎないのでは。秋葉原だけが現代日本ではないのと同様に。
また、これは高さんも当該ブログで少し言及されていましたが、幕末当時の日本が、清やインドほどには外国に蹂躙されなかった事もあると思います。しかし、それは何も日本人が特別優秀だったからではなくて、当時の西欧列強が日本では互いに牽制し合った結果、タイ(当時はシャム)と同様に、完全植民地化をたまたま免れただけだったのでは。
修正資本主義者さんへ
日本人から見たら仮装行列みたいな格好をしてても、そこは李氏朝鮮の使節団ですから、その背後には朝鮮側の思惑がちらつくのは当然でしょう。ネットウヨクはそれを針小棒大に取り上げているようですが、それは日本側とても同じ。そういう両者が交流を続ける中で、互いに相手に対する偏見を解きほぐし、次第に歩み寄っていく所にこそ、朝鮮通信使の歴史的功績があるのでは。
それと、修正資本主義者さんの当該コメント全般に感じる事ですが、国民国家というものを余りにも絶対視し過ぎなのでは。「割れ鍋綴じ蓋」論も、「世間知らずだったのは国民国家ではなかったから」という立場で、後の「坂の上の雲=国民国家」史観から幕末日本を見下しているに過ぎない。
確かに「国民国家」史観は、当時においては近代化促進という意味で、一定の進歩的側面があった。しかし、その後は日本では次第に桎梏となっていった事は、それが帝国主義の侵略イデオロギーに変質していった歴史を見れば自ずと明らか。
そして、このグローバル時代においては、既にもう相対的な価値しか持たなくなってきている。それは、例えば右翼の平沼赳夫が、民主党政権による「事業仕分け」の手法を批判するのに、その新自由主義的本質には無批判のまま、徒に蓮舫議員の国籍問題に話をすりかえて、ピント外れな批判を繰り返すしか能がないのを見ても分かる。
抽象的民族自決主義と東アジア共同体思想の抱える対立性に無関心なまま良心派や進歩派を標榜出来ないのが今日の世界なのだから、既に問題は司馬遼批判の地平を超え出ているんですよ。
プレカリさんが「それは日本側とても同じ」とおっしゃる意味もよくわかりません。この箇所に関しては「どっちもどっち」とは違うわけで。ネトウヨ云々はまったく蛇足ですし、バッジさんのご指摘もなんだか的はずれに感じます。
で、その普遍的な理論表現として「ヨーロッパ合衆国」問題がある。
まあ、何だかんだ言う前に、まず鍋中に投げられた概念の意味を知りたまえよw
個別問題への拘泥はお釈迦様の巨大な掌中に存在することの無自覚でもあるんだからねwww
私が言いたかったのは、これまでの江戸評価のなかには、それこそ商品経済の発展や教育の整備など「近代化」を成し遂げていた面への評価が、左右を問わず多かったように思います。あるいは武士道幻想とかね。
本書はそうではなく、江戸という前近代の時代が、近代以降は日本からまったく失われたまったく別の平和で安定した文化を有していたことを魅力あふれるエピソードで書いたことなんです。ですから、もうすでに近代を体験していた欧米人は驚き時にはあこがれた。
もちろん、そういう美点は近代以降はなくなっていかざるを得ません。ですからこの本は、単純な日本美化とはぜんぜん違うんですよ。まあ、この本はブログのテーマとも違うんでここまでにします。