反原連(首都圏反原発連合)が毎週金曜日に首相官邸前で行ってきた反原発デモ。大飯原発再稼働反対に的を絞った素人同然のデモが、当初の数百人から今や十数万人を集めるまでに成長し、とうとう野田首相と会見を行うまでになった。その一方で、日の丸を黙認しながら労働組合の旗は下せと言ったり、デモ参加者から逮捕者が出ても選り好みしてまともに救援に取り組まなかったりなど、反原連幹部の恣意的な発言や行動も目につくようになった。
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/6e7e93070f2f2581a2d2058a224ae295
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/ed24283659f9fadcd0cf46e381ef0b2d
そんな折り、「週刊ポスト」8月31日号に反原連幹部の一人Misao Redwolf(ミサオ・レッドウルフ)氏の単独インタビュー記事が載った。自由報道協会代表の上杉隆氏によるインタビュー記事だが、その内容を見て驚いた。記事の中で展開されているミサオ氏の価値観が、まるでネトウヨや橋下・石原のそれと瓜二つだったからだ。主張こそ、前者の反(脱)原発に対して後者は新自由主義者や右翼で原発・核武装にも賛成(容認)と違うものの、その論理展開の仕方が余りにも似通っている事に今更ながら呆然とした。以下、記事の中から幾つか特徴的な箇所を抜き書きする。文中の「上」が上杉隆氏、「M」がミサオ氏の発言である。
小見出し:「政権打倒が目的じゃない」
上:「再稼働反対」のシングルイシューに限定したことが大きい。原発推進の学者さんや東電の中にだって、今回の再稼働に反対という人はいるし、大飯が止まればゴールだから、運動そのものが自己目的化してしまうこともない。
M:参加者のなかには福島からの避難者のこととか、子供たちの被曝のこととか、自分たちのイシューをかぶせようとする人もいます。私も被曝の問題は重大だと思ってますけど、まず大飯の再稼働を止めることで、大きな風穴を開けたい。
「野田政権打倒」を掲げる人たちもいるけど、私たちはそれが目的ではない。代替案として誰々を首相にしろと、そこまでいえるのなら具体性が出てくるけど、具体的なイシューがないと焦点がぼやけてきて、運動に酔うだけの人が増える気がする。だって内閣を打倒して運動が収束して、いざ他の内閣になったら、もっと原発が悪いことになる可能性だってあるじゃないですか。
(私の感想)
全く以て意味不明。原発推進の御用学者や東電幹部の中に、再稼働に反対の人が一体どれだけいるのか?大飯が止まればそれで良いのか?そんな理屈で行けば、菅前首相が浜岡を停止した時点で、反原発運動は使命を終えた事になってしまう。福島の惨状も放射能の垂れ流しも核のゴミも下請け作業員の被曝もそのままにして。そんな事が果たして人間として許されるのか。
代替案が無ければ何も言えないのか。そんなモノがあろうがなかろうが、ダメなものはダメという所から声を上げるのが普通じゃないか。そんな理屈なら、水俣病の告発すらチッソの公害防止体制(つまり代替案)が整うまでは出来ない事になってしまう。まず今の現状を何とかしろという被害者の叫びから出発した後で、代替案もあれば浮かんでくるだろうし、そもそも、それは加害者(この場合はチッソ)の責任で考え出すものであって、被害者に求められる筋合いのものではない。
内閣が代われば同じというが、それは浜岡や大飯が止まってもそれだけでは何も変わらないのと同じではないか。
これだけでも、反原連のこれらの言い分は、全て「為にするもの」「ただの言いがかり」でしかない事が分かる。運動に酔っているのは寧ろ反原連自身じゃないのか。
小見出し:運動を「乗っ取ろうとする人々」
上:自由報道協会の会見(7月27日)でも、セクト(新左翼)を名指しで批判してましたよね。
M:(中略)いま、私たちの反原発連合では、組織や反原発以外ののぼり旗を立てない、勧誘のビラを配らないといった(自主的な)ルールを設けています。それは反セクト的な意味だけじゃなくて、一般の人が入りやすいという理由もあるんですけど、それで裾野が広がった。だんだんシングルイシュー的な部分が理解されて、運動が成熟してきたわけですが、やはり最後はこの問題なんですよ。
結局、デモが巨大化してから、(セクト系が)またドーッと来るようになった。でも、これに始末をつけなければ、本当の意味での市民運動にならないっていう思いが私の中で強い。
(私の感想)
セクト(党派)や労組の旗がないから参加しやすいという人もおれば、逆にあるから奮い立つ人もいるだろう。そんなものは人それぞれであって、要はデモの邪魔にさえならなければ良いのだ。デモの主題もそっちのけに自派の宣伝や勧誘だけやられたら確かに迷惑だし、そんなセクトや労組もあるのは確かだが、ならその当該セクトや労組に個別に注意して、言う事を聞かなければお引き取り願えばそれで済む話。それを「セクトや労組は全てダメ」と、ミソもクソも一緒くたにして否定・排除するのは、主催者側の横暴でしかない。
そもそも、自民党支持者も共産党支持者も包摂した大衆団体の労組を、政党やセクトと同一視してしまっている時点で、反原連の主張が如何に浅はかなものかが分かる。そんな事を言い出せば、反原連自身も一つのセクトであるのに、自分だけは良くて他は全てダメというのは、反原連による独裁以外の何物でもない。デモの真の主人公は参加者であって主催者ではない。
小見出し:デモの”協賛”は警察!?
上:これまでのデモは、「権力側は敵だ」という前提から入っていたけど、今回は政治とも話し合いの場を持とうとしている。
M:デモとか抗議って、それ自体は国策を変えるわけではない。やっぱりエネルギー政策の転換は国会で政策を練らないといけないことだと考えています。数で押すことによって、ようやく議員さんが反応を示すところまで来たな、と。
(私の感想)
この物言いは、「デモや抗議では政治は変えられない、最後に頼りになるのはやはり国会議員や政治家などの”偉い人”だ、デモはその政治家の後押しに徹すれば良い」と言っているに等しい。何とまあ封建的な価値観か。これでは「お任せ民主主義」そのものではないか。やれツイッターやネットで人を集めたの、斬新で新しいデモのスタイルだのと言われながら、実際にそれを主導しているのは、昔の議員後援会のオジサン・オバサンみたいな旧態依然たる人たちであった。
実際は全く逆で、デモや大衆運動が政治家や政治そのものを変えてきた事は、フランス革命などの歴史や今のジャスミン革命の経緯を見れば明らか。この日本でも公害反対の住民運動や革新自治体の運動が実際に政治を変えてきた歴史がある。その運動が潰された後のたかだか数十年の歴史だけを見て、「デモだけでは政治は変わらない」と訳知り顔に言う人たちは、己の奴隷根性や怠慢を誤魔化す為にそれを言っているだけ。
小見出し:私たちは”人生の押し引き”が分かる
上:日本には60年、70年安保闘争にノスタルジーを覚える世代がいる一方、その下の世代はデモが日本を悪くしたというマイナスイメージを持っている。それを払拭しようとしているのは大きいことです。
M:私は安保のときのこととか、一般レベルの知識しかないんですけど、当時はリーダー的な学生も一緒に突入したんでしょう?でも私たちは主に30~40代以上の”大人の”コアメンバーで運営しているので、人生の押し引きとかもわかる。私たちはリーダーでもなくてただの呼びかけ人ですけど、その呼びかけをした私たちが若すぎないから、粘りもあるんじゃないかな。
(私の感想)
はあ?「デモが日本を悪くした」?日本を悪くしたのは自民党などの政治家や、労働者をどんどんクビにして格差を拡大してきた経営者だろう。なのに、政治の事は良く分からない「一般レベルの知識しかない」封建的なオジサン・オバサン、奴隷根性に囚われた「30~40代以上の”大人”」が、自民党や経営者、橋下・石原などの尻馬に乗って、末端の労組員や公務員、生活保護受給者などを叩きまくり、強きにへつらい弱きを挫く・・・それに対する「ネトウヨの言い訳」にしか聞こえない。この週刊ポストのインタビュー記事のタイトルに「脱原発デモの内なる敵はサヨクとネトウヨだ」とあり、しかもネトウヨ(在特会)批判は申し訳程度で大半がサヨク批判なのだが、これでは自分たちこそが「ネトウヨ」そのものじゃないか。
いや実際にあるよ。この記事で取り上げられているような「既得権益の上に胡坐をかき一般市民とは縁遠い労組」や「デモや集会を単なる自派の草刈り場としか見做さないサヨク党派」の姿とかも。官公労や民間大企業の正社員労組がそうだ。会社べったりで会社と一緒になって原発推進している御用組合(電力総連)なんてその典型でしょう。でも、そうではない労組や党派も一杯ある。
ちなみに私も労組員だが、私が個人で加盟している地域労組のどこにそんな「既得権益」があるのか。色んな会社・職種・地域の非正規労働者の寄せ集めで、勤務時間も休日もバラバラの弱小組合で、社内ではビラ一枚自由にまけないのに。職場での業務改善や労働条件改善の取り組みは、全て私が勝手に行い、労組には必要な時に報告して助言を仰ぐのみ。それでも「腐っても鯛」、いざという時には、そんな労組でも当てにするしかないから加盟しているのだ。そんな労組まで含めて、ミソもクソも一緒くたにされて「脱原発デモの敵」扱いされたのでは堪らない。それもこれも、所詮は「世間知らずのブルジョア・セレブの有閑市民」主導のデモだからか。
正直言って、この「週刊ポスト」の記事を読んで、反原連に対する見方が大きく変わった。今後もずっと反原発・脱原発の取り組みには参加していくつもりだが、こんないい加減な、逮捕されても知らんふりされるようなデモには参加しないだろう。
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そんな折り、「週刊ポスト」8月31日号に反原連幹部の一人Misao Redwolf(ミサオ・レッドウルフ)氏の単独インタビュー記事が載った。自由報道協会代表の上杉隆氏によるインタビュー記事だが、その内容を見て驚いた。記事の中で展開されているミサオ氏の価値観が、まるでネトウヨや橋下・石原のそれと瓜二つだったからだ。主張こそ、前者の反(脱)原発に対して後者は新自由主義者や右翼で原発・核武装にも賛成(容認)と違うものの、その論理展開の仕方が余りにも似通っている事に今更ながら呆然とした。以下、記事の中から幾つか特徴的な箇所を抜き書きする。文中の「上」が上杉隆氏、「M」がミサオ氏の発言である。
小見出し:「政権打倒が目的じゃない」
上:「再稼働反対」のシングルイシューに限定したことが大きい。原発推進の学者さんや東電の中にだって、今回の再稼働に反対という人はいるし、大飯が止まればゴールだから、運動そのものが自己目的化してしまうこともない。
M:参加者のなかには福島からの避難者のこととか、子供たちの被曝のこととか、自分たちのイシューをかぶせようとする人もいます。私も被曝の問題は重大だと思ってますけど、まず大飯の再稼働を止めることで、大きな風穴を開けたい。
「野田政権打倒」を掲げる人たちもいるけど、私たちはそれが目的ではない。代替案として誰々を首相にしろと、そこまでいえるのなら具体性が出てくるけど、具体的なイシューがないと焦点がぼやけてきて、運動に酔うだけの人が増える気がする。だって内閣を打倒して運動が収束して、いざ他の内閣になったら、もっと原発が悪いことになる可能性だってあるじゃないですか。
(私の感想)
全く以て意味不明。原発推進の御用学者や東電幹部の中に、再稼働に反対の人が一体どれだけいるのか?大飯が止まればそれで良いのか?そんな理屈で行けば、菅前首相が浜岡を停止した時点で、反原発運動は使命を終えた事になってしまう。福島の惨状も放射能の垂れ流しも核のゴミも下請け作業員の被曝もそのままにして。そんな事が果たして人間として許されるのか。
代替案が無ければ何も言えないのか。そんなモノがあろうがなかろうが、ダメなものはダメという所から声を上げるのが普通じゃないか。そんな理屈なら、水俣病の告発すらチッソの公害防止体制(つまり代替案)が整うまでは出来ない事になってしまう。まず今の現状を何とかしろという被害者の叫びから出発した後で、代替案もあれば浮かんでくるだろうし、そもそも、それは加害者(この場合はチッソ)の責任で考え出すものであって、被害者に求められる筋合いのものではない。
内閣が代われば同じというが、それは浜岡や大飯が止まってもそれだけでは何も変わらないのと同じではないか。
これだけでも、反原連のこれらの言い分は、全て「為にするもの」「ただの言いがかり」でしかない事が分かる。運動に酔っているのは寧ろ反原連自身じゃないのか。
小見出し:運動を「乗っ取ろうとする人々」
上:自由報道協会の会見(7月27日)でも、セクト(新左翼)を名指しで批判してましたよね。
M:(中略)いま、私たちの反原発連合では、組織や反原発以外ののぼり旗を立てない、勧誘のビラを配らないといった(自主的な)ルールを設けています。それは反セクト的な意味だけじゃなくて、一般の人が入りやすいという理由もあるんですけど、それで裾野が広がった。だんだんシングルイシュー的な部分が理解されて、運動が成熟してきたわけですが、やはり最後はこの問題なんですよ。
結局、デモが巨大化してから、(セクト系が)またドーッと来るようになった。でも、これに始末をつけなければ、本当の意味での市民運動にならないっていう思いが私の中で強い。
(私の感想)
セクト(党派)や労組の旗がないから参加しやすいという人もおれば、逆にあるから奮い立つ人もいるだろう。そんなものは人それぞれであって、要はデモの邪魔にさえならなければ良いのだ。デモの主題もそっちのけに自派の宣伝や勧誘だけやられたら確かに迷惑だし、そんなセクトや労組もあるのは確かだが、ならその当該セクトや労組に個別に注意して、言う事を聞かなければお引き取り願えばそれで済む話。それを「セクトや労組は全てダメ」と、ミソもクソも一緒くたにして否定・排除するのは、主催者側の横暴でしかない。
そもそも、自民党支持者も共産党支持者も包摂した大衆団体の労組を、政党やセクトと同一視してしまっている時点で、反原連の主張が如何に浅はかなものかが分かる。そんな事を言い出せば、反原連自身も一つのセクトであるのに、自分だけは良くて他は全てダメというのは、反原連による独裁以外の何物でもない。デモの真の主人公は参加者であって主催者ではない。
小見出し:デモの”協賛”は警察!?
上:これまでのデモは、「権力側は敵だ」という前提から入っていたけど、今回は政治とも話し合いの場を持とうとしている。
M:デモとか抗議って、それ自体は国策を変えるわけではない。やっぱりエネルギー政策の転換は国会で政策を練らないといけないことだと考えています。数で押すことによって、ようやく議員さんが反応を示すところまで来たな、と。
(私の感想)
この物言いは、「デモや抗議では政治は変えられない、最後に頼りになるのはやはり国会議員や政治家などの”偉い人”だ、デモはその政治家の後押しに徹すれば良い」と言っているに等しい。何とまあ封建的な価値観か。これでは「お任せ民主主義」そのものではないか。やれツイッターやネットで人を集めたの、斬新で新しいデモのスタイルだのと言われながら、実際にそれを主導しているのは、昔の議員後援会のオジサン・オバサンみたいな旧態依然たる人たちであった。
実際は全く逆で、デモや大衆運動が政治家や政治そのものを変えてきた事は、フランス革命などの歴史や今のジャスミン革命の経緯を見れば明らか。この日本でも公害反対の住民運動や革新自治体の運動が実際に政治を変えてきた歴史がある。その運動が潰された後のたかだか数十年の歴史だけを見て、「デモだけでは政治は変わらない」と訳知り顔に言う人たちは、己の奴隷根性や怠慢を誤魔化す為にそれを言っているだけ。
小見出し:私たちは”人生の押し引き”が分かる
上:日本には60年、70年安保闘争にノスタルジーを覚える世代がいる一方、その下の世代はデモが日本を悪くしたというマイナスイメージを持っている。それを払拭しようとしているのは大きいことです。
M:私は安保のときのこととか、一般レベルの知識しかないんですけど、当時はリーダー的な学生も一緒に突入したんでしょう?でも私たちは主に30~40代以上の”大人の”コアメンバーで運営しているので、人生の押し引きとかもわかる。私たちはリーダーでもなくてただの呼びかけ人ですけど、その呼びかけをした私たちが若すぎないから、粘りもあるんじゃないかな。
(私の感想)
はあ?「デモが日本を悪くした」?日本を悪くしたのは自民党などの政治家や、労働者をどんどんクビにして格差を拡大してきた経営者だろう。なのに、政治の事は良く分からない「一般レベルの知識しかない」封建的なオジサン・オバサン、奴隷根性に囚われた「30~40代以上の”大人”」が、自民党や経営者、橋下・石原などの尻馬に乗って、末端の労組員や公務員、生活保護受給者などを叩きまくり、強きにへつらい弱きを挫く・・・それに対する「ネトウヨの言い訳」にしか聞こえない。この週刊ポストのインタビュー記事のタイトルに「脱原発デモの内なる敵はサヨクとネトウヨだ」とあり、しかもネトウヨ(在特会)批判は申し訳程度で大半がサヨク批判なのだが、これでは自分たちこそが「ネトウヨ」そのものじゃないか。
いや実際にあるよ。この記事で取り上げられているような「既得権益の上に胡坐をかき一般市民とは縁遠い労組」や「デモや集会を単なる自派の草刈り場としか見做さないサヨク党派」の姿とかも。官公労や民間大企業の正社員労組がそうだ。会社べったりで会社と一緒になって原発推進している御用組合(電力総連)なんてその典型でしょう。でも、そうではない労組や党派も一杯ある。
ちなみに私も労組員だが、私が個人で加盟している地域労組のどこにそんな「既得権益」があるのか。色んな会社・職種・地域の非正規労働者の寄せ集めで、勤務時間も休日もバラバラの弱小組合で、社内ではビラ一枚自由にまけないのに。職場での業務改善や労働条件改善の取り組みは、全て私が勝手に行い、労組には必要な時に報告して助言を仰ぐのみ。それでも「腐っても鯛」、いざという時には、そんな労組でも当てにするしかないから加盟しているのだ。そんな労組まで含めて、ミソもクソも一緒くたにされて「脱原発デモの敵」扱いされたのでは堪らない。それもこれも、所詮は「世間知らずのブルジョア・セレブの有閑市民」主導のデモだからか。
正直言って、この「週刊ポスト」の記事を読んで、反原連に対する見方が大きく変わった。今後もずっと反原発・脱原発の取り組みには参加していくつもりだが、こんないい加減な、逮捕されても知らんふりされるようなデモには参加しないだろう。
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反原連の方も「ミソもクソも一緒くた」にしてはマズいと思いますよ。反原連だって「『脱原発デモの敵』扱いされたのでは堪らない」と思います。
問題があるのは、13団体の連合体である今の反原連のごく一部、おそらく運動のヘゲモニーを握っている中心部の内の5~6人だと思います。
ところで・・・・
真面目でまともな反原発運動が核武装論者や日の丸右翼と共同することはありえないことをこの際確認しておくべきだと思います。
反原連は、この「運動の基本」が出来ていないからなおさらです。
①反原発運動の本質は、人類を放射線被曝の危険から守ることです。
だから、シングルイシュー運動を口実にして、核兵器への対応を曖昧にすることは、運動の本義に背くことになる。原発の放射能はダメだが核兵器は許容するという思想をもつ人間との連帯や共闘を主張するようなことは、この放射線被曝反対、核被害を無くそうという運動の主旨に照らせば、重大な不徹底・逸脱か悪しき意図があるとみなされても仕方がない態度です。
もしこのような「二枚舌」を許すならば、核廃棄物の再処理施設問題であれ被曝労働問題であれ、全て「ワン・イシュー」の外側に置かれ許容されてしまうことになる。 それではまともな反原発運動ではありません。
②反原発運動は、国境を越えた国際連帯運動を不可避化させる運動です。原発による放射能被害が国境を越えて拡散される可能性を否定出来ないものである以上、反原発運動に国境や狭い民族主義の枠組みは存在し得ません。
だから、日本の運動も当然国籍や国境を越え出なければならない。反原発運動や反核運動を一民族や国境の枠内に留めおこうとするのは、最終的には運動自体に敵対する反動思想になるのです。
在日外国人の参加や原発稼働国である中韓の民衆との連帯にわざわざ障害を設ける日の丸民族運動化は、選別と排除を内在させたニセモノの反原発運動です。
つまり、「日の丸右翼や核武装論者とも共同する反原発運動」なるものは、運動の主旨・本義を踏み外すことであり、それは、「丸い三角形」のごとき形容矛盾でしかないということです。
こういう方向性を提唱、許容する「指導部」「指導者」は、早急に乗り越えられなければならないでしょう。
問題があるのは、13団体の連合体である今の反原連のごく一部、おそらく運動のヘゲモニーを握っている中心部の内の5~6人だと思います。(バッジさん)
そうですね。確かに言い過ぎたかも知れません。と言うか、そもそも私が最初に参加した反原発デモが、大阪での反原発メーデーや市民団体「ストップ・ザ・もんじゅ」主催のデモで、労組や生協の旗やのぼりが林立していましたから。その後2011年の夏にそれまでの労組・市民団体主催のデモとはまた違う、無党派の若者中心のデモに参加し、そこで宣伝カーから流された「君が代」に初めて違和感を覚えました。
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/d7294ce037f19e279ce27c94f7622b91
これを機に震災以降に書いた自分の反原発関連の記事を読み直してみて、労組や反原発の老舗市民団体中心のデモと、無党派の若者中心のデモの、二つの潮流がある事に改めて気付きました。今何かと問題になっているのが後者の潮流ですよね。
当時の私は、今だから白状しますが、どちらかと言うと「右翼にもようやく在特会などの差別排外主義とは違う、国よりも人間救済の視点で愛国を語れる人が出てきたか」という、寧ろ肯定的な視点で見ていた部分がありました。
「日の丸」についても、天皇賛美一色の「君が代」とは違い、「日の丸」自体は日本という国名を象徴したものに過ぎず、それを侵略戦争賛美に悪用してきた明治以降の指導者が悪いのであって、「日の丸」自体には何の罪もない、という意識が心のどこかにありました。
しかし、その一方で、「日の丸」が実際に悪用され今も悪用しようとしている勢力が日本を動かしている中で、無批判に「日の丸」を掲げる事への忌避感も同時に内包していたので、反原発デモで主催者の一部が当然のように「日の丸」を掲げるのを見て、「これはちょっと違うだろう」と思う気持ちが次第に大きくなっていきました。
その私が何故「週刊ポスト」のミサオ取材記事に激しく反発したかというと、寧ろ「日の丸」の扱いよりもあそこで「労組一般を否定された」、言いかえれば「自分の労働者としての人権要求まで否定された」事への反発があったからです。
これが単に連合系や共産党系のどこそこの組合に限定されての批判なら、そういう否定的な現象は私も生協などで体験してきたから、その主張には全面的には賛同出来なくても、あそこまで反発はしなかった。でも、単に中核派や共産党とかへの個別の批判ではなく、労組や左翼全体を十派一絡げにして「お前らよりも俺らの方が正しいのだ」と言わんばかりの書きようをされた(少なくとも私にはそう読めた)ので、「お前らの方がよっぽど独善で排他的じゃないか」と書いてしまったのです。
それでその「日の丸」ですが、今思うとやはりバッジさんの仰られる通り、韓国・台湾にも中国・北朝鮮にも反核・反原発を訴え当事国の人民とも連帯していかなければならない以上、これらの人々からすれば同じでしかない「日の丸」も「君が代」と同様に排除しなければ、「人殺しの核発電は否定してもそれと同様の核武装は肯定するのか」という事になってしまいますね。
ただ、それを労組・市民団体主催のデモと同じような感じで無党派の反原発デモでも振り回す事が出来るかどうかと問われたら、今でもちょっと迷いますね。勿論、内部への働きかけは必要ですが、あくまで大衆の共感を得る形でやらないと、「セクト争い」「内ゲバ」と見られかねない。
今はとりあえず、秋原葉月さんのブログにもあるように「別個で進んで共に撃つ」、それも「商売敵」として見るのではなく「互いにエールを交換し合う」程度に「付かず離れず」でやっていくしかないのかも。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-1039.html
その中で相手が本当に「まず先に国体護持先にありきではなく、たとえ右翼的思考の持ち主ではあっても人命救済の視点で運動をしている」ならそれなりに真摯な対応をされるであろうし、そうではなく、一部で言われているように橋下や小沢一派の意を受けて反原発運動を反核運動や労働運動から切り離そうとしているだけなら、その正体も自ずと明らかになってくるでしょう。
デモなどで各種団体が持ち寄る団体標旗は、その、持ち寄るということ自体がプルラリズム(民主主義)を表現するものでもありますが、ある集団に日の丸や国旗が掲げられるということは、たとえそれが1本であっても集団全体を染め上げてしまうことになる。1本の日の丸は1本の組合旗とは質や存在性格がまるっきり違うのです。
日の丸やハーケンクロイツに限定されませんが、「国旗」一般は、「国民」や「民族」をファシスタ(束)的に統一しそれを表現する機能をもつものですから、それは例え1本でも十分に機能するんです。オリンピックの開会式入場行進などをみれば明らかですが、日の丸を含む「国旗」一般は、集団の先頭に1本あればそれで十分なんです。
各種団体旗はそうはいかない。
同じ共産党員や支持者が集まる赤旗まつりのようなイベントでも、そこには多様な旗が集まる。集まらざるを得ない。「日本共産党○○地区委員会」とか「日本共産党××後援会」とか「J.C.P.Y.F.C神奈川」とか「大阪△△生協支部」とか・・・・・・それぞれが表現し存在を主張する。
しかし、日の丸は違います。舞台の演壇の後ろ上部にたった一枚しか掲げられなくても、それで目的は達するのです。集会全体をくまなく染め上げるという目的は達せられる。反原発デモのようなケースでも、その染色力はいかんなく発揮される。
デモの先頭に1本の日の丸があるだけで、そのデモ集団は全て同質の人間達とみなされるんです。○○党や××労組が日の丸に反対しているなどということは、少なくとも外国人の眼には理解されない。
日の丸の社会的機能にはそういう問題があるのですよ。
反原発デモに日の丸が揚がるということには、そういう問題が出てくるということです。
労組等の旗がアウトなら、日章旗アウトでお願いします
私は実際には左寄りですが、非正規雇用を切られた立場ですので、実際にはデモには参加していません。
「~~していないから」という非難はおかしいと思います。
その人のできる範囲で、様々な働きかけをするのが一番いい方法なのではないでしょうか?
実際、デモに参加できる人は余裕のある方です。
現役を引退された方とか、あるいは主婦の方。
子どもたちに放射能がとても有害で、そのことをとても訴えたい、それはとてもよくわかります。
しかし、現実に参加できない事情のある人間も大勢いて、彼らは彼らなりにそれでもネット署名や支持してきた議員さんへの働きかけなどの方法をとります。
それを非難するのはとてもおかしいことだと私は思います。
それから、右翼的な思想の方は、大概外国人排斥を訴えます。今は実は繊細な時期ですが、今後の日本の将来を考えたところで、国際協調主義(在日外国人労働者との協調)は避けられない問題です。それとも女性にただひたすら子供をうませて、昔のように「産めよ増やせよ」で、何とか人口を増やしますか?
それから労組を排斥すること。
確かに労組内部にもさまざまな問題を抱えています。
しかし、労働者を守ってきたのは労働組合です。
そのことをしっかり認識してほしいと私は思います。
大切なことは、一時的にお祭り騒ぎのようにデモをして、流行がすたればやめる。
そのことよりも息を長く、反原発を続けていくことです。
そして、あの事故処理のみならず、今後閉鎖されていく原子力発電所の後処理のためには、原子力の技術者は欠かせない存在です。
新しいエネルギー開発は今後脚光を浴びるでしょう。
しかし、原子力技術者はいわば裏方です。
そうした人たちがいないと、これから長い年月をかけて、きちんと後処理をする人がいなくなります。
待遇をよくして、労働条件をよくする必要性があります。
さもないと、「昔の原発」の後処理者がいなくなって、何かアクシデントが起こったとき、困るのは次世代以降の人々です。
これは地球全体の問題と言えます。
オレンジコープ泉南生協で労使紛争になって居るらしいが、何か知りませんか?
ご質問の件ですが、急遽ネット検索をかけてみましたが、下記の阪南労連主催の権利討論集会案内チラシに、争議組合として生協労連(オレンジコープ)の名前が載っている事しか分かりませんでした。
http://izumi-sishokurou.no-blog.jp/blog/files/img-706114425.pdf
泉南生協についても、オレンジコープと名称変更した事までは辛うじて覚えていましたが、後はもう忘却の彼方に。今調べてみたら、和歌山の生協とも合併して連合体になり、大阪府下全域で介護事業にも進出するようになっていたのですね(今は寧ろ後者の方が主体に)。そこに生協労連傘下の労組が出来た事も今初めて知りました。
http://orangecoop.jp/
もう少し調べてみたら、生協労連関西地連の機関紙「生協のなかま かんさい」にオレンジコープ関連の記事が。どうもここが一番事情をよく知ってそうな感じですね。
http://cwu.jp/action-cms/files/2011/11/11kansaino17_20111122.pdf
http://cwu.jp/action-cms/files/2012/03/11kansaino32_20120327.pdf
片仮名で表記するのは、漢字で書くような正当性がないことの現れと感じられます。自分たちは漢字で書かれて当然ということの裏返しです。となると、ネットの右翼でもない、左翼でもないとなると、右翼しかありません。
右翼も自分たちの正当性や重厚感を醸して存続を図りたいため、左翼そのものは否定し、ネットの右翼を切り捨てにかかろうとしているのですね。あんなものと一緒にするなと。
自称「右翼本流」を行きたいという姿勢が小学館には感じられますね。それが編集サイドからSAPIOも含めて執筆者に伝わり、似た色合いの記事が目立っているのかなと思います。
所詮は、マンガの出版社なのですがねえ。世の中を漫画チックに変えないでほしいです。