近所の友人(ちょっと年上の。実は83才)と立ち話をしました。
友「私と同い年の男性の知り合いからお手紙が来て『老残、老残』と繰り返すから、何を言ってるのと叱咤激励の手紙を書いていたところなんです。
確かに体力や記憶力など、歳を感ぜざるを得ない点もないとは言わないけど、これはまぁ当たり前でしょ。
ほんとのことを言うと、私は健康にも恵まれていて、格別の不調はないんですよ。
ただ意欲だけは若い時と同じ、というか若い時よりももっとしたいことがたくさん。あれもこれもやりたいと次々にわいてくるんですもの、時間がいくらあっても足りません。
年賀状用にウサギのちりめん細工の人形もこしらえましたよ。琴を弾いているのと、『夢』と書いているのと、羽子板で羽根を突いているのの三体。やりたいとなったら一晩で仕上げたりもしますよ!かわいいのができました。
デジカメで撮って年賀状にしなくては。忙しいんです。それなのに老残とは何事でしょう。気分が悪くなりますでしょ、同い年だから」
私はいつもこの友人とお話しすると、ひざを打つ思いになります。
話は、「どのように生きるか」から「どのように死ぬか」に移っていきました。
友「知り合いの方で、鼻からチューブを入れてもらって栄養を摂ったんでしょうね。そのためにお話もできない状態で、長く生きられた方がいました。息子さんは『ボクがいくと母の足が動く』といわれてずーと面倒を見られましたが、見送ってからようやく結婚をされました。50歳は超えていたと思いますよ・・・」
私「その方は長生きしたかったんでしょうか?息子を結婚もできない状態にしてまで、世話をしてもらいたかったんでしょうか?」
桂谷八十八か所めぐり
友「私ならそういう生き方はしたくない。自分らしく生きたいから。
実は尊厳死協会に申し込もうかと思ってるんですよ」
私「尊厳死協会に入られなくても、希望をチャンと自筆で書いておかれたらいいようですよ、日付けとね。
痛みのコントロールはしてほしいけれども、鼻からのチューブや中心静脈カテーテルは不要。まして胃ろうはしないでほしい。もちろん人工呼吸器もいりませんとか」
私は、いつも夫や仲のいい友人とこのような話を具体的にしていますから、ついつい今日も具体的にお話ししてしまいました。
私「もしものことが起きた時に、お嬢さんは『(母を生かすために)何でもできるだけのことをしてください』とお願いする方がずーと心情にあってます。『(母を自然に逝かせるために)何もしないでください。これもあれもしないでください』と訴えるのは心理的にはとても重荷になるに決まってます。
唯一の支えが『このように母が望んだことですから』ということではないでしょうか?」
修善寺は和紙の里ミツマタの花 紅葉もまだきれい
考えてみたら、私は母親の気持ちと、子どもの気持ちを同時に味わっていたようです。
終末期の医療費は一週間で600万円も800万円もかかるとよく聞かされますし、1か月後に死亡していたら保険請求ができなくなるというルールがあれば、終末期の濃密医療は消えていくだろうということも、実際に説明されたこともあります。経済的な観点からもどのような「死に方」が求められているかを探る必要はもうすぐそこまで来ているといつも思ってますが、こうして高齢者の方を目の前にしてお話しすると、「どういう風に思いますか?どう感じるでしょう?」と、論理や計算は飛んでしまうのが右脳優位の私の思考パタンです。
友「5年日記を書いてますから、最初のページに希望だけは書いておくことにしてね。
娘は、元気で生き生きとしている私が誇りのようですから、ぜいぜい私らしくいきいきと毎日を楽しみましょう。
ところで、生垣を植え替えたんですよ。前の柘植が枯れたのが混ざって気になってたんです。この年になってとか、この年末にとか、ちょっと考えたりもしましたが、だって植えたかったんですもの紅丁花(コウチョウゲ)が。
来春になると茂ってくるでしょうし、来年の年末にはだいたい形もできてるはず!このくらいの高さにして、こんもりと山形にして、ちょっと重なるようにして・・・」とお話は尽きません。
私の友人にとっては、「死に方」が問題ではなく、やはり「生き方」が問題なのですね。
終末期医療についてネットで検索してみるといろいろな意見があふれています。経済的な見地から見たものでも多様です。
関心のある方はチェックしてみてください。