前回のブログは、ちょっと舌足らずだったので追加です。
中伊豆ワイナリー
「歳をとることによって、能力低下は避けえない」という厳然たる事実があります。
それは自分が歳をとってきて、これ以上ない実感として理解できます。友人たちとも、それぞれの低下のエピソードを感動的に語ったりします。
多分、これからもさらにその能力低下はヒタヒタと押し寄せてくることでしょう。
その時二つの姿勢がどうしても必要だと思うのです。
一つは「その能力低下にどう立ち向かうのか」
治療はないのか?工夫はないのか?メガネ・補聴器・装具など低下をサポートする道具はないのか?etc
そのような種々の行動をとりながらも、同時に「能力低下を年齢相応自然なものとして受け入れる」という姿勢も必要でしょう。
前回のブログでは
「積極性はもちろん大切なことですが、それとともに現在の自分を受容してやれるのは、まさに自分しかないということにも気づく必要があります。」と書きました。
今回の私の白内障事件では、
視力低下が起こる。
なぜなのかを病院でチェックしてもらう。
白内障という原因がわかり、手術・経過観察の両方の選択肢があることが判明する。
本や、ネットや、人の話などを参考にして早々と手術を決める。ここまでが第一段階の姿勢です。
さてその次の段階。
第一段階を経て到達した状態が、よほどの不都合があるなら、もう一度やり直し。それでも種々の方策をとってみたけど能力低下がカバーしきれないことも多々あるでしょう。
いずれにしても、どこかで「これでよし」として普通の生活に戻っていく覚悟がいると思うのです。
考えてみれば、今回の白内障のようにはっきりと原因が決められない症状ならば、対処方法のない自然な加齢現象とし受け入れるしかないでしょ。
「以前とと同じように~ができたら、~をするんだけど」ではなく「今できるこの能力を使って~をしよう」という姿勢です。
若い頃のように100%の能力で生きていくばかりの生き方しかないとすると、歳を重ねることは悲しみ以外の何物でもないということになってしまいます。
能力が低下していく中で、なお「自分らしく」とか「この能力の中で何ができるか」とか「どんな工夫が不可欠か」を創意工夫するのが、前頭葉です!
その時に楽天的、positive thinkingが重要なことは、かくしゃく100歳の方々の調査をしたときに、生き方の共通項としてはっきりと見て取れました。
さて私のケースでお話しします。
術後、右裸眼で0.8見えると、「メガネなしで生活できる!」と思いました。
「それでもはっきり見えない」とか、「左眼は0.4しか見えない」とか、「近くは見えない」などのマイナス要因はあまり考えないように、日々機嫌よく生活するように意識して暮しました。
「メガネで矯正できるんだからそれも楽しみ」とも思いながら生活しました。
こういう姿勢は、自画自賛のようですがもちろん良いこと。さらなる低下を呼びません。
ところが、この話はもう少し続きます。
念願のメガネができて、遠近きちんと見えるようになったときに、あまりよく見えてびっくりしました。
「こんなに見える世界があることを忘れていた」と思ったのです。本当にびっくりしたのです。
と、言うことはちょっと見えない状態にあまりにもうまく適応してしまっていたということですね!
すぐに思い浮かべたことがあります。
小ボケの人は、どこに連れて行っても、何を食べさせても感動のかけらもなく、会話も一方的で楽しめないものです。
ところが脳機能がイキイキしてくると、景色にも料理にも人との会話にも、本人から「感動できるようになった」と述懐されることがよくあります。
高齢になっていくということは、種々の能力低下が否めないということです。
そこを否定的に見るだけでなく、受容的に見ることも必要ではないかと、私は言っているのですが、同時に、低下の現状を受け入れきってしまうとそれはさらなる能力低下を呼ぶ危険性もある…二律背反・・・
でも安心してください。
一番大切な脳に関しては、結構はっきりしていますから。
三頭立ての馬車(マニュアルA6P)を思い浮かべてください。馬の調子が落ちてきても、そこを上手に使いこなすのが御者(前頭葉)の仕事です。御者がいつも御者らしくあるように気を付けることが、脳の能力低下を防ぐ近道。
今の、この状態ということを正しく判断して(これが前頭葉の役割)、生きることに意欲や興味をかきたて(これも前頭葉の役割)、自分らしく生き続けるということに尽きるでしょう。