訃報が、また。
伊豆高原に住むようになってすぐにお近づきになった小野先生。1月に89歳におなりでしたから享年90歳。
「僕ほど人生に満足している人はいないと思う。妻をはじめ家族、仕事、交友。そしてここ伊豆高原の生活を満喫しているから」今このお言葉が胸をよぎります。
「先生と呼ばないでください」とおっしゃいましたが、皆さんがそう呼ばれていたことと、それ以上に「先生」の敬称がぴったりだったのです。穏やかな紳士で、博識で、そのうえ新しいことやご存じないことには興味津々。
「僕の職場には、教育部門、生産部門そして宿泊部門もあるんです」
???
「時の総理大臣も泊まられたことがある・・・」
「アッ刑務所ですか?」
今アップした写真のような表情でうなずかれました。
まだまだ戦後といってもいい時代、大学院を卒業された先生が刑務官を志望なさるに当たっては、多分ドラマがあるはずですが残念ながら伺っていません。
福岡―東京―奈良ー佐世保(ここでもう所長!)-東京ー山梨ー仙台―東京。もう少し異動があったかもしれませんが、その時その時の生活ぶりを折に触れてはお話しくださいました。
最高位である東京矯正管区長をお勤めになられて定年退職なさったのですよね。その後委員になられたり教鞭をおとりになったり。生活の場として伊豆高原をチョイスされましたが、いつも「海あり山あり。居間に座していても景色が季節を教えてくれる。温泉もあっていい選択だった」と微笑みながら、悠々自適の生活をなさいました。
私たちは、ちょっと歳は離れてその上男女なのですが、お話しするととどまるところがないような感じで楽しい会話が続きました。
会話の幅はとても広かったと思います。
生きるということに特化して、お話ししたことは何度もあります。「いかに生きるか」ということは「いかに死にゆくか」と同義でもあります。
この書類が用意されていることは、ご家族はご存じなかったそうです。日付は2012年6月11日。
言葉で聞かれたことは何度もあったでしょうが、私もうかがってますから。でも、こうして明文化しておくことは大切なことですね。
前書きの部分です。
そして最後の署名。私は初めて拝見する先生の筆跡を見つめてしまいました。
「本当に先生らしい…」どう見ても男性の字だと思いますが、明るく軽やかで優しい。
一昨年、私たちが書いたリビングウイルや友人が用意したリビングウイルをブログにアップしました。
宣誓記述書
友人が書いた本式のLiving Will
「これをブログにあげさせていただきたいのですが」とためらいがちにお伺いしたら、奥様もご長男も
「まったく構いません!これは真意だったはずですから」と即答してくださいました。
先生とのご縁は、と書き始めると本当に限りがありません。
会話を楽しんだだけでなくハイキング、春も秋も本当にいろいろなところにご一緒させていただきましたねえ…一泊旅行も何度も。K所さんご夫妻と3夫婦での月一度の夕食会も楽しい体験でした。川奈ホテルでのクリスマス会や新年会は、ちょっとお洒落をして。
新しいお店を探してお連れすると、気に入ってくださったときはちゃんとほめてくださり、お気に召さないと優しい口調で「僕には合わない」と伝えてくださいました。
先生は、いつの時もご自分の考えをしっかりお持ちでした。その伝え方が、単刀直入にもかかわらず、耳を傾けたくなるような力を持っていらっしゃったと思います。
話が脱線していますが、思い出が尽きません。
伊豆高原の小野先生を思い浮かべると、IKOI農園(哀悼記事のページにしてあります。ここを読みながらIKOIの皆さんのお気持ちを思って、ともに涙を流しました)を外すわけにはいきません。お宅のすぐ前の畑を、有志の方に開放して皆さんで農作業や収穫祭を楽しまれたのです。IKOI農園のお仲間があってこそ、お仲間と一緒に「農作業にいそしむこと」や「歩こう会や遠足など」という多分想定外の楽しい人生が繰り広げられたのですね。
先生、ほんとによかったですね。
小野先生は私のパソコンの先生でもありました。具体的なご指導もありましたが、パソコンにはどのように対峙すればいいのかというようなことを教えていただきました。
スカイプの初期のころに我が家で実験しましたね。アイフォ―ンの便利さを教えてくださったのも先生。先生に誘われてポケモンにもはまり、私たち競い合う始末。
私の返信です。
「帽子ピカチュウ、孫からうらやましがられました。私もピカチュウを肩に乗せたいのですが10キロ歩かないとだめですってね!道は遥かです。レベルはまだ21です」もしかしたら、遊びながらお互いに脳を刺激しあっていたのでしょうか。
私が今日ここに記しておきたいことは、小野先生との思い出ではないのです。
先生の書かれた「私の終末期及び死についての要望書」の全文を、先生と共にした珠玉の時間を思い浮かべながら転載します。
(1)私が終末の状態であると診断されたとき、または2ヶ月以上植物状態が継続したときは、延命の措置(蘇生術の施術、生命維持装置の新たな装着または装置装着の継続を含む)は一切行わないで下さい。
(2)私の死が不可避であると診断されたときは、その病名・性質などの医学上知りうる情報を隠すことなくありのままに私に告げて下さい。
(3)私の死が不可避であり、なお意識があるときは、肉体的・精神的苦痛を取り除くための出来る限りの措置を実施して下さい。そのために、死ぬ時期が早くなってもなんらかまいません。
(4)家族に特別の負担をかけることなく、また緩和ケアが可能であるならば、自宅で逝くことを希望します。なお、自宅で病状が急変し病院に緊急移送された場合であっても終末期であると診断されているときは、延命のための緊急措置は一切行わないでください。
(5)私が脳死の状態になったと診断されたとき、私の臓器提供は行わないで下さい。また、死後における遺体解剖は法の定める場合を除き拒否します。
(6)私は無宗教ですから、形式的・伝統的な葬儀は執り行わないで下さい。家族など内輪だけの非宗教的な所謂「家族葬」を希望します。
(7)私が所属していた組織及び団体への死亡通知は、先方から問い合わせがあった場合を除き、積極的に行うのは死亡後1月を経過してからにして下さい。
川奈ホテルのレストランから見える今年2月の寒桜です。
先生は「死んだら終わり。灰になるだけ」とおっしゃっていましたが、そしてそう聞かされたときにもモゴモゴと反論したのですが、ここだけは先生が間違っていらっしゃると思います。
こんなに鮮やかに、先生は私の胸の中に居続けていらっしゃいます。またいつの日にか積もる話が楽しめそうな気持です。
小野先生のブログをご紹介しておきます。どんな先生でいらっしゃったのかをよく感じることができます。
「伊豆高原シニア・ライフ日記」(今はもうお別れのお言葉がつづられています・・・)
2018年12月1日の記事「生死の境を彷徨う」最終行には、心打たれます。これは先生の実感でしょうが、ご家族にあてて書かれたもののようでもあります。