週末、東京に行ってきました。
卒業以来、ほんとに久しぶりの友人、しかも三人に会ってきました。
「わかるかしら?お互いに・・・」という不安はずーとあったのですが、少なくとも私の場合は、友人を見ると、すぐに何の問題もなくあの頃の面影が立ち上ってきました。
その逆は、さてどうだったのでしょうか???
卒業して、47年目ですから、いろいろな話に花が咲いたのですが、たまたま卒業アルバムの話になりました。
今回のことの顛末を話していると、友人が
「修学旅行の列車、すごい座席だったでしょ!固くて、座席の背中側が直角でとっても寝られなくて、困ったわよね!」
「ウーン。寝られなくて困ったかしら?」
そういいながら、私の頭の中は
「中国で、硬座軟座っていうのは的を得た表現なんだ」
「以前何かで『硬座で夜越えは無理』って書いてあるのを読んだことがある」
「硬座で20時間!昭和40年。もう戦後じゃあなかったけど、貧しかったんだ」というような文章がチカチカしていました。
その後に爆弾発言が!
「私たちのクラスの女子だけど、横に寝られるのはここしかないといって、網棚に寝た子もいるのよ」
「エーッ。私たちのクラスでは、男子もそんなことはしなかったと思うけど・・・」と語尾はあいまいになってしまう私。
基本的にプカプカで過ごしていましたからちょっと大変でも、それなりに受け入れてあまり文句は言わなかったような気がします。その結果、あれもこれも「覚えてない」んですから、何にしても、断定的には言えません。
ほんとにそんなことがあったのでしょうか?
覚えている人が言うのですから、あったということは間違いないのですが。
シーンを想像してみると、たくましくて、かわいい女子高校生の姿が目に浮かびます。
今回の卒業アルバムがらみでは、いろんなことを教えてもらいました。
「解散は、浅草だった」
(これだけは私もよく覚えています。雷門でなく二天門だったでしょ)
「東京到着日は本郷の旅館に泊まった」
(私は父と一緒だった)
「翌日は富士五湖や白糸の滝を回った」
(河口湖でダンスを踊ったのよね)
「鎌倉へも行った」
(言われてみれば、確かに)
「東京での自由時間に湯島天神に連れていってもらった」
(私は父と・・・)
「自由時間に、親戚のおばさんに『新宿アシベに連れていってほしい』といってびっくりされた」
(当時はその程度でも「不良」扱いだったのでは?エレキギターもビートルズも、ボーリングですら「不良」のすることだったと懐古談に花が咲きました)
今回の極めつけは、O田さんからのメール。
「日光には行ってないと思いますが、修学旅行は楽しかったですね。
今日は早起きをしてお弁当づくり。
いまから孫の運動会に行ってきま~す」
あのジャンバースカート姿の彼女と、ボランティア活動や趣味に精を出す彼女と、いそいそとお孫さんの運動会に急ぐ彼女と。
私にとって全部が違和感なくO田さん。50年生き続けた人生は、何と言ってもすばらしい!
生き続けること、そのものに意義があります。