まったく予想通りでした。
予想的中、してやったりという気にはとてもなれません。日本のこれからを考えると、とても越えられそうもない山が屹立しているのですから。
前記事でも書いたように、「若年性アルツハイマー型認知症」という概念そのものが間違っているのです。(2016年3月6日記事参照してください)
厚労省が65歳未満で発症した認知症を全て若年性認知症としてさまざまな指針を出しています。
それが間違っている。しかも根本的に間違っていると考える国民は、エイジングライフ研究所の私たち以外にどれほどいるでしょうか?
この映画の主人公もそうですが、若年性認知症と診断された人たちのバックには、あの有名なクリスティーン・ブライデンさんがいることは否めないでしょう。ちょっと情報をまとめてみます。
「1995年、オーストラリア政府の現職官僚として多忙な日々を送っていた46歳の時に、アルツハイマー病と診断された。その後、自らの認知症の体験を綴った「私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界」を出版し、初めて認知症者が内なる心情を吐露したと世界中が驚きを持って迎えた。出版や講演活動を通して世界中の多くの認知症の人々や支える家族に、勇気を与え続けている。2004年のアルツハイマー国際会議(京都)では、認知症当事者として自らの思いや希望を発言。日本での認知症当事者運動の先駆けとなった」
エイジングライフ研究所は「脳機能から認知症を理解する」立場をとっています。言い換えれば「症状だけで認知症を理解する」のではありません。多くの高齢者の方々の脳機能と生活実態を分析した結果、認知症と言われる方々の大部分を占めるアルツハイマー型認知症には大きな特徴が見られます。それは認知症の最も早期にはまず前頭葉機能が年齢相応に働かなくなるということです。記憶障害が起きてくるよりも早く前頭葉の機能低下があることを、専門家は知りません。
一方で、記憶障害を認知症の必発の症状と考えるのは、専門家でも一般の人たちでも共通の理解ですね。
クリスティーン・ブライデンさんをはじめ、日本で認知症当事者として、講演活動やテレビ出演で顔を晒すことも厭わず発言している人たちは、全員間違いなく「記憶障害」の症状をもっています。 「私たちの声を聞いてください」
「できることを奪わないで」
「できることは認めて、できないことだけ手助けして欲しい」
「認知症になっていろいろ忘れても、自分は何も変わっていない」
「世話をするのではなく、共に歩いて欲しい」
とおしゃれで表情豊かに言葉も尽くしてテレビや講演で訴える方たちには、確かに記憶障害はあります。さまざまに語られる失敗エピソードを知る限りは「確かにこれは認知症だろう」と思わざるを得ないのです。例えば、
「たった今会って挨拶を交わしたのに、直後にまた初めましてと挨拶する」
「共稼ぎの妻をピックアップして一緒に帰る約束をしたのに、忘れて一人で帰った。それも度々」
「いつもの道を通らず、別の道を通るとパニックになる」
「たった今帰った人や切ったばかりの電話の、名前ややりとりがわからない…(社会人として完璧な対応だったのに)」
「小料理屋店主が、客の注文を忘れてしまって商売にならない(仕入れもでき調理にも何の支障もないのに)」
「デイサービス利用中の夫への依頼が全く実行されない。(聞く時はあれほど真剣に聞くのに)」
「同じものを買ってきて、それを指摘されても納得できない(で、恥じたり困惑したりする)」
「サークルの指導者が前回言ったことと今回言うことが全く違うことに気づいていない。その繰り返しが頻繁(指導そのものは適切。おしゃれも完璧。運転も上手なのに)」
記憶障害が主の症状を主にあげようとしたのですが、どうしても()内のことを書き加えざるを得ないのです。()内のことは前頭葉機能が担っています!
記憶はできないけれど、前頭葉機能は十分に働いている例を続けて挙げてみましょう。
「編み物教室発表会で、デザイン、糸の選択、編み方がすばらしいと自分の作品を激賞(その評価は正当)」
「詩や短歌など感性あふれた作品ができる(が、自分が作ったものという認識がない)」
「『今日はカレー』と宣言して買い物に行ったのに実際はおでん。手際よくできるうえに味付けも盛り付けも完璧だけど…」
「バラ園や展覧会。どこかの名所に連れていくと、同行者よりも感動するが、後で行ったことを全く覚えていない…それを指摘されると自信をなくし落ち込む」
「お見舞いに行くと心からの感謝や労いの言葉をかけてくれて恐縮するほどだが、翌日行くと全く覚えていない」
これらの症状こそが、脳機能から言えば、記憶に問題があっても前頭葉機能に問題がないということなのです。 このブログのカテゴリー「側頭葉性健忘症」にもたくさんの具体例を挙げてありますから、前頭葉機能と記憶力がどういうふうに生活を組み立てていくのかを知っていただきたいと思います。
側頭葉性健忘症の方たちの訴えを聞く時に、みんなが感じる違和感は「普通の認知症の人とはどこか違う」だと思います。 具体的には、表情、佇まい、姿勢、服装…何よりも伝えたいと思っていらっしゃることが、こちらの胸にダイレクトに伝わってくる不思議さではないでしょうか?
まだ早期と言われる認知症の人でも、たくさん喋って言葉のやりとりができているようでも、どこか本当の気持ちのやりとりができていないという虚しさ、苛立ち時に怒りが湧いてくることは介護者の皆さんは否定できないでしょう。
その差を生むのが前頭葉が機能しているかどうかの違いなのです。
脳機能という物差しを持てば、両者の違いは歴然としていますが、ドクターが症状だけで理解すれば
1。記憶障害があるので認知症
2。しかも日常生活は自立できている
3。ということは、時・所・人の見当識がなくなり、生活は介助が必要で徘徊、粗暴行為なども見られる普通の(実は手遅れで重度の)「認知症」に至る前段階の「認知症」を見つけてしまった!
4。こんなに早期に見つけることができたのならば、手を尽くせば、よくなるかもしれない(これはあり得ませんが)重症化しないかもしれない(適切な生活指導ができれば維持は十分可能です)。
その時薬にたよるのではなく「障害に負けず、もっている能力を活かして生きがいのあるイキイキとした生活を」とドクターは指導するのですよ!
その指導が功を奏したら、何年間でも維持できます。前頭葉機能に関する説明がなくても、前頭葉が使えていますから、その生活を継続すれば記憶以外の機能低下は恐れるに足りません。
なんということ! クリスティーン・ブライデンさんも、映画『オレンジランプ』主人公のモデルである只野晃一さんも、上に挙げた私の知り合った方たちも、前頭葉機能は健在。記憶力に問題がある。ちょうどザルで水を掬うように、つまりものによってはたまに残ることもあるのですが「発症して以降の新しい記憶が残らない」
私たちも昔の記憶で忘れていることは多々ありますが、絶対忘れていないこともありますね。例えば自分の生活史。家族や深く付き合った人との関係(名前をド忘れすることはあります)。そのようなことが揺らぐことはないのです。
映画「オレンジランプ」で気になったことがあります。
側頭葉性健忘症として多くのエピソードに頷きながら、そして只野さんに起きていることを的確に伝えてあげられていたら、心配することのない心配がたくさんあったのにとちょっと切歯扼腕しました。昔のことは覚えているから!家族や幼馴染の関係や顔は忘れないから!映画でも幼馴染とのエピソードははっきり覚えていたでしょう。
特に違和感を感じたのは、主人公が職場に復帰できる場面で、社長の顔がわからなくなり指摘されて「ああ」と苦笑しながら納得した場面です。ここの解釈は難しい。発病前から十分な関係性を持っていた社長の顔がわからなくなるということは、私の経験した側頭葉性健忘症の症例からでは説明ができません。冗談混じりならありますが。
あ。側頭葉性健忘症の人はユーモアを繰り出すことも解することもできます。でもあのシーンはもっと緊張感が漂っていたと思います。
ついでに、もう一言。この側頭葉性健忘症の人は、動作が機敏。手先が器用。
ボケはじめた高齢者は何しろなんでももたつきますが、それと好対照です。
もう一つ比較してみましょうか。
アルツハイマー型認知症の本当の初期に、家族が「おばあさん(おじいさん)ではないみたい」「考えられないことを言います(します)」と訴えます。
側頭葉性健忘症の家族は「忘れることは忘れるけど、お父さん(お母さん)には変わりがない」
この二つの病気を一緒にすることは困難であることが分かりましたか。皆さんが側頭葉性健忘症の人を見た時に感じる違和感の説明ができたのではないかと思っています。 この国民的な理解を、屹立する高い山にどうすればぶつけられるでしょうね。
でも。と楽観的な私は考えるのです。重度の認知症を介護した人たちが声を上げたら。
「ごく普通に高齢者にみられる認知症(アルツハイマー型認知症)はそのような経過はたどらない。全然違う」と言える人たちがたくさんいるのですから。
どうぞ、素朴な声をあげてください!
このブログでも触れたのですが、先日成立した「認知症基本法」の「共生社会の実現を推進するための」という冠語ですが、側頭葉性健忘症の人々との共生は脳機能から理解さえすれば、即刻実現できますよ。
ただし脳機能から見ると、側頭葉性健忘症は認知症ではないということを忘れないでいただきたいです。
重度認知症の方々との共生は、全く違う視点が必要で人手や財政的問題など種々の困難が想定されます。
by 高槻絹子