友人が「女性写真家が撮った馬の写真展に行きましょう」と誘ってくれました。
場所を尋ねると「JAZZ倶楽部1946」。初めて聞く店名なので、さっそくグーグルマップで検索。伊豆高原桜並木から一本奥まっているので、今まで一度も行ったことがないところです。もうそれだけで未知への探検でちょっとワクワクしてきます。
場所を尋ねると「JAZZ倶楽部1946」。初めて聞く店名なので、さっそくグーグルマップで検索。伊豆高原桜並木から一本奥まっているので、今まで一度も行ったことがないところです。もうそれだけで未知への探検でちょっとワクワクしてきます。

写真展も素晴らしく、白馬が躍動している写真の前で、息がはずむような気がしました。でも今日は写真展の報告ではないのです。
珈琲をいただくつもりだったのにランチもオッケーといわれて、さっそくカウンターに席を用意していただきました。
テーブルのすぐ向こうにオーナーの笑顔が。そこそこお歳のはずなのに(店名に「1946」とあるのでこれはお生まれになった年だと推理した結果ですが当たり!)醸し出す雰囲気がおしゃれで明るく、とても話しかけやすいのです。

店内を移動されるときに、ちょっとご不自由な感じがありました。
私はどういう伺い方をしたか…「ちょっと歩きにくいようですね」と単刀直入に伺った気がします。

とってもフランクに「7年前に脳出血をやったんですよ」と話し始めてくださいました。
「後遺症としては、ことばの障害というよりもちょっと呂律が回らないということと、左半身にマヒが起きて寝たきり。その病院は安全第一の方針で、リハビリもしてくれない。マヒのせいだけでなく、こんなことをしていたら筋肉がなくなってしまってこのまま動けなくなってしまうのではないかと焦ったんです。
「後遺症としては、ことばの障害というよりもちょっと呂律が回らないということと、左半身にマヒが起きて寝たきり。その病院は安全第一の方針で、リハビリもしてくれない。マヒのせいだけでなく、こんなことをしていたら筋肉がなくなってしまってこのまま動けなくなってしまうのではないかと焦ったんです。
2か月後に退院ということになったときに『自分で治して見せる』と啖呵を切って退院。後は自分でやるしかないという状況になったこともよかったのかも。今じゃあ、運転もできるし東京だって平気に往復しますよ。
退院後は湯河原に別荘があったので、そこを拠点にして、よい病院にも恵まれリハビリに励みました。動けるようになったとき熱海に行ったんです。そこで出会ったのが『ジャズ喫茶ゆしま』。100歳近いと言われる高齢女性がきりもりしているお店で、大きな刺激を受けました。
退院後は湯河原に別荘があったので、そこを拠点にして、よい病院にも恵まれリハビリに励みました。動けるようになったとき熱海に行ったんです。そこで出会ったのが『ジャズ喫茶ゆしま』。100歳近いと言われる高齢女性がきりもりしているお店で、大きな刺激を受けました。
一つはもう少し元気にならなくては!という思いと、もう一つはジャズをやり残していたという思い。
学生時代に先輩に連れて行ってもらったジャズ喫茶にのめりこみ、毎日通った日々のこと。車のBGMは全部ジャズにする程好きだったこと。
もともと、僕はやりたいことは徹底してやるタイプなのに、どうしてジャズのことを置いてきたのだろうと思いましたね。
日常生活はできるようにはなっていたのですが、もっと、もっとと欲が出てきました。結局、自分で自分の体と相談しながら様々なアプローチをしてみて、ほんとにあともう少しでゴールだろうと実感できるところまで来ています。『自分でなでる』ということもやるのですが、その時ジャズのリズムがぴったりなんです!
そうしてリハビリも続けながら、ジャズ喫茶を開くためにお店を探し始めました。熱海から始まってだんだん南下して伊豆高原のこのお店と縁があって、いろいろ手を入れて開店しました。一番のこだわりは音。学生時代に通い詰めたあのジャズ喫茶の『音』を再現したいけど、今はCDでしょう。
そうしてリハビリも続けながら、ジャズ喫茶を開くためにお店を探し始めました。熱海から始まってだんだん南下して伊豆高原のこのお店と縁があって、いろいろ手を入れて開店しました。一番のこだわりは音。学生時代に通い詰めたあのジャズ喫茶の『音』を再現したいけど、今はCDでしょう。
散々こだわって(ここの説明は私の理解が及びませんでした)二組のスピーカーを設置してまあ合格だと開店したのが2020年11月」
初めて私からの質問「まあ、ちょうどコロナですね!」

「そうなんですよ。それに僕はコーヒーにもちょっと自信があって、多分この辺で一番美味しいと思ってるくらいだけどね。最初は一日5人でもお客さんが来てくれたらいいと思って始めたものだから、特に焦りはなかったなあ。面白いものでお客さんが来てくれるようになると欲が出てくる。ちょうど手伝ってくれる人も決まってこのおいしいランチまで提供できるようになりました。
とにかくジャズ好きな人に、若いころ好きだった曲を聞いてもらって当時の記憶を呼び覚ませられたら脳が活性化するでしょう。それがやりたい」

右脳出血でかなりの後遺症を抱えて、ここまで「自力」で回復をした人を私はほとんど知りません、何人かのお顔が浮かぶだけです。
こんどは私がうかがう番です。
卒中の後遺症からここまで回復させることができた前頭葉はどうしてできあがったのか?どういう人生を送ってこられたのか?どういう前頭葉の使い方をなさってこられたのか?
一つも嫌な顔をされず、むしろイキイキと前半生を語ってくださいました。
そのお話をちょっと時系列に沿ってまとめてみます。
そのお話をちょっと時系列に沿ってまとめてみます。
ご自分でデザインされた暖簾

大学の専攻は通信分野。ご両親が「堅かったので」といわれましたが、卒業後ご両親の意向を受けた選択だったのでしょうか「堅い」一流会社に勤務。ただし「3年は勤めよう」というつもりだったので3年で退職。「さあ何をやりたいか」と思ったときに浮かんだのはメーキャップアーティスト。専門学校に通って資格を取っても、思い描く仕事につながらない。次に挑戦したのは、企業勤務の時詳しくなったカメラ技術を生かしたプロカメラマンの道。ご両親の教えに沿ったかどうか聞き忘れましたが、その能力を発揮する場所として「堅い」霞が関官庁街をまず想定し、どの省庁が一番仕事があるだろうと考えた時、答えは全国に郵便局を抱える「郵政省」。詳しいお仕事の内容は伺いませんでしたが、写真作品が切手に採用されたこともおありだとか。そこから始めて霞が関の官庁にはほとんど関係ができたというのですからすごいことです。「きちんと予算付けしてもらった仕事をした」という説明もありました。
蒔絵が施されたお盆でコーヒーは提供されます。

とにかく話の中心には「自分が興味を持ったこと、やりたいことについては徹底的に追求した」という精神が感じられました。
カメラマンとしては風景が中心だといわれましたから、「日本中回られた方に聞くのは難しい質問でしょうが、どこの景色が…」と伺うと即答。
「ニセコのブナ林。春になるとブナの木の根元の雪が一足先に溶けて丸い土が見える、その景色」
「ニセコのブナ林。春になるとブナの木の根元の雪が一足先に溶けて丸い土が見える、その景色」
そこで私が「十日町市松之山の美人林で教えてもらいました高齢化率42.3%-十日町市松之山」といったら「ニセコは規模が違う」と。オーナーの目にはニセコの広大なブナ林が見えているようでした。
「つい先日京都にも行ってみたら、ちゃんと思うような写真が撮れた」とおっしゃったので、とうぜんどこか尋ねます。
「天龍寺の奥の竹林。機材が重いけど様々に工夫して。けっこう自信がついたなあ。後は長崎にも行きたいし」
「つい先日京都にも行ってみたら、ちゃんと思うような写真が撮れた」とおっしゃったので、とうぜんどこか尋ねます。
「天龍寺の奥の竹林。機材が重いけど様々に工夫して。けっこう自信がついたなあ。後は長崎にも行きたいし」
何というビビッドな心の動きでしょうか!

脳卒中は原則的に右脳か左脳かに起こります。脳卒中を起こしてしまうと、重症度は様々ですが後遺症は覚悟しなくてはいけません。後遺症も右脳か左脳の担う機能が障害されるという形で起きてきます。形の認識がおかしくなっても、ことばに障害がおきても、これは認知症ではありません。これは脳が損傷されたためにできなくなったこと、後遺症です。
認知症は脳機能全般に機能低下が起きると定義されています。
脳卒中後に脳血管性認知症になったといわれる人は、残念ながらたくさんいると思います。これは間違っています。
右脳でも左脳でも、卒中が起きてその結果後遺症が残った。卒中が起きてない方の脳は健全ですよ。でも「できないこと」はよく認識され「できる」ことには気が付かない。その結果脳卒中を起こしたのだから何もかもできない、できなくて当然だという誤解の下に、何もしない生活を半年も続けていると、病気直後には何ともなかった方の脳機能までもが、着々と低下してしまいます。ここで認知症への道が開けてしまうのです。
開業医が「脳血管性認知症は、だいたい発病後半年くらいして起きてくる」といわれるのは、実態を見ているという意味では正しく、脳機能という切り口がないのは、実体を見誤っているということになります。
脳卒中後に脳血管性認知症になったといわれる人は、残念ながらたくさんいると思います。これは間違っています。
右脳でも左脳でも、卒中が起きてその結果後遺症が残った。卒中が起きてない方の脳は健全ですよ。でも「できないこと」はよく認識され「できる」ことには気が付かない。その結果脳卒中を起こしたのだから何もかもできない、できなくて当然だという誤解の下に、何もしない生活を半年も続けていると、病気直後には何ともなかった方の脳機能までもが、着々と低下してしまいます。ここで認知症への道が開けてしまうのです。
開業医が「脳血管性認知症は、だいたい発病後半年くらいして起きてくる」といわれるのは、実態を見ているという意味では正しく、脳機能という切り口がないのは、実体を見誤っているということになります。
脳卒中その後の後遺症という試練が降りかかってきただけでなく、認知症というさらに厳しい人生にはまり込まないようにすることは可能であるということをよく知っておいてほしいのです。
『JAZZ倶楽部1946』のオーナー麻賀進さんがその証人です。
by 高槻絹子

認知症に関して理論的に詳しく知りたい方は、以下のブログもお読みください。