今朝、ハスが開花しました(植え替えてないのに!)
ちょっと太陽の方向を変えるだけで印象が違います。印象は違いますが、同じハスの花ということに異論はないと思いますがどうですか?
さて、認知症ではどうなるでしょうか?
じつは視点を変えると印象が違うということは、よくあると思います。真実の姿からずれて理解してしまう場合は、ことばの力に屈してしまうときです。
「こんなに立派なことが言えるのだからボケていない。(に違いない)」それなのに、することなすこと首をかしげるようなことが続きます。そのような時、多くの皆さんは「ことばの力に屈してしまう」。そのときには「徘徊もしないし、夜中に騒いだりしないし、私のことだってわかるし。ボケてるわけじゃない」という世の中を席巻している「認知症の定義」がよりどころになっていますよね。
ちょっと太陽の方向を変えるだけで印象が違います。印象は違いますが、同じハスの花ということに異論はないと思いますがどうですか?
さて、認知症ではどうなるでしょうか?
じつは視点を変えると印象が違うということは、よくあると思います。真実の姿からずれて理解してしまう場合は、ことばの力に屈してしまうときです。
「こんなに立派なことが言えるのだからボケていない。(に違いない)」それなのに、することなすこと首をかしげるようなことが続きます。そのような時、多くの皆さんは「ことばの力に屈してしまう」。そのときには「徘徊もしないし、夜中に騒いだりしないし、私のことだってわかるし。ボケてるわけじゃない」という世の中を席巻している「認知症の定義」がよりどころになっていますよね。
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この本は、認知症のお母さんを介護している著者が「乳がん」の宣告を受け、どのように病気に対処して、ふつうの生活を取り戻していったかが赤裸々な言葉で語られています。乳がんと宣告された時の気持ち、対処を決めるまでの揺らぎ、オペ後の痛みやかゆみまで。
親しい友人が「私が経験したことだけど、大切な情報だから教えておいてあげるね」とさばさばとした口調で傍で語ってくれているような感じさえしました。
というわけで、この本は「乳がん」の克服記なのですが、認知症のお母さまを介護している状況だったので、認知症の予防を専門にしている私もとても興味深く読みました。
乳がん発見の時は、お母さまが認知症でちょうど老健に入所中。というか在宅介護中だったのに腸重積で緊急入院、その後在宅では無理という相談員の判断で、入院した病院の同じ敷地にある老人保健施設に入所できたために、精密検査を受けることができて乳がん発見。治療が始まるわけです。
というわけで、この本は「乳がん」の克服記なのですが、認知症のお母さまを介護している状況だったので、認知症の予防を専門にしている私もとても興味深く読みました。
乳がん発見の時は、お母さまが認知症でちょうど老健に入所中。というか在宅介護中だったのに腸重積で緊急入院、その後在宅では無理という相談員の判断で、入院した病院の同じ敷地にある老人保健施設に入所できたために、精密検査を受けることができて乳がん発見。治療が始まるわけです。
老健に入所しても、一日しか持たなかった過去があるので、無理かと思ったものの相談員の「(老健に入所してもらって)あなたがゆっくりなさってください。そうでないと家庭崩壊までいきますよ」という親身で深刻な口調で語られたことばの底には、可能性として虐待や心中や介護殺人まで考えてくれていたのではと推察する作者。そう推察できるということは、具体的ではないにしても虐待や心中にまで追いつめられることも否定できないような「介護の大変さ」を、抱え込んでいたということに違いありません。
私は認知症の方のお話を聞くと、訴えられる症状からまず脳機能はどのレベルにあるか?と考えます。次にそのレベルになるために必要な「趣味なく生きがいなく交遊も楽しまず、運動もしない」というナイナイ尽くしの生活が「何年間」必要だったかを推理します。つまり「何年前の」どのようなできごとをきっかけにナイナイ尽くしの生活に入られたのかを確認するのです。
この本は、「介護のうしろからやってきた「がん」」がテーマです。お母さまの認知症のことを時系列に書いているのではないし、私が知りたい情報が書かれているわけでもありません。
そもそも、私たちが考える認知症と著者が考える認知症には、重なる部分もあれば、異なる部分もあることを話さなくてはいけません。
結論を言ってしまえば、認知症は私たちが生得的に持っている脳の老化(正常老化)が、何かのきっかけから、脳を使わない生活習慣(趣味なく、交遊なく、生きがいもない。その上に運動もしないナイナイ尽くしの生活)が継続したために、老化が加速されて起きてくるものなのです。そうである以上正常からある日突然にセルフケアもままならないいわゆる「ボケてしまった」状態になるわけではありません。小ボケ、中ボケ、そして大ボケと移り変わっていきます。世の中で「ボケた」といわれるのは、大ボケのセルフケアも満足にできなくなって、徘徊や粗暴行為や夜中に騒ぐ、家族の顔もわからない状態を指していますね。その前なら、改善は可能なのです!
著者はこう表現していました。
2004年「母の認知症が傍からわかりにくい形で生活上様々な影響を及ぼしてきた」当然、大ボケではない状態ですね。お母さまの年齢はちょうど80歳。
別のところでは、70代から兆しがあったのではないかということも言われていました。その時の状態は、トイレは自立。食事は危なっかしいけれども食べられるということで、セルフケアはできているからボケちゃったわけではないけれど、認知症の兆しはあると理解していたということでしょう。
実際に介護をした人でないといえないような、ことばによる表現も、実際の行動も詳細な症状の記述がたくさんありました。
ただ生活が変わる(脳の使い方が足りなくなる)きっかけは不明でした。認知症の正体が上図のような、廃用性のものだと思われていないから仕方ありませんが。
直径3センチくらいの花
私は認知症の方のお話を聞くと、訴えられる症状からまず脳機能はどのレベルにあるか?と考えます。次にそのレベルになるために必要な「趣味なく生きがいなく交遊も楽しまず、運動もしない」というナイナイ尽くしの生活が「何年間」必要だったかを推理します。つまり「何年前の」どのようなできごとをきっかけにナイナイ尽くしの生活に入られたのかを確認するのです。
この本は、「介護のうしろからやってきた「がん」」がテーマです。お母さまの認知症のことを時系列に書いているのではないし、私が知りたい情報が書かれているわけでもありません。
そもそも、私たちが考える認知症と著者が考える認知症には、重なる部分もあれば、異なる部分もあることを話さなくてはいけません。
結論を言ってしまえば、認知症は私たちが生得的に持っている脳の老化(正常老化)が、何かのきっかけから、脳を使わない生活習慣(趣味なく、交遊なく、生きがいもない。その上に運動もしないナイナイ尽くしの生活)が継続したために、老化が加速されて起きてくるものなのです。そうである以上正常からある日突然にセルフケアもままならないいわゆる「ボケてしまった」状態になるわけではありません。小ボケ、中ボケ、そして大ボケと移り変わっていきます。世の中で「ボケた」といわれるのは、大ボケのセルフケアも満足にできなくなって、徘徊や粗暴行為や夜中に騒ぐ、家族の顔もわからない状態を指していますね。その前なら、改善は可能なのです!
著者はこう表現していました。
2004年「母の認知症が傍からわかりにくい形で生活上様々な影響を及ぼしてきた」当然、大ボケではない状態ですね。お母さまの年齢はちょうど80歳。
別のところでは、70代から兆しがあったのではないかということも言われていました。その時の状態は、トイレは自立。食事は危なっかしいけれども食べられるということで、セルフケアはできているからボケちゃったわけではないけれど、認知症の兆しはあると理解していたということでしょう。
実際に介護をした人でないといえないような、ことばによる表現も、実際の行動も詳細な症状の記述がたくさんありました。
ただ生活が変わる(脳の使い方が足りなくなる)きっかけは不明でした。認知症の正体が上図のような、廃用性のものだと思われていないから仕方ありませんが。
直径3センチくらいの花
介護を長く続けたからこそ言える提言にも、心動かされました。
1.廃用性の機能低下についての言及は実体験だからこその説得力がありました。
・著者自身が手術の約3か月後、水泳を始めたら右肩が飛び上がるように痛い。手術の影響ではなく、退院後右胸をかばうために右腕をぴったりつけた生活で、ほとんど左手を使ってしのいでいたための廃用症候群に間違いないと結論付けたこと。使って治すしかないと思ったが半年後もまだ痛みがあると。つまり回復には時間がかかると知ったこと。
・お母さまが慢性硬膜下血種の手術入院時、理学療法士の訓練を受けると、目が輝き機嫌がよくなったこと。
1.廃用性の機能低下についての言及は実体験だからこその説得力がありました。
・著者自身が手術の約3か月後、水泳を始めたら右肩が飛び上がるように痛い。手術の影響ではなく、退院後右胸をかばうために右腕をぴったりつけた生活で、ほとんど左手を使ってしのいでいたための廃用症候群に間違いないと結論付けたこと。使って治すしかないと思ったが半年後もまだ痛みがあると。つまり回復には時間がかかると知ったこと。
・お母さまが慢性硬膜下血種の手術入院時、理学療法士の訓練を受けると、目が輝き機嫌がよくなったこと。
・さらにその退院後、スーパーで歩き、野菜を刻んでもらい、公園遊具で遊ぶうちに半身マヒがよくなったこと。何もさせなかったら寝たきり一直線であっただろうと。
・友人のお母さまが心筋梗塞の発作後、同居している未婚の娘から至れり尽くせりの介護を受けた結果、歩けないだけでなく着替や体位交換でも悲鳴を上げるほど関節が動かなくなってしまったこと。20年かけて見送った後も「褥瘡がトラウマ」と娘の思いは残っていると。
廃用性の機能低下について、身体面・運動面から正確に書かれています。
廃用性の機能低下について、身体面・運動面から正確に書かれています。
実は脳も同じこと、脳にも廃用症候群は起こるのです!
2.在宅医療や介護の流れは、本人の希望のようだが、国や自治体がコストに耐えられないからではないか。
2.在宅医療や介護の流れは、本人の希望のようだが、国や自治体がコストに耐えられないからではないか。
その根本は「高齢になると命の火が突然消える」ということを否定する現代日本人の思考にある。
虐待や手術ミスは当然追及されるものだが、転倒や誤嚥の結果裁判沙汰になることを恐れ、とにかく保護的に対応する、つまり何もさせないことで、入所者の機能を摘んでいく。またその時高額な費用が生じてしまう。
虐待や手術ミスは当然追及されるものだが、転倒や誤嚥の結果裁判沙汰になることを恐れ、とにかく保護的に対応する、つまり何もさせないことで、入所者の機能を摘んでいく。またその時高額な費用が生じてしまう。
この厚労省発表のグラフを見てください。
2021年は予算ベースですが12兆3千億円。一万円札を積み重ねて123キロメータの高さになるのですよ!ちょっと古い記事ですが 介護費用10兆円突破の記事を読んでみてください。
いかに生きるかを国民の皆さんが真剣に考えてほしいと思います。
3.アスリートの優れた運動能力と体力、からだの仕組みや生理の知識を、回復期の病人や高齢者のためにもっと使えるようにしてほしい。
「もう助からない病人や終末期を迎えた高齢者に対しての苦痛を伴う延命に使う金を、リハビリと寝たきり防止や機能訓練の方向にもう少し回してくれないものか」107頁。
これは認知症予防にもつながることです!
お母さまが理学療法士に訓練を受けた体験を踏まえて、著者も書いています。
「体の面だけではない。体のリハビリが心の状態まで変えてくれる」103頁。
2021年は予算ベースですが12兆3千億円。一万円札を積み重ねて123キロメータの高さになるのですよ!ちょっと古い記事ですが 介護費用10兆円突破の記事を読んでみてください。
いかに生きるかを国民の皆さんが真剣に考えてほしいと思います。
3.アスリートの優れた運動能力と体力、からだの仕組みや生理の知識を、回復期の病人や高齢者のためにもっと使えるようにしてほしい。
「もう助からない病人や終末期を迎えた高齢者に対しての苦痛を伴う延命に使う金を、リハビリと寝たきり防止や機能訓練の方向にもう少し回してくれないものか」107頁。
これは認知症予防にもつながることです!
お母さまが理学療法士に訓練を受けた体験を踏まえて、著者も書いています。
「体の面だけではない。体のリハビリが心の状態まで変えてくれる」103頁。
4.薬のことも、歯に衣を着せない書き方でした。
アリセプトを二日飲んだら、妄想と怒りが爆発、不穏状態になったため、服用を中止したら落ち着いた事件。
アリセプトがいったん処方されたら、このようなことや肝臓障害が起きないと飲み続けることになり、もともと薬価が高いため薬剤費が上昇してしまうのです。ヨーロッパではアリセプトは認可されなかったし、日本でも「あまり使わないように」というお達しが出ました。
元来、認知症を治す薬はありません。
12,765円(2021.5)→5,266円(2022.5)先日書いた記事です。
向精神薬についても、「薬を使うな」はあくまでも一般論であり、必要なケースもあるという著者の考えはお母さまの介護から導き出されてものとして納得できます。
ピンクのノウゼンカズラ
5.こういう結論も、実際に真剣にできうる限りの最善を尽くそうと思って介護にあたった人でないといえないと思います。
老健から退所を伝えられてから、次の施設を探すその努力は、重くならないように書かれていますが、お母さまのために可能な範囲で何が一番いいのかと誠実に対応されたと思います。そして結論。
「もともとの性格と症状の出方によって、どこで過ごすのが幸せかは千差万別」
限りなく家庭的で、そのうえユマニチュード技法を使って高齢者をできるだけ尊重する方式をもってしても、安定できない事実がありました。
もう一つ付け加えるとしたら、お母さまは対応に苦慮させられるタイプといわざるを得ません。脳の機能レベルが重度認知症であっても、穏やかに世話をしてあげられるタイプの方もたくさんいます。施設の職員でもなければ、いろいろな認知症の方を知ることはできません。いろんなタイプの方がいるのです。
家庭で介護するときには、目の前の認知症の人に対応します。だからそのタイプ以外を知る可能性はずっと小さくなってしまいます。
ついでに。
認知症の専門家といわれればいわれるほど、重度認知症の方ばかりを診ることになってしまうことにも触れておかなければいけません。認知症の定義は「いったん完成した脳機能が、何らかの理由で機能低下を起こして、社会生活や家庭生活に支障が起きる状態」とされていますから、「いったん完成した脳機能が」といわれる以上、振り返れば振り返るほど、普通に社会生活を営んでいた実態が見えてくるのです。そして徐々に小ボケ、中ボケと進んでセルフケアもできない大ボケの状態にまで進行するのに、最終段階ばかり診ると、認知症は回復は望めず対応が難しくなってしまうと主張することも、妙に納得できますね。
篠田節子さま 本当にお疲れさまと申し上げたいです。
篠田節子さま 本当にお疲れさまと申し上げたいです。
付録
嵐山光三郎の本にハマっています。
何冊目かで、今読んでいるのが2020年発行の『生きる!』
博覧強記。多くの文化人との交流やジェットコースターのような変化に富む体験から生まれたものなのでしょうか、人や物事に対する理解が深く複雑。独自の視点を感じながら読んでいるのです。この本は深く付き合った人たちへの追悼文でありながら、生き方を問うものでもあります。たまたま今日読んだところに、こんな一節が。
「父が認知症となって徘徊をはじめたのは〜」188頁
あ、やっぱり大ボケの症状が出て、初めて認知症になったと思われている…こういう一節もありました。市の課題は老人と若い世代の共存という言葉に続いて
「「市報くにたち」には認知症の人がそとでまようことを「徘徊」とは言わず「いいあるき」(安心できる心地よい歩き)と書いてある」190頁
この一節を、津村節子さんが読まれたら、と想像します。「何を勝手に物語を作っているの!本当の徘徊を知らない人が…」と笑うか嘆くか怒るか。いずれにしても賛成してはくださらないと、私は思いました。
コエビソウ
認知症に関して理論的に詳しく知りたい方は、以下のブログもお読みください。