早朝に出発して、奥州市江刺区の自主的な認知症予防教室「年とらんと会」にお邪魔してから、気仙沼に向かいました。詳細はブログに書きました。(後半)
岩手県奥州市の認知症予防教室「年とらんと会」
13年前の3月10日から11日の二日間は何という時間だったでしょうか!10日は奥州市で旧交を温め楽しい時間が過ぎました。夜は気仙沼港を見下ろす気仙沼プラザホテルで友人たちとおいしいお食事と楽しい会話で時を過ごしました。翌朝藤沢町(現一関市)の講演場所へ行く車中でも、とりとめもない会話を楽しみながら「ホテルからはカーブが続く上り坂。坂の上の台地に藤沢町はあるの2024年3月10日だろう」と思ったことを、今思い出しました。
あれほどお世話になった千葉謙さんは昨年末鬼籍に入られました…こうしてお名前を書くだけでも、あの笑顔と渋い声と何よりもいつもユーモアを忘れていなかった謙さんが胸いっぱいに広がります。
東日本大震災ー高齢者を認知症から守る(1)
11日の地震発生時には、岩手県藤沢町(一関市と宮城県気仙沼市の中間)で講演をしていました。
震度7と後から聞きましたが、地盤のせいか建物のせいかしゃがみこむこともなく、実際、壁にかかっている表彰額も一枚も落ちることはありませんでした。
こんな大災害とも思わず、ただ交通遮断になりましたから、そのまま一関市の小野寺保健師さんのお宅で生活をさせていただきました。ラジオの情報は聞いていたのですが、16日夜になって初めてテレビを見て、その惨状に声もなく涙が流れるばかりでした。(その後、奥州市の知人の暖かいお心づかいで、18日に花巻空港から帰宅することができました)
エイジングライフ研究所は、脳機能という物差しを持って認知症を見ていきます。
通常は、症状(どんなことを言うか。どんなことをするか)から認知症を考えるのです。セルフケアに支障を起こす、徘徊、夜中に騒ぐ、粗暴行為、異食など余程困ったことをしでかさないと認知症と思われていません。
普通の高齢者が、昨日までまったく正常で、ある日突然このような状態になるでしょうか?認知症は徐々に進行するものなのです。
まずは脳の機能を説明しましょう。
右脳、左脳については皆さんもよくわかっていらっしゃるでしょう。
簡単に言うと左脳は「言えばわかる」脳です。
右脳は「言葉ではうまく言えないけど、でもわかっている」時活動しています。
昔の人は「よく遊び、よく学べ」と言いましたが、遊ぶ時に効率よく働くのが右脳。学ぶ時に効率がいいのが左脳といってもいいでしょう。
脳全体の司令塔の役割を担っています。前頭葉がその状況判断で右脳、左脳を上手にその人らしく使いながら生きていくのです。
「よく遊び、よく学べ」が右脳、左脳の説明なら、「十人十色」が前頭葉の説明に相当します。
その時、それぞれの馬の元気さも大切ですが、その馬を上手に使いこなすことができる御者(前頭葉)の働きがなくては、馬車は上手に走ることができません。
老化が加速されていくときには、まず前頭葉の老化が加速され、その後脳の後半領域の機能低下も順々に起きてきます。
そのレベルによって、認知症は三段階にわけることができます。回復が極めて困難な大ボケに至るまでには、最初のきっかけから6年以上もかかります。
小ボケ:「指示待ち人」
家庭生活は問題ないが社会生活がこなせない。世話役ができない。趣味をやめてしまう。無表情。
中ボケ:「言い訳のうまい幼稚園児}
家庭生活に支障が出てくる。話していることを聞けば変わりないが、やることは幼稚園児のようになる。
大ボケ:「脳の寝たきり」
セルフケアにも問題が出てくる。通常はここからをボケと思っている。
「」内は家族による、生活状態の一言表現。
東日本大震災ー高齢者を認知症から守る(2)
重要なことは、そのことが起きたらだれでも老化が加速するのではないということです。そのことが起きて、その変化に適応できず、閉じこもったり何もしなくなったりしたら、いいかえるとそのことをきっかけにして三頭建の馬車が止まってしまったら老化が加速していくということなのです。その状況変化が御者の意欲をなくし、指令を出すことをやめてしまうときが認知症への第一歩なのです。
仕事一筋の人の定年退職。
「その後の生活が新しく描けなくて何もしない状態になったら」前頭葉は出番を失って老化を加速していくのです。
「高齢者が、病気やケガで安静にしていたら、ボケてしまう」ということは世間の常識です。
「20代の若者が長期安静にしたらボケるでしょうか?」講演でこの質問をすると、皆さんは笑って
「そんなことはない」と言われます。
このことは皆さんが脳の老化曲線を承知しているということではないでしょうか。
入院した高齢者が全部ボケるわけではありません。
ボケる人は、安静にして 何もしない!
ボケない人は、リハビリに励んだり、回復するにつれて人の世話をしたり、手芸などの趣味を楽しんだりしています。
「寂しさ」の下の左下の図から反時計回りです。
脳は「使ってナンボ」という正直者です。
三世代同居をしていても、孫は勉強、塾と忙しく、子どもは仕事に追われている。その結果、起きる時間も別なら食事も別。当然会話もない。一人でテレビで時間を過ごすしかない。
楽しみや刺激の少ない生活は、前頭葉の力を発揮する場がありませんから老化を早めます。
家庭内に種々のトラブルが発生し、「何もしてやれない」とか「この先どうなることか」とか「世間さまに顔向けできない」などという状況になった時、
「お手上げ」と前頭葉が判断してしまうと、頭の中はそのことで覆われて、将来の展望も楽しみも何もキャッチすることができなくなります。
最後に右上。
「別れ」を意味しています。
これは親しい人との死別を筆頭に、友人や孫との生き別れもあります。ペットとの別れもありますし、趣味のサークルに参加できなくなるというような別れもあります。
身体の不調も「別れ」と位置付けてもいいかもしれません。
環境の急激な変化そのものも、前の環境を失ったと考えればやはり「別れ」でしょう。
「あの人がいれば、あれもできるし、これもしたい。でもあの人がいないから・・・」
「元気なら、もっと見えれば、もっと聞こえたら、何でもできるけど、思ったようにできないから、あれもできない。これもできない」
「この環境でなければ、できることがあるのに」
でも、この先には
「あれもしたくない。これもしたくない」という意欲低下が待っています。
意欲は前頭葉の働きですが、前頭葉がその力を発揮する必要条件とでもいえるもので、意欲なくしては、司令塔としての前頭葉機能(状況の判断、決断、指令)は発揮できません。そうすると三頭建の馬車も止まってしまうのです。
その別れを乗り超えられずに、閉じ込もり、目標も楽しみも何も見つからない生活が続く時、馬車は留まったまま、御者も馬も動くことなく時間だけが流れていく・・・脳は老化をどんどん加速していきます。
最も危ない状況です。
今、テレビの画面で拝見する高齢者の皆さんの胸中を思う時、まさにこの喪失感のただなかにいらっしゃるだろうと思うのです。
でも、落ち着いてくれば来るほど、そして高齢であればなおさら、事の重大さや失ったものの大きさに打ちひしがれてしまうでしょう。将来に対する展望が描けないことを責める気持ちはありません。多分私だって・・・
こんなに過酷な運命に翻弄されたのに、その先にまたボケという悲しい状況を迎えさせるわけにはいきません。
どうにか、それぞれの皆さんの馬車が再び動き始めることができるように、心を配っていかなければいけないと思うのです。
東日本大震災ー高齢者を認知症から守る(3)
私たちの三頭建の馬車の仕組みは 仕事勉強の左脳、身体を動かす運動脳、そして趣味や遊びの右脳の三種類の仕事に特化された馬たちと、それを上手に操る御者役の前頭葉から成り立っています。
それ以前に、動き始める時もまず前頭葉が状況を判断して一鞭をふるうところから始まるのです。
このことはとても大切なことですから、よく覚えておいてください。
「馬車が動き始める時と動いている時には、御者は必ず働いている」
「何かをやろうと思う時と、やり始める時と、やっている時には前頭葉は必ず動いている」と言い換えられます。
前頭葉がその状態になると、馬車を動かす三頭の馬たちはいくら元気であってもその力を発揮できない状態(小ボケ)が続き、次第に三頭の馬自体も力を落としていきます(中ボケ)。
最終段階が御者も馬も倒れてしまった状態(大ボケ)と考えるとわかりやすいかと思います。
「ボケ予防のために歩いています」という方は多いですが、理由として
「歩いたら、歩く刺激が脳に行くでしょ?」と思っていることがほとんどのようです。もちろん外に出て歩けば、自然に触れ、景色や花を楽しみ、風や日差しを感じたりして五感を通じてその刺激が脳に入ることは間違いありません。
でもこれは本末転倒の考えです。
一時間歩いていると脳の運動領域は一時間働いています。もちろん前頭葉もです!自覚がなくても歩くことは、間違いなく広範囲の運動領域が働くことですから、皆さんが考えるよりも脳を使うという効果がありますが。
「歩く」時には、運動領域の多くの部分が活性化されます。でも足腰に痛みのある方は、椅子に座って上半身だけの運動でもいいのです。
誰かに言われた結果であっても、体を動かしている時には脳が働いているのです。でも、自分で、というのは御者である前頭葉が目的をはっきり持って、「こんな時だからこそ、体のためだけではなくて、脳を動かしてボケないようにしよう」と考えると、自分の体調や周りの様子にも気を配りながら運動を始め、そして続けることになりますね。その時前頭葉が目覚めています。
その1で説明したように、右脳でよく遊び、左脳でよく学ぶのです。
仕事や勉強は「やらねばならない」もので、趣味や遊びは「楽しくてもっとやりたい」ものですね。
形、色、音楽など右脳を使う場面からは、もっとやりたいというレベルの意欲がわいてきます。
元気をなくしている脳にとっては、右脳刺激の方が適切な理由です。
人とのコミュニケーションを図る時、私たちはまず「言葉を使って」と思います。
でも言葉だけでは人とのコミュニケーションは成立しません。
自販機の「ありがとうございました」はコミュニケーションでしょうか?
そのような情報をもとに私たちはより深く相手の心情を知ることができますし、自分の気持ちも伝えることができます。
言葉以外のすべての情報は、右脳と前頭葉の連係プレイの下でやり取りされます。この時間は、脳の機能としては高次元で、とても脳はイキイキと活動しています。
言葉を発することなく、手を握り合っても、抱き合ってもわかりあえるのが私たちです。テレビ報道で、涙で言葉にならない方を見ながら私たちも涙を流しました。ともすればあふれそうになる涙をこらえながら言葉少なに語る人にも、涙しました。言葉の奥に隠されたその方の心情を私たちは感じることができます。
そして次の段階が来た時には、皆で声を掛け合い、必ず前を見て自分の馬車を自分らしく動かそうと思っていただきたいと思います。
今後、高齢者が住むことになる仮設住宅や施設も用意されていくことでしょうが、人は体があって生きていればいいというものではありません。その人らしく生き抜いていっていただくためには、その人の覚悟が要ります。
本当に前を向くことが難しい状況だと承知の上で、ボケないためになお前を見て生きていっていただきたいと切に願います。
「FAST (認知症機能評価)の7の段階に、'Loss of ability to smile' 笑う能力の喪失という項目がありますが、これはどういうことなのかしらと思っています。顔の表情はなくても周囲の人への感謝を伝えたりという人間の感情はあるからです。今年の夏に、信号機の下にしゃがみこんでいる高齢の男性がいましたが、病院に行く途中で動けなくなってしまったそうです。立ち上がりたいというので手を貸しましたら無表情でしたが「ありがとう」と言いました。
まだ歩けるくらいですから7の段階とは違いますが「ほほ笑む能力」とはどういうことなのかな、と思います。専門的には感情もないことを意味する
のでしょうか...」
「ありがとう」という感謝の感情を伝えるときに一番大切なものは、ことばではなくて心情そのものではないでしょうか。心が込められたら言葉に奥行きが生まれてくると思います。ありがとうございます。ほんとに助かった。途方に暮れていたときの心細さといったら。声を聞いたときの安堵の気持ち。それらを全部まとめて「ありがとう」の言葉に加味することが本当の意味で感謝を伝えるということだと思います。
もうひとつ「笑い」とは何なのかを考えてみないといけないでしょう。
最初に感じた正直な感想は、筋肉の動きを計れば「笑い」が理解できるのかという疑問でした。
このように脳機能からみていくと、MMSEが10点ならば、それでも「笑い(らしきもの)」が生じる可能はありそうです。
幼児の笑いは、複雑な理解を加える必要はありません。
青年期は「冷笑」も出てくると思います。
このように「笑い」といっても様々なレベルの「笑い」があります。
脳機能から症状を考える、脳機能が発揮された結果としての症状という考え方からすれば、脳機能の記載がないので全く推論の域を出ませんが、いちおう脳機能が低下する順にレベルが決められていると思います。
3 境界領域と4 軽度ここにも実はほとんど差がないのです。職業上の複雑な仕事をこなすには前頭葉の注意分配力が、熟練を要する仕事には前頭葉の注意集中力が不可欠でしょう。家庭生活でも、客人を招くとなれば①メンバー選定②献立を決める。その時は客人の年齢。嗜好。季節的、経済的な条件。その集まりの目的など配慮すべきことが目白押しで、これはもう前頭葉なしではお手上げです。さらに③料理は食材の準備、手順、盛り付け。④客人を迎えるための掃除、しつらえ。家庭生活といっても、とても高レベルの前頭葉機能が必要です。つまり3 境界領域と4 軽度は前頭葉が万全に機能していない段階ということになります。
着衣のことが書いてあるので、重症度に沿って解説してみます。
さらに進行して大ボケになると、着脱に非常に時間がかかるようになり、着衣失行も起きるので、介助せざるを得ない状態となる。
二段階方式の区分とずれるところもありますが、認知症が6 やや重度や7 重度の状態で突然生じてくるのではないことをFASTはみとめていますよね。
身体的な状態の方が想像しやすいでしょう。
「歩行能力の喪失。坐位保持機能の喪失」これはわかりやすく言えば寝たきりということですね。寝たきりでも、お話しできる人もいますが、「最大限約 6 個に限定された言語機能の低下。 理解しうる語彙は「はい」など、ただ 1 つの単語となる」言語的なコミュニケーションは取れないということです。
笑うことをつかさどっている脳の領域がもう機能しなくなっているのなら、笑えません。
認知症の始まりを知る必要があります!
宛先に注目してください。我が家の地番は「1030-44」
私たちでも書き間違えは起こします。ついでに言えば、歳を重ねるごとにその頻度は増しますね。
歳上の友人から電話がありました。
差出人に「様」がついていました。しかも夫婦連名で二人とも…まさに注意集中が逸れてしまった…毎年下さるのですがもちろん今までにないことです。書かれているのはご主人(81歳)なので
前頭葉は司令塔。先の例のように注意の集中をかけたり、分配したりする要の役割を担っています。状況を判断してどのように脳を使うか決める役割も重要な前頭葉の機能です。
(ホトケノザ)
私たちエイジングライフ研究所の考えを、お話しておきましょう。
結論は、本当に残念ですが「近いうちに行き詰る」といわざるを得ません。
2021年に鳴り物入りで登場した「アデュカヌマブ」。この顛末を覚えている人はどのくらいいるでしょうか。
顛末は、この記事に書いてあります。そして認知症治療薬の話題が出るたびの私見の記事へのリンクも張っていますから、関心がある方はお読みください。
エーザイの株価12,765円(2021.5)→5,266円(2022.5)(2022.5)
この記事をあげるにあたり、正確を期するために少し調べました。アデュカヌマブの件については国立長寿医療研究センター研究紹介コラム「認知症の新しい治療薬アデュカヌマブについて」が一番丁寧で、一般の人にもわかりやすく解説されていると思いました。
「アルツハイマー型認知症の原因がアミロイドβが溜まってできるアミロイド斑(老人斑)なら、アミロイドβにくっついて機能できなくさせる抗体を体内に入れることで、老人斑を減らすことができたら認知機能低下を抑える効果があるはず」という前提のもとに15年間追跡調査した結果、「アデュカヌマブを投与し続けた人を死後解剖した結果「抗体ははっきり上昇し、老人班は少なかった。しかし認知機能の改善はない」という結論に達したのです。
単純な私などは、アミロイドβと認知症の発症には関係がないと思ってしまいますし、アミロイド仮説は破綻したという意見も確かにありますが、研究者の立場によって、考えは違います。
発症後に薬で老人斑を減らしても認知機能低下を止められないなら、たまる前に薬を作用させれば効果があるかもしれない…
皆さんも読まれたかもしれませんが、これが「アルツハイマー型認知症にかかわりの深いアミロイドβは、発病の20~30年も前から蓄積が始まっている。予防はその早いタイミングから投与をすること」という意見につながりました。
どうやって見つける?(症状は全く出ていないわけですから、その方策として血液中のアミロイドβに測定するというアプローチもあります)
いずれにしても高価な薬を何十年も予防薬を飲み続けるのか?肝機能など体全体に対する影響はないのだろうか?
素朴な疑問を抱いてしまいます。
日本でも承認された場合の薬価のことを考えてみましょう。
アメリカの350万円より少し低めに設定されるようですが、それでも、百万円単位にはなります。ところが、高い薬ということを正しく伝えるという姿勢よりも
「日本では公的保険診療になり、さらに高額療養費制度があるため、患者の自己負担は、70歳以上の一般所得層の場合年14万4000円が上限」
さて、今回のレカネマブはどこがどう違うのでしょうか?
私は薬学が専門ではありませんから、情報はネットから取り入れたものが中心だということをお断りしておきます。
アミロイドβは一種のたんぱく質。そのアミロイドβが結合した老人斑にとりついて除去する働きを持つ薬(抗体医薬)がアデュカヌマブでありレカネマブです。
レカネマブは、アデュカヌマブよりも結合状態が前の段階のアミロイドβに作用させるところがちょっと違うということらしいです。
前回問題になった治験がうまくいき、「症状悪化を抑える有効性が確認できた(言い換えると、アミロイドβを取り除いて神経細胞が壊れるのを防ぐ効果がある)」という発表だったのです。
2週間に一度の注射を1年半続け(治験段階では服薬するだけではないのですね。このまま注射ということになると病院サイドの負担も増えます)27%の進行抑制効果があったといわれています。
具体的な評価点としてはプラセボ群1.67点の低下であったのに対し、レカネマブ投与群1.22点の低下とありました。
海外ではADASという検査をよく使いますが、これは高齢になると1年で9-11点低下するとも言われていますから、ADASではないでしょう。
いろいろ調べましたが、どんな神経心理機能検査を使っているのかはわかりませんでした。
総得点がわかりませんが、たった0.45点しか低下しないということが、日常生活にはどのように反映されるのか、私には想像できません…
例えば、エイジングライフ研究所が用いるMMSEは30点満点のテストですが、+3点以上なら改善、-3点以下なら悪化と評価します。生活上起きてくるはっきりとした変化を、家族や本人が見つけることができるからです。
今日の発表を冷静に評価していると思われた記事を紹介しておきましょう。
1.機能低下の抑制ができることは良い。
2.回復させる薬ではない。
3.無症状の早期患者をどう判定するか。
4.薬価が高いため起きてくる高額医療費の問題。
それ以前に言いたいことがあります。
アミロイドβと認知症には関係がないとしたら…研究者の努力も開発費用も本当にもったいなく悲しいことですね。
認知症に関して理論的に詳しく知りたい方は、以下のブログもお読みください。
生活していくうえで基盤になることですから。
「今はいつ」「ここはどこ」が盤石なとき、「あなたは誰。私は誰」も揺らぐことはありません。
大きいので2センチほどの和三盆(秋)
「あれ?同じことをままた言ってる。言ってることは至極まともなんだけど…今日だけで10回は聞いたなあ…歳のせいかな?」「整理ができてない!以前のお母さんならこんなことにはならないけど…歳のせいかな?」と加齢に原因を求めてしまいます。
脳の機能で言えば、小ボケは前頭葉が年齢の許容範囲を超えて能力低下を起こしているものの、普通に言われる認知機能はまだまだ正常範囲なのです。今話したようなことは「忘れた」ではなくその場の状況判断ができないとか注意を集中したり分配したりすることが苦手になってしまっている、前頭葉機能低下の症状です。
小ボケの時にはどんなことが起きるでしょうか?
「決められた日を間違えて、会場に着いたら一人だった」
「あれ!一日勘違いしてしまってた」
「ふと考えてみると、今日は何日だったっけ」
というようなことが起きるのですが、まだ立て直すことができることが小ボケのレベル。
歳を取ったことも無関係とは言いませんが、それ以上にコロナ禍で圧倒的に外出が減った昨今、「ふと考えてみると、今日は何日だったっけ」という状況は、「脳機能が正常な」私でも起きることがあります!その時どうするでしょうか?
傍にいる人に聞いたりカレンダーや新聞に頼ることもあるかもしれませんが、だいたいは携帯を見てすぐに疑問氷解。
もし、手助けがない状況だったら?
どこか基準になる日を思い出して、そこから今日の曜日(日付に比べて曜日は7種類しかないので簡単)を考えて、正解にたどり着く。という手間を取ると思いますがどうですか?
「どこか基準になる日」というのは自分にとって「インパクトがあった/ある日」。まあ中には月一度の通院日というようなこともあるでしょうが、それは多くの場合「楽しみな日」であることが多いでしょう。
記憶が鮮明に刻み込まれるには条件があります。
その状況をきちんと判断しておくというのが大前提です。それから「起きた/起きること」に上の空でなく意識的に注意を振り向けること。自分にとって大切なことや楽しいと思われることの方が注意を集中しやすいでしょう?だから、大切なことや楽しいことのほうが深く印象的に刻み込まれます。
習慣化していた散歩にもいかないということは、運動の脳の出番を失くしてしまいます。
趣味のサークルの自主規制は、楽しみがなくなるという単純なことだけでなく、サークルの主題である活動(作品制作、歌、運動などなど)に関する場所だけでなく、対人的な場面で働く脳機能が動かなくなります。対人場面というのは、「話を聞かなくてはいけない」同時に「言葉以外に付け加えられている感情的な情報をキャッチしなくてはいけない」もちろんそのうえで「自分の話すことを考えておかなくてはいけない」実に脳全体の機能を要求されることでもあります。そのとき、一連のこの活動を滞りなく進めるために、中核を務めるのは前頭葉機能です。
このように大切な前頭葉の出番がなくなる状況は、そのまま廃用性の機能低下につながることになります。前頭葉が元気をなくしてしまうのですね。
手作りチョコアイス
そしてまた日付に戻りますが、楽しみのない変化のない生活をしていると
「今日が何日か揺らいだ時に、基準になるべき日がない」
「今日が何日かどうでもよくなる」
中ボケになると、自力で解決しようとしなくなります。そして何度も何度も周りの人に尋ねます。それなのに、どうしても今日の日付がわからなくなっていくのです。
ついでにお話しすると、まず今日の日付がわからなくって、その次には何月かわからなくなって、さらに季節までもがわからなくなります。ここまでが中ボケ。
そのあとに、夜中に騒ぐという大ボケの症状に至るのです。
今日の結論です。
今日の日付がわかるというところから始まる「時の見当識」をゆるがせにしないためには、変化のある楽しい暮らしが不可欠であるということでした。
楽しみのある暮らしは積極的に求めないと、手に入りません。
認知症に関して理論的に詳しく知りたい方は、以下のブログもお読みください。
まだ10代の若者たちが選んだテーマが「認知症の早期発見」よくぞ若者が「認知症」に目を向けたものです。
着眼点も素晴らしいし、最新技術でそれを企業化まで持っていったことも素晴らしい。
ところが世の中の人たちは、この段階の高齢者を注意深く観察すれば「ちょっとだけど何か変」とか「今までのお母さんではないみたい」という感想を持つことができます。
この辺りが私の感じた違和感の正体だったと思います。
認知症の早期ということでMCI(軽度認知障害)
認知症に関して理論的に詳しく知りたい方は、以下のブログもお読みください。
「うわぁ。なんというタイミング。聞いてほしいことがあるの!」そんな懐かしい声が返ってきました。でも、いつもの声とちょっと違うことに気づき
「どうしたの?なにかあったの?」という私の声にかぶせるように
「母がね、ちょっと事件を起こしたの。昨日が初めてだったんだけど、それが今日もまた!母も90になって、当然かもしれないけど、ちょっとボケてきちゃってるんですけどね」
「昨日の夜中に、日付としては今日ですね。虫の知らせ、というかなんだかちょっと気になって、母の部屋に入ってみたんです。何をしてたと思いますか!
おむつを外して、それを破いてるんです。吸水ポリマーが散らばって…
びっくりするやら、悲しいやら、それに臭いんです。お風呂に連れて行って洗って着替えさせて、どうにか寝かせながら「もう無理…私のやり方のどこが悪いの…何が足りないの…もう仕事を辞めてずっと様子を見守らないといけないということ…」と思いがまとまらなくて、あれこれぐるぐる考えているうちに夜が明けました。
それでも、朝になるとご飯を食べさせてデイサービスに送りだして、私は仕事に行きました。
「初めての事件だったのね。脳機能の状態が悪いことは間違いないけれど、例えば脱水とか、熱発とか体が原因でとんでもないことをすることもある。お薬は変わってないかな。デイでは何もなかったのかしら」と私が言いかけると、友人の話はまだ続くのです。
「それが、今日デイから帰って、気が付くと洗面所で又おんなじことをしてたんです。昨日もショックだったけど、正確に言うと半日、一日も経ってないのにまた!いけないとわかってるんですけど、きつく叱ってしまいました。
どこかいけないということですよね?入所させられたら楽だろうと思う気持ちがちらっと浮かぶたびに、一人娘の私が、実の母なんですから面倒を見なくてどうする。世間様だって当然と思うはず。と慌てて打ち消すんです。だからもう仕事を辞めて家で母の面倒を見なくてはいけないと思ってたんです。今日の出来事なんです。ほんとに電話くださってありがとうございます」
私は「この状態が続くなら、それは家庭介護の域は超えている。早急に入所できる施設を探さなくっちゃあ。まず話をよく聞いてくれるケアマネさんとつながらなくてはね。かといって入所はなかなか難しいかもしれないけど。お金の問題だってあるでしょう」と答えました。
私は認知症の方の話を聞くときには、どんな症状を起こしているかをまず聞きます。今回は青天のへきれきのような症状から始まりましたが、これが常体ならば大ボケですが、まだ2回なら譫妄状態だって考えられる。お母さんの脳機能をもう少し推理するために、生活の様子を聞くことにしました。そして小ボケ・中ボケ・大ボケのどのレベルなのかを推理しなくてはいけません。
かなひろいが前頭葉機能。MMSEが脳の後半領域の機能です。
私「お勤めに行ってるときはお母さんはどうしてるんですか?」
友人「おかげさまでデイサービスに週4日お世話になってます。私の休みが週2日。あとの一日は夫がいますから」具体的に症状を聞かなくても、脳の機能レベルがわかりました。必ず誰かがついています。小ボケのレベルではないということです。
私「お世話がいるということですね。一人で留守番ができないんですからね。子どもには目も手も掛けますよね?お母さんは何歳くらいの子どもと同じくらいだと思いますか?
あ。言ってることを聞くのではなくて、やってることを見て判断するという意味よ」
友人「けっこうしっかりしてるというか…あ、しゃべることじゃなくやってること…ですね。
足が弱ってるので、家の中を少し動くくらいなので外へ行ってしまう心配はしてない。
食べることはそれでも一人で食べられる。でも、どうしても一人になる時にお弁当を作っておいても、食べられない。幼稚園の子でも年長さんならチンして食べるって聞きますよね?、食べ物でないものを食べたりはしませんけど。
洋服は、一応着ます。でもどこかだらしないというか、そうだ、小さな子が一人で洋服を着たときに、シャツを引っ張ったり、ズボンをキチンとあげてやったりするのと同じ!変に重ね着したりもします。
薬は袋も渡していません。一日一回ですが私が管理しています」
私「そのくらい手をかけているのね。ということは?」
友人「幼稚園でも小さいほう!」
私「そうなんです。そのくらい手をかけないと一人で生活はできないということ…」
じつは今までに訴えられた症状はすべて中ボケで起きてくることばかりでした。
中ボケと大ボケを区分けるのは、人に関する見当識がどの程度揺らいでいるかというところから知ることができます。
友人のこともご主人のことも、わかっていらっしゃる。
ただ数年前の大学入学時点から家を出たお孫さんのことは、実際に目の前に来てもあいまいになっている様子でした。
友人「だって離れてしまって、顔を見ることもないからでしょう?」とかばう発言が。家族って面白いです。困った症状を言い募っている最中でも、何かの拍子に「いや、以前のままの母なんです」と訴えてくることがしばしばあります。
私「名前が度忘れで出てこないとかはあるけど、この子が孫であることはわかるものよ。とにかく話していることを聞けば、以前のお母さんのような気がするのでしょう?でも、よく考えてみて。いくら正しいことを言っているようでも「その状況で、そんなことを言う?」ということがほとんどのはず」
友人「いろいろ思い出してみると、確かに…」
私「いくらしゃべることができても、状況の判断力とか決断力とかがなくなっている。ちょうど…」
友人「幼稚園児。それも年少さん、3歳くらいでしょうか?」
ちゃんと介護をしている家族の方は、よりよく見たくなることはあるのですが、そしてどうしても言葉の力に引きずられてしまう傾向はありますが、ちょっと方向を正してあげると実に正確に症状(ということは脳の機能レベル)をとらえています。
友人のお母さんは、中ボケ下限からそろそろ大ボケに入ろうかというところでしょう。
人生の大きな出来ごと・生活の大きな変化をきっかけに、ナイナイ尽くしの生活(趣味も生きがいもなく、交遊を楽しむこともない。そのうえ運動もしない生活)が継続し始めてから、小ボケの期間は大体3年間。それから2-3年が中ボケの期間で、6年たつと大ボケに入っていくことが多いのです。
とすれば、お母さんの「きっかけ」はだいたい5~6年くらい前に起きたことになります。
こんなアジサイ発見
友人「ご存じのように、私たちは東日本大震災で被災しました。その時父も愛犬も亡くし、全く思いもかけないことだったので大変でした。いろんな意味で…私たちのところは津波で全部がダメになってしまったところだから…でも、おかげさまで、いろいろな援助の品物や手は届いたのです。
そのうえ仮設のころは、今考えると不思議なほど一体感があったんです。みんな同じ経験をしてるわけだし、もともと同じ地区の人たちだから気心も知れている。だから何でも言えて泣いたり慰めあったりできました。
そのうち家を建てて仮設を出ていく人たちが増えてきて、私たちも新しく家を建てることができました。経済的には大変ですが、それでもこれで安心して生活できると喜びあったのが5年前です。
今日お話ししていてよくわかりました。新築転居してからの問題は、母を支えたコミュニティがなくなったこと。相次いで孫たちも進学のために家を出たこと。そうそう、そのころから耳が遠くなってきたこともよくないですよね」
友人の言葉が続きました。
「震災後たくさんの支援をいただきました。感謝してるんですよ。ただ、地域をまとめて復興住宅を建てられるような場所の提供は、本当に無理だったのでしょうか?今日いろいろお話ししてみて、もしも母が長く暮らした、母の人生そのものだったといってもいいあの地区が、まとまって再復興できていたら…と思わずにはいられない。高齢になるということは、家族からも周りからも支えられる部分が大きいですよね?言っても仕方がないことですが」
重い言葉でした。豊かなコミュニティがあったのですね。
白花アガパンサス
私は、先日改訂した「アルツハイマー型認知症は防げる・治せる」でこれからの日本社会(当然、高齢社会です!)を持続可能にするためには「自助・共助・公助」の考えが必要であることを書きました。
自助は、自分の人生を自分らしく生き抜くという覚悟。ボケてなるものかという気概は、脳全体を使い続ける、楽しく変化に富む生活をすることで支えられるのです。
共助は、近隣の高齢者との触れ合いを積極的に。地域のためになる小さなボランティアを考えましょう。例えば祭りの復興ならば青少年も巻き込めます。
公助は、介護費用に毎年12兆円もかかっている現実を考えると、予防にシフトしなくては財政的に立ち行かない。そして予防の方が対費用効果は高いに決まっています。これは国民からの声ということも必要だと思っています。
カラマツソウ
親の介護のために本意でないのに離職した人が、累積で100万人を超えたそうです。そうなる前に国もコミュニティも個人もなすべきことがあるのではないかと思うのです。
施設に預けることはタブーと思い、それがためにきつく叱ることが増え、そして叱っては自己嫌悪に陥る。「あのお母さんが」と悲嘆にくれることも。そんな大変な日々が続いたことは、私にはよくわかります。脳の機能レベルという物差しを持って話を聞くと、お母さんの生活が浮かび上がってくるようです。
一つ前に書いた「篠田節子著『介護のうしろから「がん」が来た!』を読んで」の話もして、施設入所の道を閉ざすことはない。決して棄老ではない。共倒れを防ぐための工夫。落ち着けばいくらでも面会に行ける。実際に経済的に働く必要もあるはず。などことばをいろいろ尽くしました。
震災で父を亡くした時、悲しくて悲しくてどうにも気持ちがおさまりませんでした。でも…今は父は父らしく生きぬいたんだなあと、もしかしたら満足しているのかもしれないと思えるようになりました。長く生きることだけではなく、どのように生きるかが、一番大切ですよね」
話がどんどん深まって、電話を切ったときには思いがけない満足感とでもいえるような気持ちが沸き上がってきました。
敬子さん。また電話で話しましょう。無理はしないようにしてください。
認知症に関して理論的に詳しく知りたい方は、以下のブログもお読みください。
小冊子改訂中のお知らせはしましたね。昨日書いたところは皆さんにも読んでほしいと思いましたので、ちょっと加筆して転載します。
認知症の正体は、理解できましたか?脳の使い方が足りない「脳の生活習慣病」なのです。そのかなめは前頭葉の「意欲」や「注意集中力」に支えられた「注意分配力」を発揮する時や場が極端に減ってしまうことです。「人生の大きなできごと、生活の大きな変化」を「きっかけ」に、その状況に負けてしまって、三頭立て馬車の御者が役割を果たす状況を失くしてしまうことと言い換えることもできます。
趣味なく、生きがいなく、交遊もない。そのうえ運動もしない。ナイナイ尽くしの生活が継続してしまうことです。
ナイナイ尽くしの生活に入っていく「きっかけ」をまとめてみましょう。
①時間はあるのにすることがない状況
仕事一筋の人の定年退職(今までの感謝から、気ままにさせてしまう)
家業代替わり(切望していても、仕事がなくなったらすることがない)
家事をやめる(退職した嫁が、これまでの感謝を込めて家事担当に)
②病気やけがで長期安静
病気やケガで、入院または退院後もふくめて長期安静にする。体調不良。
脳卒中、心臓手術などの病後に、再発を恐れ生活が単調化。閉じこもる。
腰痛や膝痛のために、行動が制限される。それが習慣化してしまう。
③寂しい状況
わかれ:配偶者との死別。友人の死や転居。孫の成長(世話が不要、家を出る)。趣味の中止(仲間の減少、先生の都合、視聴覚などの肉体的理由。ペットを喪う。
なやみ:家庭内の問題(子供の離婚、リストラ、孫の非行、いじめ、発達障害など)自分や家族の健康問題。経済問題。相続問題。近隣とのトラブル。
さびしさ:ひとり暮らしで、趣味や近隣との付き合いを通じた交遊関係がない。 家族と同居していても、会話や交流がない。家族関係の問題(本人に起因する場合も、家族が原因の場合もある)。
まとめると「生きる意欲を支えた生活が、なくなる。生活を支えた意欲を、なくす状況がおきる」
上にあげたようなできごとは、誰にでも起こり得るものです。そのできごとが起きた時に、どのように対処するかは、前頭葉の役割。その状況をどうとらえ、どのように判断し、どう進んでいくかを決めるのです。認知症にならない幸せな老後をくらすには三頭立て馬車の御者が、「きっかけ」に負けないで、馬車を動かし続ける覚悟があるかどうかにかかっています。がんばってください。
保健師さんから相談メールが来ました。
「近所に越してきた方の名字がどうしても覚えられない。どんなに繰り返してもどうしても覚えられない。ショックだ」というのが主訴の方がいたそうです。
「記憶が障害されている!」多くの人にとっては記憶と物忘れはごっちゃまぜになってますから「物忘れ!すわ認知症!」という流れになると思います。
「記憶」には「覚える」「覚えておく」「思い出す」という三つの過程があるのです。覚えられないのか、覚えていられないのか、思い出すことができないのか。少し詳しく考えることも必要です
このようなときに、二段階方式ではいつものルーティーンに沿ってその人を理解しようとしていきます。
ルーティンとして、先ずは脳の機能検査をします。それからその人の日常生活の状態を調べます。そしてここ数年間、どのように生活してきたか、生活ぶりに変化を生むような大きな出来事がなかったかのかということを聞き取ります。
その流れで進めたようですが、あまりに訴えが現実的で切迫感も伝わってきて「何か別のこと」を考えなくてもいいのかと思っての質問だったようです。
結論を言いましょう。
その方の脳機能は、前頭葉機能のうちの注意を集中させたり分配させたりする機能だけが極端に低下してしまっていました。かなひろいテストが二分間で正答数はたった3個という状態で、全然できていませんでした。内容はあいまいな状態で、まさに「状況を判断しながら、たまに注意力を分配しながら、その課題について意識を集中させて取り組む」ことが不得手になっているという結果です。
そして、そのような前頭葉機能の能力低下を自覚してもいるのです。
てきぱきと物事をこなせない。
感動がなくなった。
動作が緩慢になった。
抑制が効かない。
根気が続かない。
意欲がなくなった。
つまり以前の自分ではないようだ自覚しているのです。前頭葉の機能低下を自覚している。これが認知症の始まりです。
決して物忘れではなく、以前の自分のように物事に対処できない(ということを自覚している)。ここが認知症への入り口であることを、保健師さんたちはもっと信じてほしいと思います。
名前の覚え方は、もう一工夫。書いてみる。それを声に出していってみる。今までに知った人と同じ名前ではないか?タレントに同じ名前の人はいないか?何か関連付けられるものはないか。その名前にまつわるエピソードを作り上げてみる。
短い時間で繰り返す。どうしても思いだけないと、最初の音だけ言ってもらう。
工夫はいろいろできますね。これも前頭葉の機能です。