三頭建の馬車を御する 高槻絹子
「人が生きるということは、三頭建ての馬車を走らせること…」3月11日午後2時46分、私は岩手県藤沢町で認知症予防をテーマにした講演をしていました。気仙沼市から直線距離で15キロほどだというのに、私はステージ上でしゃがみこむこともせず立ったまま、会場も落ち着いたものでした。会場の一角に飾られた七段飾りのお雛様も一体が落ちただけでしたが、講演会は「あと15分ですが続きを楽しみに」ということで中止になりました。講演の感想を述べに来てくれるお年寄りと再会を約しながら、私は限局的な地震でたかだか震度3位かなと思っていたのです。
黄色の花は元気の素
その後一ノ関市千厩支所に移動。停電のため、テレビもラジオもなく薄暗い支所で、家庭訪問した保健師さんが少しずつ持ち帰る情報は「とんでもないことが起きたらしい」と切れ切れながら、この地域にとどまらない大地震らしいことだけはわかってきました。
結局その日から一週間、交通遮断のために一ノ関市に留まりました。停電が続いたので、テレビやパソコンを見ることができず、陸前高田壊滅も大船渡や釜石の惨状も全部ラジオからの情報だけでした。岩手県の情報が主体でしたが、気仙沼や石巻や名取など宮城県の大惨事、福島原発事故が起きたことも知識としてはわかってきました。
花巻空港から羽田経由で帰宅できたのは8日ぶりでした。それからテレビやネットで大惨事のあり様を見続けました。圧倒されました。これがラジオで聞いていた現実だと。
耳で聞く言葉。目で読む言葉。目で見る写真。目で見る動画。もしその場にいたら。伝える事実は同じでも伝わってくるものには大きな違いが生まれます。
私は、脳外科で神経心理機能テストを数千例実施して獲得した「認知症を脳機能から理解するという手技」を自治体の保健師さんに教えて、各地区で認知症予防をやってもらうことを仕事にしています。症状から見ていく従来の見方では、よほど重度にならないと診断できません。脳機能という物指しを当てることで、認知症は早期発見でき改善を図れます。
脳機能も老化を免れませんが「脳の使い方」が足りずに老化が加速された時が認知症の始まりで、それを神経心理機能テストでキャッチし生活改善指導で回復を図るのです。数万例を超える実践から認知症はむしろ生活習慣病というべきだと、私は確信しています。
講演の時に「脳を使うってどんなこと?」と質問すると「仕事、勉強、本を読む、日記を書く、難しいことを考える」という答えが返ってきます。
「それが言葉を操る左脳のすること。言葉ではうまく言えないけどはっきりとわかっていること、例えば色や形の違い、音楽、感情などは右脳の働きです。昔の人はよく遊びよく学べって言いましたね。遊びが右脳、学べが左脳の役割。体を動かすのも脳の仕事です」と解説します。
脳を使うというのは、デジタル情報を処理する左脳、アナログ情報を処理する右脳、そして体を動かす運動脳がつながれた三頭建ての馬車を、自分らしく動かすことです。
そのためには、まずその場の状況を理解し、判断しなくてはいけません。その後、三頭の能力の特徴を踏まえた指令を出して、三頭を使いこなす御者役が不可欠です。
それが脳の司令塔たる前頭葉の役割です。
左脳の能力強化は効率は別にしていつでも可能。右脳は、絶対音感からわかるように臨界期があって、ベースは幼児期に育まれます。
前頭葉は、教えられて成長する脳ではなく、成功や失敗の体験を通しては自らが評価を下していき、その積み重ねで、自分らしい行動規範を作り上げていきます。その人らしい一定の生き方が確立された時に、大人になったとか一人前になったと言われるのです。慎重に事を運ぶ人もいれば、大胆な人もいる。困難な時にくじけるタイプもあるし、負けずにがんばるタイプもある。何事にも興味津々の人もいれば、意欲的になれないタイプの人もいる…前頭葉は「十人十色」のその「色」といえるでしょう。
言葉には言葉の持つ人間だけが使いこなすことのできる大きな力があります。でも、決して左脳に偏ることがないように注意が必要です。
私が岩手県にいた時にラジオから流れる言葉の力でどこまでの理解ができたでしょうか?もちろんラジオの声にも新聞記事にも涙しました。未曾有のマグニチュード9.0という数値を理解し驚きもしました。
けれども、新聞に掲載されたたった一枚の写真が、どれだけの記事をも超えて地震の脅威を見せつけ人々の苦しみを私たちに伝えたでしょうか。
左脳による言語や知識を介した理解と、写真や動画を右脳によって直感的にキャッチする理解には、大きな差があります。どちらが私たちの心に深く届くか考えてみてください。避難場所で、子どもたちの合唱が人々を癒したシーンの報道がありました。言葉もなく肩を抱いているシーンもありました。途切れる言葉から、どれほどの辛さにさいなまれているかを、恐る恐る共感したこともありました。
右脳の持つコミニュケーション能力は、私たちが人間らしく生きていくために、言葉を超えて大切な働きをします。その大切な右脳は、子ども時代に育むべきことを忘れないでください。
そして、大きな豊かな馬を育てても、さらにその馬の能力を十分に発揮するには、御者である前頭葉の能力いかんにかかっているという脳の構造も忘れないでください。
人生の様々なステージで「脳を使う」という意味を自覚しながら、自分だけの三頭建ての馬車を動かし続けていっていただきたいと思います。
被災地のみなさまも。