近所のお寺で、お若いお坊様方が集まって法話研修会が開かれ、その発表会に出席させていただく機会をいただきました。
法話の内容に関してもプレゼンテーションについても感想を求められましたので、そのつもりで出席しました。
さあスタートです。自己紹介をなさった後で法話が始まりました。
さあスタートです。自己紹介をなさった後で法話が始まりました。
「シドウ?ム?ブ・・・?ユイケン?・・・シャク?」
アラアラとあたふたしてしまいましたが、すぐにそばのホワイトボードに用意された紙を貼ってくださいました。
「至道無難(シドウブナン) 唯嫌揀択 (ユイケンレンジャク)」これで一安心。
法話会なので、「お話を聞く」心づもりでスタンバイ。そこに飛び込んできたのが、言葉ではなく音だったのです。
言葉は意味が分からなければ、音なのです。まるで感覚性失語症の世界です。
感覚性失語症の体験ーアナと雪の女王から
ぜひ挿入してあるユーチューブを聞いてください。
「Let It Go」が流れてきます。流れてくる「音」のうちメロディは右脳で聞きますからちゃんと「Let It Go」と分かります。
歌詞は全然わかりません。この全然わからない他言語の歌詞を聞いているときが感覚性失語症の状態。もちろん松たか子さんが歌う日本語だけは、わかりますよね。日本語を聞いていても他言語のように聞こえ、理解できない状態が感覚性失語症です。
アラアラとあたふたしてしまいましたが、すぐにそばのホワイトボードに用意された紙を貼ってくださいました。
「至道無難(シドウブナン) 唯嫌揀択 (ユイケンレンジャク)」これで一安心。
法話会なので、「お話を聞く」心づもりでスタンバイ。そこに飛び込んできたのが、言葉ではなく音だったのです。
言葉は意味が分からなければ、音なのです。まるで感覚性失語症の世界です。
感覚性失語症の体験ーアナと雪の女王から
ぜひ挿入してあるユーチューブを聞いてください。
「Let It Go」が流れてきます。流れてくる「音」のうちメロディは右脳で聞きますからちゃんと「Let It Go」と分かります。
歌詞は全然わかりません。この全然わからない他言語の歌詞を聞いているときが感覚性失語症の状態。もちろん松たか子さんが歌う日本語だけは、わかりますよね。日本語を聞いていても他言語のように聞こえ、理解できない状態が感覚性失語症です。
禅語でも知っているものだと、音を聞いただけで意味も字も浮かんできます。私は茶道を教えていただきましたから、なじんでいる禅語もあるのです。一期一会、和敬清寂、喫茶去、平常心是道、日日是好日、本来無一物、独座大雄峰、行雲流水、柳緑花紅、明歴々露堂々・・・うわー先生のお顔やお声が聞こえてくるようです。
話は戻りますが、言葉の音が聞こえて、意味につながってくれると、さらに「聞く」体制が深まってきます。
法話に集中できて、次にお話になることに対して興味津々という状態ができあがるからです。
ところで、「状況を理解して法話を聞く」という状況に自分をもっていくのは前頭葉ですが、この前頭葉機能は注意を集中させる働きも担っています。
残念なことに、この注意集中力は年齢とともにだんだん低下していくので、聴衆の年齢によって配慮が変わることになります。高齢者が多いとゆっくり話さないと理解ができません。若い人たちだと、ゆっくり過ぎるとむしろ理解しにくい・・・
もうひとつお話しておきましょう。
状況を理解するのは前頭葉の大切な働きですが、その時論理的にアプローチする左脳タイプと、感覚的で大雑把な右脳タイプがあるようなのです。もちろんどちらか一方しかないというのではなく、どちらが優勢かということです。状況によっても変わりますね。
結婚記念日ー左脳と右脳のせめぎあい
左脳タイプの人たちにとっては、論理が通ってさえいれば自然に理解への道筋が開けてくるのです。
右脳タイプの人たちにとっては、論理が通るかどうかよりも感覚的に納得できるかどうかの方が重要なファクターになるので、情緒的な訴えが不可欠です。その具体的方法は、声の強弱、表情や身振りを取り入れるということですが、法話にはおのずから限界があると思います。「伝えたい内容に対する真摯な思い」があれば、どうにかなるものではないでしょうか。
法話には禅語がつきものだと思います。
禅語は、私のような一般の人たちにとっては、左脳から入って、どこかでコペルニクス的転回があって胸にストンと落ちるもののような気がします。論理的に考えていきながら、「あ、そういうふうにも考えられるんだ」と気づかされるのです。
(これは茶道の先生から教えていただいた時の感想です)
私は「言葉の意味」を重視した考え方を書いてきたのですが、般若心経を絵解きしながら文字が読めない人達に教えた絵心経に触れないわけにはいかないでしょう。
絵心経で般若心経を唱えることはできますが、意味は分かりません。とここまで書いて、文字がわかる私でもほとんど同じように意味は分かっていないまま唱えていることに気づきました。
意味を超えて「唱えること」、そのものに意味があるということなのでしょうか。
ウーン。私たちが生きている、どうしても意味を追求する日常生活の尺度と、全く違う尺度があるということですね。
法話会に出席させていただいて、最後にはこんな感想を持ちました。
フロク。
(フェリシモマスキングテープセットより拝借しました)
右脳タイプの人たちにとっては、論理が通るかどうかよりも感覚的に納得できるかどうかの方が重要なファクターになるので、情緒的な訴えが不可欠です。その具体的方法は、声の強弱、表情や身振りを取り入れるということですが、法話にはおのずから限界があると思います。「伝えたい内容に対する真摯な思い」があれば、どうにかなるものではないでしょうか。
法話には禅語がつきものだと思います。
禅語は、私のような一般の人たちにとっては、左脳から入って、どこかでコペルニクス的転回があって胸にストンと落ちるもののような気がします。論理的に考えていきながら、「あ、そういうふうにも考えられるんだ」と気づかされるのです。
(これは茶道の先生から教えていただいた時の感想です)
私は「言葉の意味」を重視した考え方を書いてきたのですが、般若心経を絵解きしながら文字が読めない人達に教えた絵心経に触れないわけにはいかないでしょう。
絵心経で般若心経を唱えることはできますが、意味は分かりません。とここまで書いて、文字がわかる私でもほとんど同じように意味は分かっていないまま唱えていることに気づきました。
意味を超えて「唱えること」、そのものに意味があるということなのでしょうか。
ウーン。私たちが生きている、どうしても意味を追求する日常生活の尺度と、全く違う尺度があるということですね。
法話会に出席させていただいて、最後にはこんな感想を持ちました。
フロク。
(フェリシモマスキングテープセットより拝借しました)