子供たちの遊ぶ声が騒音たとして公園を撤去。封鎖すれば、三方一両損ならぬ三方二両損だと思っています。
自分の子供が居ない、自分の孫が居ないなど社会は色々です。
子供も孫も居ても核家族化して孤独な老人たちも存在します。
三世代、四世代と一所帯で生活すれば孫の面倒を見る歳よりも、ひ孫の面倒を見る老人も嬉しさと悲しさの心豊かな中で存在できます。
公園封鎖する事になった苦情老人は本当にこの事態を願っているのでしょうか?
自治体に苦情を申し立てているのですから騒音が無くなる事は願っているのは事実でしょうが。
一番の解決は、この老人が幼い子供達が大きな声で遊びまわる世界が別世界と感じか。または、高音程の煩い声だとしても微笑ましいと感じる心ならば、決して騒音ではないのです。
クレーム老人に『元気な明るい未来のある子供たちが風の子として寒い日も元気に飛び回る姿を心地良い』と感じさせる事です。
家に閉じこもり、窓を閉めて煩いと戸締りするようでは騒音に聞こえるのももっともです。
不満や苦情の原因に対して、怒りが増幅しその対象が子供たちに向かい、子供達が集まる公園が有るからだと。その矛先は向かったのです。
原因を取り除くのではなく、怒りの元となる考え方が変われば皆が仕合わせな支えあう社会として認識し存在する事ができるのです。
老人の心に存在する騒音に対する不快感の対象物の子供達。
世の中、子供も老人も共に存在するのです。老人が煩い餓鬼と思い、幼い子供達は小煩い老人と思うだけでは助け合う相互信頼、相互扶助の関係は育ちません。
この老人が公園に出て子供たちと一緒に遊ぶなり一緒に行動することが騒音として感じる心を消滅させることが出来る魔法の杖なのです。今日の子供達は元気に仲良く飛び廻っているかな?虐められている子はいないかな?仲間外れに成っている子はいないかな。何でも良いのです。繋がりを持って気に掛けているだけで、騒音と思っていた子供たちの声が愛おしくなるのです。少し状況は違いますがレイチェル・カーソンの沈黙の春にしてはいけないのです。子供たちの声は小鳥の声と同じように聞こえる気持ちが大切です。
再度言いますが、何でもよいと思います。子供たちが公園で危険に遭遇しないように脇で見守るだけでも騒音ではなく元気な子供たちと思うようになる心が芽生えると思っています。
友人にも子供が居ないで優雅に生活していると共稼ぎ世代の方がおります。それでもペットの猫が5匹居ても味わえない素晴らしさを与えてくれる子供達です。
日本では昔から子供たちを子宝とかイザベラ・バード書物を読むまでもなく大切にしてきた社会でした。
子供の声が煩いとクレームを付けた老人を非難する社会では、世代の異なる沢山の人々が居心地よく済む事の出来る社会とは思えないからです。
この「老人」さんはわれわれ、少なくとも、我が家とは政治的な考えも異なるでしょう。でも、ここまで悪役になったのは天晴れ❗️
皮肉ではなくてこの方の主張というか主張の行政的な処理には考えさせられるものがある。と、思います。
来年もよろしくお願いいたします。
正直 驚きました。
ローカルニュースでみた
荻原健司市長の説明も いまいちでした。
この子供達の声をうるさく思う気持ちが、今度は老人は邪魔だと思う気持ちに置き換わるかもしれません。
子供は未来を背負って行く世代、老人は過去に活躍した世代ということを思えば、こんな不満が湧くはずはないと思います。
これは現代人の自分さえよければの考え方がこういう事態を招いているのでしょう。
悲しい世の中になりました。
いつも辛口と一言では語れないスレッドで勉強になっています。
核家族を選択した戦後の民主主義世代のつけのような感じがしないでもありません。
長い間引き継いできた日本社会の価値観も方式も再構築した戦後世代。
中途半端な価値観しか持ち合わせていないと、つい最近実感しました。
本の数年前からです。
騒音と捉えるか、元気な子供たちが暑い日も寒い日も外で英気を養ているとおもうかかと。
人それぞれですから想いを表現できる事は素晴らしいとおもいます。
苦情を申し出た老人も社会から断絶した環境下に居るのかと強く思います。社会の一員としての活動の場を子供たちの保護者としての仕事でも持たせれば変わると思わずにはいれれません。
昔取った杵柄で、物がない時代の遊びの天才世代ですから竹馬、凧揚げ、ベーゴマ、何でも教える環境下であれば、声がすればその場に出て行き生き甲斐もかんじるかもしれません。
少しでも幸せな人生を楽しく過ごしてほしいと思ってかきました。
自己に対する戒めかもしれません。
コメントありがとうございます。
今回だけでは無く以前に東京の何処の市だったか忘れましたが、同じような問題がありました。
日本全体が音に対して非常に過敏になって居るとかんじます。
以前は自転車の前輪スポークに付いた物を弾いてベルが鳴る形式の物がありました。
それこそ、蕎麦屋の出前の人が片手運転でどけど言わんばかりの威勢でベルを鳴らしたものでした。
今では安全を確保する為にもベルを鳴らすのを躊躇している自転車を運転しています。
何処か可笑しい感じがしないでもありません。
音は全てが騒音なのでしょうか。
聴く人が騒音と思わない、そんな穏やかな生活で出る音に寛容であっても良いのではとの想いからかきました。
音は聞く人の気持ち因っては、騒音にも危険回避にも、〇▲▢ちゃん、遊びましょ!の合図だったり。
少しの事象に対して寛容な社会でありたいと思う今日この頃です。
いつもコメントありがとうございます。
子供の声が煩いと思う心が、老人を邪魔だと思う気持ちの変わるのは容易に想像できます。
人それぞで、自分の心で判断しますので。
その判断の根底にある基本理念は歳相応の時代を反映する事は避けて通れない思考回路の基本条件です。
若い頃に席など譲った事が無いのに、歳をとれば優先席は自分たちが座って当たり前と思う思考回路が構築されるが如く。
そんな傲慢さを傲慢とは感じなくなる思考回路。
そんな老人になりたくない若者気取りの老人でありたい。(宮沢賢治ふうに)
長谷川町子の意地悪ばあさんの漫画がありましたが、愛嬌のある笑える年寄りなら良いですが、自己中の価値観に凝り固まっていては社会から浮いてしまいます。
猫の如く愛される老人になりたいものです。
いつもコメントありがとうございます。