雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

日本古代史ニュース 福岡市元岡古墳群G6号墳で銘文鉄刀を発掘

2011年09月22日 05時54分23秒 | 古代史ニュース

日本古代史ニュース 福岡市元岡古墳群G6号墳で銘文鉄刀を発掘

 福岡市教育委員会は9月21日、福岡市西区の元岡古墳群のG6号墳(直径18m)の石室から、銘文の入った鉄刀が出土したと発表しました。

 鉄刀は、長さ約75センチで、さびていましたが、X線撮影で象眼(ぞうがん)された文字が発見されました。

 文字は「大歳庚寅(こういん)正月六日庚寅日時作刀凡十二果○」と19文字が書かれ、発表に寄れば最後の文字は「練」の可能性があるとしています。

 『日本書紀』で百済から西暦554年にもたらされた南朝系の暦「元嘉(げんか)暦」だとすると西暦570年になるとしています。

 報道ではこの元岡G6号墳は「7世紀中ごろ」とされていますので、この約1世紀の差が気になります。

 この刀がどこで作られたかですが、考えられることは,以下のようになります。

 ① 現地で古墳の被葬者の家系の誰かが作った(もちろん、誰かが技術者に作らせた」のですが)。
 ② 九州の誰かが作って、元岡古墳群の被葬者乃家系に与えた。
 ③ 九州以外の、たとえばヤマト国家がつくって与えた。

 いつつくられたか、ですが、以下のどちらか、だと思います。

 ① 庚寅(西暦570年)に作られて、約1世紀弱後に埋蔵された
 ② 「庚寅」という年号を使って、7世紀半ばに作られた 

 いろんな可能性を考えていくべきで、銘文入り鉄刀が出土すると、すぐに「ヤマト国家から下賜(かちょう)」と発言する短絡思考では日本古代史の解明は困難だと思います。

 すくなくとも、鉄刀の銘文には、そんなことはいっさい書いてありません。
 
 やはり、鉄刀の文章が語ることに、まず耳を傾けましょう。

 「ヤマト国家から下賜(かちょう)」と、すぐ言えるためには、以下の前提の証明が不可欠です。
 
 ① ヤマト国家しか鉄刀の象眼技術は持っていなかった
 ② 大和政権しか鉄刀の象眼と下賜の権利は持っていなかった

 今回が「銘文付鉄刀」の出土としては7回目と報道しています。

 たぶん、東から、以下の様でしょうか。これ以外に「七支刀」があります。
 ① 千葉県 稲荷台1号墳出土「王賜銘」鉄剣 5C
 ② 埼玉県 稲荷山古墳出土の鉄剣銘
 ③ 奈良県 東大寺山古墳出土鉄刀 「中平年」
 ④ 兵庫県 箕谷(みいだに)2号墳 「戊辰(ぼしん)年五月」銅象嵌 =607年
 ⑤ 島根県 岡田山1号墳出土の鉄刀 「各田了臣」
 ⑥ 福岡県 元岡G6号古墳出土鉄刀 
 ⑦ 熊本県 江田船山古墳出土鉄刀 約75字 

 7カ所の内、奈良県は、すこし異質な「中平年」の東大寺鉄刀だけです。
 
 あとは関東2カ所(千葉・埼玉)、近畿1カ所(兵庫県)、山陰1カ所(島根県)、九州2カ所(福岡県・熊本県)。

 「ヤマト国家からの下賜」というなら、まずヤマト国家内の豪族に「下賜」されて、奈良県内からたくさん「銘文付鉄刀」が出土しても、おかしくないですが。

 なぜわずか直径18mの古墳から、こんな銘文付鉄刀が出るのでしょうか?これより大きい古墳は福岡県に、九州に何基あるでしょうか?

 浜松でも18mより大きい古墳はたくさんあります。もし、古墳の大きさが、豪族の各付けを表現しているなら、おかしな現象ですね。
 


雨宮日記 9月22日(木)早朝 台風の後、涼しい夜と涼しい朝でした

2011年09月22日 05時47分05秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月22日(木)早朝 台風の後、涼しい夜と涼しい朝でした

 台風15号の暴風雨が去って、夜も早朝も、寒いくらいの涼しい、静かな朝でした。

 浜松に台風が直撃したのは、いま「中日新聞」で見たら「20年ぶり」だそうです。

 市内のあちこちで木が倒れたり、モノが散乱したり、まだ片付いていない状態です。

 今朝は帰って来て、則子さんをおこして、いっしょに「粗大ごみ(以前に連絡済みでそのときに聞いた番号を張る)」の本棚を、集積所に2人で持って行きました。

 我が家は集積所がすぐ目と鼻の先で、遠くないので楽ですが、遠い人は大変です。

 

 

雨宮日記 9月21日(水)の3 浜松市の「避難勧告」の謎

2011年09月22日 05時26分11秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月21日(水)の3 浜松市の「避難勧告」の謎

 21日は、浜松市中区・東区・南区などでかなり広い地域に「避難勧告」が出ました。

 その謎、わからないことを考えてみました。

 ① テレビで「浜松市中区曳馬地区に避難勧告」と出るだけでは「大雨」なのか「下線決壊」なのか、理由が分からないし,避難先もわからない。

 ② 「曳馬地区」も出た地区ですが、曳馬地区全体で3万人くらいの人が居住しています。その全員が避難する先はあるんでしょうか?

 ③ この勧告は午後2時に出ていますが、浜松市では台風の暴風雨がいちばんひどかった時間帯です。そういう時間帯に「避難する」のは危険です。

 ④ 曳馬地区でも、雨宮家は馬込川から歩いて5分ですが、上島6丁目や上島7丁目のように台地の上の場所もあります。一律に全体に「避難勧告」というのは道理がないのではないでしょうか。

 ⑤ 午後7時前に、家の近くを「18時ゼロゼロ分に避難勧告は解除されました」と消防車がマイクでアナウンスしていきましたが、どうして、台風の暴風雨が収まったもっと前に解除しないんでしょうか。

 ⑥ なにを基準にして「勧告」「解除」をするんでしょうか?雨量?それとも馬込川の水位?馬込川の水位も見に行きましたが、堤防のレベルには、まだ余裕がありました。これで、どうして「避難勧告」?と思いました。

 調査もしながら、わかったことは書いていきます。