雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 33 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 Ⅱ-32 塩の歴史」

2014年06月28日 20時23分56秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 33 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 Ⅱ-32 塩の歴史」

  太平洋と日本海を結ぶ日本列島横断の「塩の道」の起点は、太平洋側では静岡県榛原郡の相良町である。しかし、塩がなくては「塩の道」も出来ないが、「日本海 太平洋塩の道会議」が毎年開かれるようになった。町としても、今までどのようにして塩が作られたか、はっきりしていなかったのを、近年観光用にも利用されるようになる塩づくりの施設が完成した。

  「塩の道」は相良町より秋葉街道を北上して信州の峠を越え、一応塩尻で止まるが、同じように日本海側の糸魚川から千国街道(ちくにかいどう)を南下して来る「塩の道」と、この塩尻で合流する。塩尻という言葉は、塩の付いた浜砂を積み上げたもののことをいうが、ちょうど南北から集まった塩をここに集積して積み上げたことにより、塩尻と地名がついたのであろう。

  塩は、元来人間にとって生命に関わる重要な食品であり、日本でも古代より作られてきた。その製法は、はっきりとはわかっていないが、製塩に使われたと思われる土器が、主に瀬戸内海の沿岸より発掘されている。何れも火に焙られた形跡があるから、海水を煮詰めて塩を採ったあと捨てたものであろう。それらを焼いたと思われる炉跡も発掘されている。

  万葉集に、塩に関するものと思われる歌がいくつかあるが、笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)の作れる長歌(巻六ー九三五)の
      船瀬見ゆる淡路島 松帆の浦に
      朝凪に 玉藻刈りつつ
      夕凪に 藻塩焼きつつ 海乙女(以下略)
 がある。玉藻の玉は接頭語で、海藻のことである。藻塩焼きには、いろいろ説があってはっきりしない。

   海藻のホンダワラを砂浜に並べて陽に当てておくと、水分が蒸発して白い塩だけが付着する。それを海水に浸して塩を溶かし、海水の塩分を濃くする。その作業を何回か反復して濃い海水を作り、それを土器で煮詰めて塩を得る方法も一つである。或いは、海藻を直接焼いて、海水に溶かして濾過したものを煮詰めるとという方法もある。先の万葉集の「藻塩焼きつつ海乙女」はこのことを指すのかも知れない。

  海水の塩分は約三%である。残り九七%の水分を蒸発させないといけないから、莫大な燃料を必要とする。そのため、奈良の興福寺、東大寺、法隆寺など大寺は、それぞれ瀬戸内の森林を買い占めていた。

  塩田として発達して来たのは江戸時代に入ってからであった。広大な砂浜に海水を撒いて。天日にさらして水分を蒸発させる。その塩分の付いた砂を集めて、海水に溶かして濃い鹹水(かんすい)を作り、それを釜で煮詰めて塩を取り出すのであった。塩田には、潮の干満を利用する自然方式もあった。何れにせよ、塩作りは広大な砂浜と、浜子といわれた人びとと、莫大な燃料が必要であった。殊に赤穂の塩は有名である。

  それが一変したのは戦後である。朝日塩業は鹹水は枝条架方式、製塩は真空式による機械化製塩であった。広い砂浜も浜子も必要なかった。ただ燃料だけは省くわけにはゆかず、沸点の低くて塩が採れる真空方式で、少しでも燃費を低く抑えるように努めた。

  枝条架方式とは、木柱を長方形にやぐらのように組んで、それに竹笹を上から下へ何段にもくくりつけて、タンクに溜めた鹹水をパイプを通じてポンプで循環させ、竹笹の上部より下部へ落とすのである。鹹水は玉しずくのようになって落ちて行く間に、日光と風によって水分が蒸発して濃縮されるのである。十二~十三%ぐらいになるまで、鹹水をポンプで循環させる。この作業を採鹹といった。

  採鹹には気象条件が重要な要素となった。私の最初の仕事はこの気象条件の整備であった。下関測候所(山口県には下関にしかなかった)まで出かけて、当地方の気象の資料を集めた。百葉箱(ひやくようばこ)を設置して、自動温度計と湿度計を置き、風速と風向だけは日中一時間毎に測定した。風向きにより枝条架を組む方角を定めた。年間を通じて西北の風が多かった。日射を主とする塩田法と違って、枝条架法では風も重要な要素を占めた。あまり強い風は、飛散率が多いから良くないが、湿度が低ければ夜間でも運転出来る利点があった。 

  武田薬品でも小規模であったが、枝条架式で試薬用食塩を作っていたので、ある日見学に行った。工廠の一番東側で、近くにコンクリートむき出しのままの建物が、ポツンと残っていた。武田の係員に聞くと、光回天基地の跡だという。「回天」とは特攻兵器で、特攻隊員たちはここから潜水艦に乗って出撃していったそうだ。それは初めて聞く話であったが、操業開始の多忙さや、家庭を持ち生活に追われだした時代だったので、「回天」のことについて詳しく知ることの出来たのは、光を去って浜松に帰った後年のことである。

   ( 次章 「Ⅱ-33 枝条架」に続く )


雨宮日記 6月28日(土) 被爆者聞き取りビデオの編集会議第1回

2014年06月28日 20時04分17秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月28日(土) 被爆者聞き取りビデオの編集会議第1回

 被爆者聞き取りビデオの編集会議をNくん夫妻宅で。則子さんと2人で行きました。今日はだいたいの構想と荒編集。これをもう1回縮めて、さらにタイトルや必要な文字を付けて完成させます。今日は2人の被爆者のそれぞれのお話しを20分と14分に縮めました。

 父の夕食の準備のため、午後4時20分にNくん夫妻宅を出ました。

 


雨宮日記 6月27日(金)の2 則子さんは夜勤に行き、ぼくは久しぶりにショパンピアノ協奏曲1を聞く

2014年06月27日 19時38分24秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月27日(金)の2 則子さんは夜勤に行き、ぼくは久しぶりにショパンピアノ協奏曲1を聞く

 今日は、午後、浜岡原発パンフの第2回編集委員会でした。4時で終わり、帰りかきこやに寄って、少し夕食の材料を買い、自宅に戻りました。

 則子さんは僕が家へ帰ったときにはすでに夜勤で出かけていました。過酷な夜勤です。

 Mさんが、明日の、東京への原発行動へのバス参加に、わが家のハンドマイクを貸してというので「いつでも取りに来て」と言って、貸しました。

 父の夕食を準備して、いっしょに食べて、あとは自分の時間です。

 「平和年表」を創りながら、雨宮ブログを書いています。

 それにしても、「デビルマンレデイ」や「オカルト」を書きながら思ったのは、オカルトにしろ神にしろ、自我にしろ、一筋縄ではいかない。何重ものしばりがかかかった複雑な存在だということですね。

 弁証法でいう「あれでもあり、これでもある」、「AでもありBでもある」という摩訶不思議な現象です。

 それが実在です。

   ☆

 それにしても、ぼくは論理だけではとっくに命亡くしていて、音楽や美術やイメージでなんとか生き延びています。

 イメージの中には当然、則子さんの肉体やリアルな言葉も含みます。


本と映像の森 305 『中日新聞 6月27日(金)』(30)面記事「消えない狂気の記憶」

2014年06月27日 19時23分22秒 | 本と映像の森

本と映像の森 305 『中日新聞 6月27日(金)』(30)面記事「消えない狂気の記憶」

 「本と映像の森 304」で「光の牢獄」という概念を紹介しました。 

 ちょうど今日の『中日新聞』でオウム真理教などの「カルト」批判連載が載っていたので紹介します。

 つまり、ジャーナリストの藤倉さんは「カルト教団」の特徴を 

 ① 1人の教組・代表を絶対視する

 ② 信者の心を支配して反社会的行為をさせる

 ③ 高額な寄付を強要する

 ④ 地獄に落ちるなどと脅かして容易に脱会させない

 などとしています。

 記事はもう一つ、「親切ないい火とがやっている」という印象をあげています。

 実は、これは「カルト宗教」にとどまらず「宗教一般」に共通する指標ではないかという疑問があります。

 いまイラク北部で広がっている「イスラム国」の行動に対して「あれは宗教一般の特徴ではない」という宗教界の反撃が極めて弱いように思います。少なくとも、マスコミ面に現れてきません。欠点です。

 宗教界からの、とくにイスラムからの猛反撃を望みます。

 


雨宮日記 6月27日(金)の1 公明党代表が集団的自衛権行使容認を表明ー戦後史の転換点

2014年06月27日 19時06分14秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月27日(金)の1 公明党代表が集団的自衛権行使容認を表明ー戦後史の転換点

 報道に寄れば26日夜、公明党代表の山口代表が、憲法解釈を変更し、閣議決定で集団的自衛権行進を容認すると表明しました。

 これは、まさに憲法の平和主義を、憲法そのものを変えることナシに、国民の承認もなしに、国会の承認もなしに、閣議だけで変えてしまう、まさに「クーデター的な」暴挙です。

 もちろん「軍事クーデター」そのものではありませんが。それくらいの異常な暴挙です。

 感覚的に言うなら、これで戦後は終わり、戦前が始まるのだ、という感じでしょうか。

 こういう異常な状況に、自分の行動は今まで通りのノーマルな行動と言うわけにはいきませんね。

 つまり『何をなすべきか』あるいは『何から始めるべきか』ということですね。則子さんと、じっくり話したいと思います。

 

 


雨宮日記 6月26日(木)の1 夕食後、風が涼しい、女子中学生の声がうるさい

2014年06月26日 18時57分07秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月26日(木)の1 夕食後、風が涼しい、女子中学生の声がうるさい

 次女の作ってくれた夕食を食べて、2階でパソコンを打っています。

 風が涼しいです。雀が鳴いています。

 下校中の女性中学生のきんきら声がうるさいです。誰か「まじめに帰れ!」と女子中学生に言ってます。

 則子さんは横で、伸びています。今日は7時早番でしたが、疲れたようです。

 いま時間は午後7時5分ですが、まだ空は青が残っていて少し明るいです。

 夏至から数日ですから、これからだんだん夕陽が早くなっていきます。

 


本と映像の森 304 永井豪『デビルマンレデイ 8』<モーニングKC>、講談社、1999年

2014年06月26日 18時33分49秒 | 本と映像の森

本と映像の森  304 永井豪とダイナミックプロ『デビルマンレデイ 8』<モーニングKC>、講談社、1999年

 帯から引用すると「突如、地球規模で始まった人類の獣人(ビースト)化現象、若い女性高校教師不動ジュンは、奇跡的に人間の理性を保ったまま獣人化する能力を身につけた。そして謎の女性アスカ蘭から人類の未来を守る使命を与えられる。」

 「デビルマンレデイ」は、「デビルマン」の続編となりますが、そのことは途中から証されていきます。たとえば、この8巻ではジュンは、グルメク共和国大使館に秘書として入り込み、謎の儀式で十字架にいけにえとしてはりつけの身になる。
 
 人間が変身した怪物ヴラヴァ神に食われる運命だったが、突如、大使館の床が抜けて全員が地下へ落ち込んでいく。

 気がつくとそこは暗い、ヌメヌメした、怪物たちがヒトをどんどん食う世界。

 ジュンは「まるで‥まるで‥」とつぶやくと

 ジュンの後ろから男の声が「まるで‥なんだと思う?」と声をかける。
 
 ジュンが振り向くと若い黒服の男が座っていた。

 それは前作「デビルマン」の主人公不動明だった。

 「霊界といった方がわかりやすいかな、それとも地獄」

 不動明とともにジュンは、地獄をめぐり始める。そして地獄から出るために、地獄の最下層に降りていく。

 罪人がここに落とされるの?と聞くジュンに不動明は答える。

 「さーてどうかな。俺はダンテみたいに心身深くないのでね」
 
 「地獄とはまさしく地獄。悪意に満ちている」

 「地獄に死はない。繰り返し繰り返し食われ続ける」

 不動明の、天国論を聞こう。

 「天国に俺の行く場などないのだ。地獄が道徳律によってできているのではないように、天国もまた正義による規律であるのではないのだから。地獄が闇の牢獄ならば、天国とは光の牢獄なのだ。神に絶対の服従をしたものだけが入れる牢獄に過ぎない」

 「俺の知る限り、天国とはそういうところだ。他に真に天国といえるところがあるか俺は知らない。この宇宙を創造したのが本当に神なのかも知らない。了なら知っているかもしれないが」

 地獄の長い坂道を降りながら、不動明のジュンへの独白は続く。

 「了は人間ではないんだ。堕天使、暁のルシファー、またの名をサタン‥そして俺の親友、そして最大の敵」

 「ヤツこそ俺の怒り!俺の憎しみ!そして なお ヤツが 好きだ。できることなら理解したい」

 そして不動明とジュンは、ついに地獄の最下層に氷づけになって凍結されているというサタンに会いに行く決意をする

 (第9巻に続く)

 ◎なお「サタン論」については、平井和正の未完のロング小説「幻魔大戦」シリーズのうち『真幻魔大戦』の「第3部 堕天使との邂逅」を参照(出版されたかどうかも不明。ぼくは雑誌分を所蔵しています)

 


雨宮家の歴史 32 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 Ⅱ 31 山口県光市」

2014年06月25日 20時17分16秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 32 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 Ⅱ 31 山口県光市

  光の駅前に降り立った時、私の目に入ったものは、道を隔てた松林の先に、陽光を受けてキラキラと輝く海であった。この海を見て、私は大いに和(なご)やかな気分になった。夜汽車に一晩揺られた疲れが、一度にふっ飛んでしまった。第一印象は大変良かった。

  以来、現在まで第二の故郷と思われる程、光との絆は続いている。この瀬戸内の周防灘は大いに私の気に入った。戦時中の、あの暗かった朝鮮の岐陽工場とは雲泥の差であった。

 「       中谷節三
  技術員二採用ス月給四百三拾円
   光工場建設事務所技術部勤務トス
    昭和二十一年十二月一日 
          朝日塩業株式会社  」

  この辞令は、二ヶ月後に正式に会社が発足した時受け取ったものであるが、私が着任した十月初め頃にはまだ何もなかった。

  工廠(以下、光海軍工廠を工廠と略称する)の跡地は、穏やかな周防灘とは裏腹に、実に惨憺たるものであった。私が見たものは、ひん曲がった鉄骨の垂れ下がったままのコンクリートの工場であり、その周わりには雑草が生い茂っていた。

  工廠は敗戦の前日、八月十四日の正午前後に、米軍B29一六七機の爆撃を受けて壊滅した。殆どが二五0キロ爆弾によるもので、落とした爆弾量は八八五トンである(浜松大空襲では焼夷弾で九一二トン)。しかし爆撃は工廠内のみで、市街地は目標に入っていなかった。

  既に日本がポツダム宣言を受け入れて降伏することが判明した後のこの空襲は、それまでの一般都市の焼夷弾攻撃によるものとは、別個の作戦であった。八月十四日の白昼に行われたものは、光工廠の他に徳山海軍燃料廠、大阪陸軍造兵廠、岩国の麻里府陸軍燃料廠などで、日本に対しておこなった最後の一連の空襲であった。

  この空襲で、従業員五〇四名(内女性一六六名)、動員学徒一三二名(内女性八五名)、合計六八七名(内女性二五一名)の犠牲を出した。当時工廠内には軍関係者を除いて、三万数千名が就業していた。

  光と並び称せられていた愛知県豊川海軍工廠も、光より一週間早い八月七日、同じように爆弾による空襲を受けて、動員学徒も含めて多数の犠牲者を出したことは周知の通りである。もう戦争は終わることが分かっていたであろうに、こうも無残に(原子爆弾を含め)叩きのめそうとすることを、避けることは出来なかったのであろうか。
 
  光駅に降りたとき、駅前などは商店が少なくて寂しいなと思った。最初に見た海は虹ヶ浜海水浴場で,光駅はもともと虹ヶ浜駅といって、夏だけ繁盛する寒村にすぎなかった。

  今の光市は東端の室積(むろづみ)町と浅江・光井・島田・光井の各村が合併して出来た市(付図参照)で、各が点在し、核となるような市街地はなかった。

  昭和十三年五月、戦争の進展に伴い、島田川と光井川の海岸地帯に海軍工廠が建設されることになった。この時は、まだ合併以前で、各村は工廠の建設を知って急速に合併の気運が生じた。翌十四年四月一日、室積町を除く四村を以て周南町(周防の国の南の意)が発足した。人口は約一万人であった。

 工廠の名が「光」であるのを知り、昭和十五年十月一日「光海軍工廠」発足と同時に、光町と改称した。室積町が合併し「光市」が誕生したのは、更にこの後の昭和十七年十月一日である。一万二千戸、人口約六万人で、昼間工廠で働く人達を加えると八万人に達したという。しかし、戦争が終わると、またもとの三万人ぐらいの寒村に戻ってしまった。
 
  駅前を一本の道路が東西に通じているが、戦時中は軍用道路として巾二十二メートルあり、大したものであったが、戦後は穴ぼこだらけで、国鉄バスがガタゴト走っていた。このバスで会社へ通勤した。

  最初、駅の近くの中村住宅(A)へ入った。工廠は従業員や動員学徒のために、多数の住宅を建てたが、中村住宅もその一つで、会社が市から借りたのである。

  着任した時、工場長となるK氏と、ボイラーを据え付ける技師と助手の三名しかいなかった。I部長は一人で虹ヶ浜海岸の旅館に泊まっていたが(先に述べたM君もその時、部長と一緒にこの旅館住まいをしていた)、栄養失調を理由に退社し、半月程で光を去ってしまったのは心細かった。

  工廠は国有財産だったので、大蔵省管理財務局の所管で「管財」と呼んでいた。その管財から支給された出入り許可の腕章を腕に巻けば、自由に正門や島田門から入られた。正門近くの一番良い場所の建物を武田薬品(地元では昔通り武長と呼んでいた)が占め、既に操業していた。塩業の土地は、その武田の南の海寄りであったため、武田の工場を迂回するようにして行かねばならなかった。新日鉄光工場が出来たのは、私が光を去った後であった。

  ( 次章 「Ⅱ-32 塩の歴史」に続く )

 

 


雨宮家の物 32 最新のUSBメモリー・4ギガ

2014年06月25日 20時12分26秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 32 最新のUSBメモリー・4ギガ

 最近買った、最新のUSBメモリー、4ギガです。

 デジカメの写真400枚を入れたら1ギガでした。

 つまり、デジカメ写真が1600枚入るということですね。

 技術進歩はすごいです。

 これも、マルクスが解明した資本の競争による法則的な推進ですが。


雨宮日記 6月25日(水)の4 則子さんが絵手紙の会でもらった和紙

2014年06月25日 20時09分13秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月25日(水)の4 則子さんが絵手紙の会でもらった和紙

 則子さんが、毎月1回の絵手紙の会、いたや会館にて、でもらった和紙です。

 この絵手紙の会と、30日の「山頭火の会」には、仕事がないかぎり、則子さんは出かけてます。楽しみなようです。