雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 6月25日(水)の1 妹夫妻が写真をもらいにきて野菜と交換しました

2014年06月25日 19時44分28秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月25日(水)の1 妹夫妻が写真をもらいにきて野菜と交換しました

 妹が姪の結婚式の写真をもらいに来ました。「メモリー持って来た?」と聞くと「持って来てない」というので、自分の4ギガのメモリーに400枚の写真を入れて渡しました。

 いつも野菜をもらっても、あげるものがないのですが、今回だけは写真をあげることができました。

 


雨宮家の歴史 31 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 山口県光市 Ⅱ-30 朝日塩業」

2014年06月24日 21時17分09秒 | 雨宮日誌

雨宮家の歴史 31 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 山口県光市 Ⅱ-30 朝日塩業」

 第四部 山口県光市  Ⅱ 30 朝日塩業

  敗戦により消滅した朝日軽金属岐陽工場は北朝鮮にあってどうにもならなかったが、本社が京城に、支社は東京にあったので、機能は主に東京支社が中心になって戦後処理をしていた。現地からの情報が入れば、社員の留守宅に報告していた。新潟港の埠頭に、岐陽工場へ日本海経由で積み出されるばかりになっていたボイラーが、雨ざらしになっていたが、解除の見通しがつくとともに、それらを使って第二会社を作る計画が首脳部の間で進んでいた。I部長も参画していたようである。

  山口県東部の瀬戸内海に沿って走る山陽本線沿線に光という町がある。戦時中、ここに海軍工廠(こうしよう)があった。戦争が終わって、その跡地が遊休地になっているということを、光に引き揚げた会社関係者から知らせが東京支社にあった。

  工廠関係者だった軍人や、工場の職員たちの住んでいた住宅が空き家同然となり、そこに引き揚げ者たちが住みつき始めたのである。知らせた人もその一人であった。

  工廠は海に面していたから、海水は豊富である。関係者が調査した結果、まず食塩製造工場を作ることにした。朝日塩業株式会社光工場である。当時、食塩は非常に不足していたから、国からの緊急要請もあった。また、やがて引き揚げて来る軽金属社員の救済のためにも必要であった。

  工廠は国有財産となり、大蔵省が管理していた。それらを借りる交渉も済んで、I部長は先発隊として、二十一年の六月末に光に出発した。

  私もそこへ就職することが決まったが、日時はまだ不明であった。私が光へ出発したのは九月三十日であったが、その間の事情について、最近新しいことが分かった。

  NHK文化センターの「自分史講座」を、私と同じく受講していた浜工の後輩E君が、ある日、「おかしいですね。中谷さんと同じ光へ行って、塩を作る仕事をしたことがある人を知っています」と言うのである。しかも同じ浜工の卒業生で、E君より一級上だと言う。私は「アッ」と思った。もう戦後も六十年になり、すっかり忘れかけていたが、戦前編(「Ⅰ 21 召集」68頁)に書いた通り、後輩が連絡船に乗られず,結局、渡航を諦めて工場に赴任できなかった事である。私の召集で部長が「困った、困った」を連発したが、その一人に違いない。E君の連絡により、そのM君に会うことになっった。彼も私との再会を待ち望んでいた。

  M君は、戦後の二十一年初頭からI部長の命令で東京支社勤務となり、トレースなどの仕事(彼は機械科出身者であった)をした。そして、部長について光へ行ったという。それが六月だったのではないか。私が引き揚げて来たばかりの頃である。光では旅館住まいで、工廠へ行って海水を汲んで,塩を作ったという。しかし、彼は家庭の事情で、会社をすぐ辞めたので、光も一、二ヶ月ぐらいの滞在で、旅館と工廠の往復以外、光の町は一切知らなかったという。

  その後に私が行くようになるのであるが、M君の話は、一度も部長より聞いた覚えはなく、何十年ぶりかに聞くことである。部長は何故、M君の事を私に伏して帯同したのであろうか。後述するが、部長も旅館住まいで栄養失調となり(一つの理由かも知れないが)光を去ってしまうことになる。 

  光へ出発するまでの間、私は今まで通り、船越の染色工場へ通っていたが、弁当を持って行くような米は無かったので、昼食時は帰宅していた。光行きが決定すると、だんだん勤めに出たり出なかったりというような状態になり、会社から呼びに来たこともあった。さつま芋か雑炊が主食であり、父や母たちは、毎日つてを頼りに、農家へ買い出しに出るのが日課であった。

  光へ出発する時も米は無かったので、弁当はふかし芋であった。ところが、車中で乗客がひろげている弁当は、皆銀シャリ(白米)である。あるところにはあるものだと感心して、私はさつま芋の包みを開ける勇気が出なかった。

  昭和二十一年十月一日の昼頃、山口県光駅に降り立って、戦後の新しい生活が始まった。

 

  (  「 Ⅱ-31 山口県光市 」に続く )

 

 


雨宮日記 6月24日(火曜)の3 大飯原発裁判判決の学習会でした

2014年06月24日 21時02分01秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月24日(火曜)の3 大飯原発裁判判決の学習会でした

 午後6時半から、浜岡原発永久停止裁判静岡県西部の会主催で、杉尾弁護士にきてもらって「関電大飯原発福井地裁判決学習会」を曳馬協働センターでやりました。

 さすが、杉尾先生でした。

 判決のすばらしさと、どこまでこれが普遍化できるかという、矛盾をえぐり出してくれたように思います。

 つまり、福井地裁判決の一般性と特殊性ですね。それも定められた境界があるわけではないです。これからの状況で、何が特殊になるか、何が一般的になるか、流動的ということです。

 名古屋にいるアマチュア演劇家の兄が、姪の結婚式で、「今年の夏の平演会は、大飯原発の地域の神社のことを演劇にする」と言っていたことを思い出しました。今年の夏は、則子さんと見に行きたいですね。


雨宮日記 6月24日(火曜)の2 則子さんは川へ洗濯に‥‥ぼくは山へ芝刈りに‥‥

2014年06月24日 20時54分03秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月24日(火曜)の2 則子さんは川へ洗濯に‥‥ぼくは山へ芝刈りに‥‥

 則子さんは早番から午後3時過ぎに帰ってきて、今日は、静岡市で「原水爆禁止静岡県平和行進実行委員会」があるので、出かけました。ぼくも、曳馬協働センターで浜岡原発裁判西部の会の大飯裁判判決学習会があるので、でかける準備をしていたら、、NGさんから電話がきて「会場から。すぐ使用料を払ってもらわないと、と連絡が来たので、雨宮さん、会場から一番近いので、行ってくれる?」と言うので「わかりました。会場に車で5分くらいで行けるから、今からすぐ行きます」と、慌てて、出かけました。

 会場で450円の使用料を払い、しばらく会場に入れるまで30分くらい待ちました。

 


雨宮日記 6月24日(火曜)の1 結婚式の写真(ファイル)を整理して、渡せるようにしました

2014年06月24日 20時41分19秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月24日(火曜)の1 結婚式の写真(ファイル)を整理して、渡せるようにしました

 日曜日、名古屋での姪の結婚式の写真ファイルをパソコン上で整理して、妹夫婦にUSBメモリーで渡せるようにしました。

 500枚以上撮影したのですが、ピンぼけやいい顔に写っていないもの100枚くらいを整理して400枚にしました。

 これ以上は、妹夫妻や姪夫妻に選んでもらいます。

 ほかに撮っていた何人かとは違う位置・角度から撮影できたように思います。花嫁の美しいクローズアップも少し撮れました(と、勝手に自己判断)。

 気にいてもらえるかどうかは、別問題です。

   ☆

 名古屋からバスで浜松に帰った若い男性(親族?有人?)は「600枚撮った」と言ってましたから、まあいい勝負でしょう。

 式場で、飛び回って撮っているボクを則子さんと次女が「撮りすぎ」「変人」「奇人」と相づちを打ってましたが、「常人」「ノーマル」な人生など、ぼくではありません。

 

 

 


雨宮日記 6月23日(月) 沖縄戦「公式終戦」の日、いろいろ感慨があります

2014年06月23日 22時10分25秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月23日(月) 沖縄戦「公式終戦」の日、いろいろ感慨があります

 1945年6月23日で沖縄戦が終わったわけではないし、ある意味、今も、沖縄戦の遺産である「沖縄米軍基地」は現存しています。この沖縄県の米軍基地と、沖縄県以外の米軍基地がすべて無くなった時、初めて、日本の戦争は終わるのだと思います。

 だから、まだ。あの戦争は、米軍基地として継続しています。

 ぼくは、1971年から1972年の沖縄闘争の渦中にあって、沖縄現代史と沖縄古代史を読んで、沖縄に魅せられました。それで、浜松に帰ってきてから知り合った則子さんとの1979年2月の結婚式のあとの新婚旅行は、沖縄に行きました。

 なんと、新婚旅行というのに、米軍基地と古代のグスクをめぐる、何の甘さも、新婚性もない旅でしたね。

 もし1970年代後半、浜松へ帰ったときに、則子さんと知り合わなかったら、たぶん、自分の家の本屋仕事は止めて、アルバイトでお金をためて、大好きな沖縄に移住していたと思います。

 でも、則子姫さまと、あの日、あの時、出逢ってしまったので、歴史的な道筋は、大きく変更されてしまい、そのあとの、2人の豊かな未来が創造されたわけです。2人のすてきな娘も含めて。

 あの、ぼくの歴史の分岐点で、なぜ、則子さんが現われたのか、今も、ぼくにとっては謎です。

 上田耕一郎さんが「歴史の神様は、私みたいに、前髪しかなくて、後ろ髪はないから、自分の目の前に現われた瞬間に、前髪をつかまないと」と

言ってました。ぼくは則子さんの前髪をつかまえたのでしょうか?

 

 


雨宮家の歴史 30 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第2部 在鮮記 1-29 回帰点、あとがき」

2014年06月23日 20時11分10秒 | 雨宮日誌

雨宮家の歴史 30 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第2部 在鮮記 1-29 回帰点、あとがき」

  I研究部長が内地に既に帰っていることは、釜山埠頭勤務中の二十一年一月頃、家からの手紙で知り安心したが、どうしてそんなに早く北鮮から帰れたのだろうという疑問はあった。その後、安養勤務隊で作業中に、私を知ったと連絡してきた岐陽工場の竹森氏と、京城の東本願寺であった彼の話と手紙により、部長の大体の動静が分かった(「27 安養勤務隊」)。

  「I氏は研究部長として、製品の分析あるいは優秀なる工員の育成に鋭意努力され、殊に六月以降はマグネ工場の一部に秘密工場を作られて、軍の作戦に寄与すべく着々準備中のところ、八月十五日の停戦となり、遂に身の危険を感ぜられ、翌十六日平壌より出発帰国されました。治安署(もと警察署のこと)においては部長を捜索されましたが、帰国後なりしため、八月二十九日夜、秘密工場建設に関与せし倉庫課のS氏を船橋里(せんきようり)治安署に留置し、峻烈なる取り調べをなしたる後、十月二十日までに無罪釈放いたしました」(原文)

  秘密工場といっても、完成したわけでもなく、塩素酸加里(爆弾の原料)を製造する装置を作るようであった。それに関与したS氏は二俣の人で、I研究部長よりの話で入社した関係より、とばっちりを食った訳であった。もし私に召集令状が来なければ、無論私がその第一人者となったであろうことは疑いない。建国妨害罪で逮捕される運命にあったことは明白であった。私が召集令状を受けたとき身の不運を嘆いたが、戦後正反対にその幸運を感謝したのはこのためである。工場の上層部は既に敗戦を予知して、社長・専務とも工場より京城本社へ引き揚げていた。

  私の入隊中、東京支社より留守宅に給料などを送って来ていたが、敗戦後は、現地の情勢を頻繁に書面で送ってくれた。その中に、I部長の帰国挨拶がある。 

  「(一部略)小生儀去ル八月二十一日終戦直後二於ケル岐陽工場ノ情況ヲ東京支社ヘ報告スルタメ出張ヲ命ジラレ、八月二十二日朝岐陽ヲ出発仕リ九月十二日漸ク東京ヘ帰着仕リ候次第ニ御座候(以下略)」

  朝鮮半島を縦貫している京義線が不通になったのは八月二十五日であるから、部長としては間一髪の脱出であった。それにしてもあの戦後の混乱期に、東京まで二十日余りで着けたということは驚くべき早さであった。部長は、君の洋傘を持って来たと言っていたが、杖か用心棒代わりにしたのであろう。竹森氏の言う八月十六日と部長の言う二十二日の違いは詮索しない。

  竹森氏は、中辻防衛課長と共に、十一月十九日自動車で平壌のゲ・ペ・ウ(編注①)本部に連行され、二十二日平壌部隊の野営演習場があった三合里(さんごうり)捕虜収容所へ入れられた。ここはソ連軍により武装解除された平壌周辺の日本兵が収容された所で、三千名の収容能力の所に、約三万四千名も入れられ、馬小屋やテント生活を強いられた。 

  ここから国共を超えた延吉やシベリアへ送られた。収容所は逃亡を防ぐため鉄条網を張りめぐらし、警戒が厳重だったが,竹森氏は成功した。朝鮮服に身をやつし,朝鮮語をしゃべれたからであろう。 

  ソ連軍は日本兵だけでなく、兵籍のない十八歳から四十五歳までの日本人男子を集めて延吉へ送った。その真意は不明であるが、十二月三十一日にソ連送りになる者以外の、北鮮関係者九百六十名、満州関係者五百名を釈放した。岐陽工場の関係者も含まれていた。厳寒期に金もなく、着のみ着のままであった。歩いたり汽車を乗り継いだりして岐陽まで帰った。引き揚げたのは二十三年である。

  藤原ていは『流れる星は生きている』の中で、延吉帰りの三名の男の実情を次のように書いている。

  「そこには見るも無惨な三人の男が雪の中をはっていた。三人は墓場から出てきた人の姿であった。どう見ても死人に近かった。耳は聞こえない、口はきけない、足は立たない。うつろな目だが、自身の身内をさがしてそれに焦点を合わせようとして、むなしくがくりと頭をたれる。着ている服の上のぼろぼろの軍隊毛布を三人ともしっかりと握っていた。土間にひきずり込んだらそこでたおれてしまった。」

  新町に引越したあと、私は東京支社ヘ帰国報告のため、上京した、I部長とは、その前に広沢の宗源院近くの自宅に伺って会っていた。会社は軍需工場だったから清算会社(会社を整理解散する)に指定され、日本橋のビルの二階の一室に居候していた。会社の寮に一泊して帰った。

  朝鮮より帰って来た年の二十一年元旦に、今上天皇は神格化を否定して人間天皇を宣言していた。五月三日には、東条元首相以下の戦争犯罪人の「極東軍事裁判」が始まった。

  私の記憶に残る幼い時の「真っ黒なかたまり」(「はじめに(記憶)」参照)は、ここにやっと取りはらわれて、暗い昭和は終わり、明るい昭和の後半が始まる。平和に戻った回帰点であった。

(編注①)「ゲ・ペ・ウ」 ソ連の国歌政治保安局の略称。裁判なしで逮捕・処刑する秘密警察。

 

 Ⅰ 戦前編 あとがき

 自分史とはいえ、祖父・父・私の三代に亘る、明治・大正・昭和前半までの中谷家の歴史を、二年間断片的に書き継いで来たが、それを一つの物語として纏めてみた。

 先生の言われる首尾一貫した信条が、果たして書かれているかどうか心配である。読む人に伝わってくれれば幸いであるが、甚だ心許ない。文章理解のため、歴史・地理的説明を多く使ったがご了承願いたい。

 平成十四年【2002年】十二月三十一日、大晦日恒例のベートーベンの「第九交響楽」の歓喜の合唱を聴きながら、筆を措く。

   (  「Ⅱ 戦後編 第4部山口県光市 Ⅱ-30 朝日延慶 」に続く )

 

 

 

 

 

 

 


雨宮家の物(雨宮家に置いてある物も含む) 31 放射線測定器

2014年06月23日 20時05分17秒 | 雨宮日誌

雨宮家の物(雨宮家に置いてある物も含む) 31 放射線測定器

 堀場という日本メーカーの放射線測定器。正確には団体のものですが、代表であるボクの家においてあります。

 今夜、2階の2人の部屋での値は、0.045マイクロシーベルト/秒。

 2年前と比べて減っているのか、ブログを見直して報告します。


雨宮家の物 30 なるたけ出かける時は持ち物を軽くしたいときは小さいリュックで

2014年06月23日 20時01分57秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 30 なるたけ出かける時は持ち物を軽くしたいときは小さいリュックで

 昨日の姪の結婚式も、このリュックで行きました。できるだけ軽い荷物にするには、容量の小さい袋にすればいいだけ、という「研究」??の

成果です。これに入るだけの物に限ればいいということです。


雨宮日記 6月23日(月)の1 浜岡原発原告募集のカラーチラシができました

2014年06月23日 19時23分52秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月23日(月)の1 浜岡原発原告募集のカラーチラシができましたこの

 浜岡裁判の会で作った原告募集の新しいカラーチラシです。

 Sさんにお願いして、ぼくとオーさんも意見を言うだけ参加して、Sさんがあのワード「なんか」で作って、完全原稿にしてネットでファイルを送って印刷してもらいます。

 2万枚(もちろんきちんとした紙)カラー印刷して、2万4千円弱です。

 このちらしは8次だけでなく、9次・10次にも使えるよう。「何次」の限定をつけていません。

 欲しい方は、必要枚数、10枚とか50枚とか枚数を指定してくだされば、ぜひ無料でお使いください。

 もちろんカンパをしていただければ、なおありがたいです。