雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 6月16日(月)午後 シジュウカラが近くで鳴いています

2014年06月16日 15時49分29秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月16日(月)午後 シジュウカラが近くで鳴いています

 小さな野鳥「四十雀」シジュウカラが、つつぴー、つつぴーと囀っています。割合、都市にもよくいるのですが、雀ほどには人の近くに来ないので、あまり目につきません。

 写真は別の時に、わが家の目の前の住宅の門に、つるさがっていたシジュウカラです。

 

 


雨宮日記 6月15日(日)の3 支部長とポスター貼りに行きました

2014年06月15日 19時54分48秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月15日(日)の3 支部長とポスター貼りに行きました

 共産党上島支部の支部長と、地方選の候補者ポスターを貼りに行きました。

 最初、午後に「行こうか」というおと「まだ暑いからいや」と言うので、夕食のあと、午後5時半からでかけました。

 ポスターの裏に、写真のように両面テープを貼ってからでかけました。

 


雨宮家の歴史 26 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-24 敗戦」

2014年06月15日 19時46分39秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 26 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-24 敗戦」

  幹候教育の始まりの遅いのを訝(いぶか)っているうちに、戦局がおかしくなってきた。班内に誰かが買ってきた「京城日報」が貼ってあった。広島が一発の爆弾で壊滅したというし、長崎も同じようにやられた。

  そして、ソ連軍が満州に攻め込んできた。且ての強力な関東軍は南方に抽出されて、残っていたのは根こそぎ動員された老兵と、開拓団の女・子供たちであった。ソ連軍は南をめざして

   進軍してきた。今まで南方よりのアメリカ軍を迎撃するためだった私たちの部隊も,北上してソ連軍を迎え撃つという噂が流れて、全員足止めを食っていた。そして、天皇の放送という事態となった。

  昭和二十年八月十五日。その日は、朝鮮でも暑い日であった。私は医務室で何か仕事をしていて、運動場への集合に遅れ、慌ててとんでいったので、戦闘帽を忘れてしまった。カンカン照りの中で頭を灼かれてじりじりした。天皇の放送はソ連への宣戦布告かと予想していたが、初めて聞く天皇の声は、雑音が入っていて意味がはっきりしなかったが、戦争の終結を告げているようであった。瞬間、私の頭の中を南方のジャングルの暗がりが横切った。捕虜になって連れてゆかれ、使役されねばなるまいと思った。しかしこれで、私たちを雁字搦(がんじがら)めにしばりつけていた天皇とも縁が切れて、やっと「真っ黒なかたまり」を抜け出し、明るい世の中が来る気がした。

  天皇のラジオ放送は終わり、口をへの字に曲げた渋面の大隊副官の解散命令で、各自、持ち場へ戻った。午後、将校・下士官たち幹部は連隊本部へ出向し、私たち衛生兵は医務室で、昼食の後かたづけもそのままに、喧々諤々(けんけんがくがく)の論争が果てしなく、夕食の「飯上(めしあ)げ」の炊事兵の声が響くまで続いた。

  この日、故郷の浜松では空襲でラジオも焼いてしまったので、疎開先で天皇の放送は聞けなかったようである。父の日記によると、「正午、重大発表ありとの事なりしも聞かず。午後三時、恐れ多くも陛下休戦(無条件降伏)につき詔勅ありし由にて、我が領土も、本州・北海道・九州・四国の維新前の領地に戻る由。ああ。菊男(次男・浜松工高生)涙を垂れたり、夕食後、笠井の梨園へ約束により買いに行きしも、無条件降伏の様子が判明せざるまでは売らぬと。夜警戒警報一」

  戦後の混乱は、すぐ始まったようである。

  部隊は二、三日して地境小学校より最初に駐留した連隊本部のある裡里に移ることになった。その前夜、酒がふるまわれたが、飯盒(はんごう)の蓋一杯では不満気な兵隊も多かった。軍隊手帳の焼却命令も出て、あとになってから、しまったと思った。手帳には入隊・転属・昇給などの履歴が書き込まれているから、貴重な資料であった。

  兵隊たちは外出を禁止されたので、営外の様子はわからなかったが、噂では、その日の午後にはもう朝鮮系の家には、日の丸を半分塗りつぶしたような旗が揚がったという。後になって知ったが韓国の国旗であった。H班長は、出入りしていた懇意な朝鮮系の家で「アメリカ軍が上陸してきたら、これを振って迎えるのだ」と言って、星条旗と韓国の国旗を見せられたという。既に日本の敗北は衆知のことであった。朝鮮総督府も八月十日に、ポツダム宣言の受諾を知っていた。

  裡里では高等女学校へ駐留したが、まだ生徒はいなかった。朝鮮系の初年兵は北鮮出身者が多かったので、除隊となるとすぐ帰っていった。南北の鉄道は八月二十五日までは通じていた。私が入隊する前夜、一緒に旅館で食事した同郷のN氏は、私のあと召集されて済州島に送られたが、妻子が平壌に残っているので、北へ帰る朝鮮兵と共に、機関車にへばりついて三十八度線を越えた。彼が引き揚げたのは、妻子とは別になり、昭和二十三年であった。

  直属第百六十師団長は、八月二十日ラジオ放送で次のような布告を出した。
  「一、宗主権を委譲せらるるまでは、朝鮮は皇土にして、朝鮮人民は皇民なり。よろしく旨を奉載し、皇国臣民の誓を奉唱し、平静時に従うべし。
 一、独立運動は、一切これを認めず、韓国国旗の掲揚は厳禁す。」
 頭の固い職業軍人は、このような時になっても、まだ皇国臣民の誓なるものを持ち出して、民情や世界の情勢なるものを全く理解することが出来なかった。

  八月末、私は形式上除隊となり「特別警察隊」なるものへ編入させられた。アメリカ軍の朝鮮への進駐が遅れていたので,朝鮮軍は在朝邦人保護のため、九千名の日本兵を以て警察官の代わりとした。敗戦後、南鮮の警察官二万人のうち、朝鮮系の八千人と日系の殆どが、身の危険を感じて逃亡してしまったためである。除隊といっても階級章を付け、軍服に帯剣、執銃姿であるから兵隊に変わりはなく除隊した気にはなれなかった。二大隊本部からは、私以下四名が参加した。

  最初に行った所は、三十八度線に近い江原道の春川(しゆんせん)であった。朝鮮では珍しい京城からの私鉄電車であった。高原地帯で、赤や青い色の屋根が点在する避暑地であった。しかし、八月も末になるともう秋風は冷たく冬支度であっった。大豆飯と、駐留した小学校の板敷きの床の冷たさのために腹をこわして、自分の飯盒でおかゆを作った。春川は道庁所在地で、道立病院があったので、薬を調合して貰った。変な所で衛生兵だったことが役立った。

   町の風呂屋へ行ったとき、思いがけない人に出会った。平壌で衛生兵教育中に班付きだった部隊のラッパ手小西一等兵である。伍長になっていた。奇遇におどろいたが、彼には裡里に帰る時また厄介になった。

  ある日、ソ連兵を満載したトラックが春川の町に入って来た。彼等は坊主頭で囚人兵だったようである。略奪した腕時計を両腕にいくつも巻きつけていた。北鮮や満州で乱暴を働いたのは彼等であるが、ここは三十八度線の南だと説明すると、温和しく引き返していった。

  春川には一週間ぐらいいただろうか。京城との電車も止るという前日の最終電車で、私たちは引き揚げるという日本人と一緒に京城へ戻った

  電車に乗る時、浜松へ帰る人を見つけた。上着の胸に、引き揚げ先を書いた布片を縫いつけてあったからである。私は手帳の一片に走り書きしたメモを渡して、帰ったら送って下さいと頼んだ。家が空襲で焼けたことは知らなかったから。書いた住所は焼け跡であった。

  「九月八日。春川駅にて同郷人に会ひ、手紙を託します。当分特殊任務にて帰れません。平壌へも中々難しいようです。皆様如何ですか。元気にやって下さい 浜名郡長上村天王新田 中村勉次郎様方 勝又静雄様」
  このメモは、十一月初めごろ、焼跡の整地などに父や弟が疎開先から出向いていたので、近所に既にバラックを建てていた建具屋が預かっていてくれて、父の手に無事渡った。

   (  「1-25 特別警備隊」に続く )

 


雨宮日記 6月15日(日)の2 次女のアイさんから「チケット忘れた。浜松駅へ持って来て」とSOSが来て

2014年06月15日 19時40分38秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月15日(日)の2 次女のアイさんから「チケット忘れた。浜松駅へ持って来て」とSOSが来て

 午後3時ごろ、次女のアイさんから電話がありました。あれ、名古屋へ歌手のコンサートを聴きにいったはずと思ったら「チケット。部屋に忘れたんで浜天津駅へ持って来て:というので、「いま、どこ・」と聞くと「ま弁天島駅、浜松駅へ戻るから:と。

 必死で探して。なんとか見つけて車で浜松駅へ向かい、渡せました。間に合ったのでしょうね。


雨宮家の物 29 昔使っていた「手書き機関紙」用の台紙

2014年06月15日 19時34分30秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 29 昔使っていた「手書き機関紙」用の台紙

 こういう「物」を追っていくと、自分が生きてきた、具体的な、確個とした歴史を思い出してきます。

 これは大阪機関紙センターというところが手書きのニュースなどを出すための台紙です。

 これを使って、実際に自分が浜松市平和委員会機関紙「青い地球」を書いていたのは、、1980年代ですね。その後、パソコン編集に移行してしまったのですが、手書きですから、最初にきちんとレイアウトをして、字数を決めて書かないといけません。

 今、紙面を見直してみても、手書きの頃の紙面が、いちばんきちんとしているように思います。パソコン時代になると。後で修正できるので、、いい加減になってくるようです。

 


雨宮家の物 28 神社の方向測定用のコンパス

2014年06月15日 19時30分39秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 28 神社の方向測定用のコンパス

 「雨宮家の物 3」で天体用コンパスの転用した物を紹介しましたが、これは上島の理科器機ショップ「小西商店」で買ったコンパス。

 天体用コンパスと両方で測り、ダブルチェックに使っています。両者で、ほぼ同じ値が出ればOKということです。

 


浜松の仏像・銅像・モニュメント 7 なんと、メタボの「弥勒」さま

2014年06月15日 18時59分13秒 | あるはま(歩く浜松)

浜松の仏像・銅像・モニュメント 7 なんと、メタボの「弥勒」さま

 入野の龍雲寺の道路向かいにあった白い神さま。

 遠くから見て、「これは。大黒さまか、布袋さまかなあ:」と思って近付いたら‥

 なんと、弥勒さまでした。

 やっぱり弥勒菩薩と言ったら、細身でないと。

 確かに、萩尾望都さんの『百億の昼と千億の夜』のラストに出てくる弥勒は、ちょっと中年太り、、46億年も何もせずに待ち続けるんだからメタボになるのもしょうがないけど。

 こんな弥勒は、やですね。

 やはり、ぼくは萩尾望都さんの『百億の昼と千億の夜』の阿修羅や則子さんのような、細身の活発な女性にうっとりします。あれ、阿修羅は女性か?

 ちなみに沖縄で言われる「「みるく世」とは、牛乳のことではなく、弥勒の出現する平和な未来のことです。

  

 

 

 


雨宮日記 6月15日(日)の1 日曜日は日刊「しんぶん赤旗」の配達をするので眠いです

2014年06月15日 18時27分21秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月15日(日)の1 日曜日は日刊「しんぶん赤旗」の配達をするので眠いです

 今朝は、午前1時版に家を車で出ました。「朝じゃなくて、夜だろ」と突っ込みが入る場面ですね。

 自分の居住支部の地域を車でほぼ1時間ちょっと。午前3時10分には家に戻りました。

 以前は「午前5時から7時まで」っって言ってましたが、今はどうなんだろう。少なくとも、普通の商業新聞は午前2時頃から配達してますからね。もちろん、仕事じゃありません。ガソリン代くらいしか出ません。革新的政治を実現するための「ボランティア」活動です。

 ちなみに日刊「しんぶん赤旗」は毎日配達して、月3497円です。ヨメは言いませんが、読む価値は十分にあります。、

 購読申し込みは、、私か、各地区委員会やおちかくの当院へどうぞ。


雨宮家の歴史 25 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-23 南鮮へ 」

2014年06月14日 19時55分24秒 | 雨宮日誌

 雨宮家の歴史 25 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-23 南鮮へ 」

  朝の体操、雪降る夕べの軍歌演習に仰ぎ見た瑞気山(ずいきさん)(営庭の東側にある小高い丘)とも、いよいよお別れの日が近づいて来た。七十七連隊歌にも歌われていたが、歌自体記憶にない。朝鮮の初年兵がたどたどしい日本語で軍歌演習をさせられていたが、彼等が武田麟太郎氏のいうように、逃亡するのも無理ならぬところであった。志願兵はともかく、前年入隊した日本語の分かる学徒入隊者でも、八路軍と対峙している山西省や河北省の第一線で、中共地区へ逃亡していたのである。

  軍人勅諭で、「我国ノ軍隊ハ世々天皇ノ統率シ給フ所ニソアル」と、陸海軍の軍人は一兵卒に至るまで天皇に直属していた。国民のためではなく、天皇のために我が国の軍隊は存在していた。「朕ハ汝等軍人ノ大元帥ナルソ」といい、更に「上官ノ命ヲ承ルコト実ハ直(ただち)ニ朕カ命ヲ承ル義ナリト心得ヨ」と、日本の軍隊は「天皇の軍隊」であった。

  出動も近づいたある夜、点呼のあと武道場に寝泊まりしていた二大隊の兵士全員は、そのままその場に待機させられた。やがて、中央の板敷きの床に一人の朝鮮籍の初年兵が素裸で立たされた。逃亡したが捕らえられて、中隊に戻されたのである。彼の中隊の人事係の准尉が、革のむちを持って相対した。むちは彼の身体に巻きつき、床に転がった。皮のさく衣(○○○)が彼の身体に巻かれた。 

   「起て」
  准尉の怒声に、ふらふらと立ち上がった彼に、容赦なくむちの嵐が飛んだ。床に倒れた彼に、冷たい水がバケツからぶっかけられた。

  野間宏の『真空地帯』に、同じような場面があるので記す。
 「看守の命令に従わなかったという理由で、皮のさく衣(○○○)を胸にはめられ、水をぶっかけられた。皮のさく衣(○○○)は水をかけるごとに引きしまり、彼の肩と胸は内へ強くしめつけられ、彼は一分ごとにうめき、わめかなければ呼吸ができなかった。彼の口は、よだれと砂でべたべたによごれ、彼のだらんとした身体は冷たい泥土の上にほうっておかれた。そして彼は気を失った。」

  野間宏は、在隊中に治安維持法違反で逮捕されて、大阪陸軍刑務所に入所したから、その時の経験と思われるが、当時、刑務所では日常茶飯事の懲罰方法であったと思われる。

  戦争が終わって、もうそんなものは姿を消したと思っていたところ、今回(平成十四年十一月)名古屋刑務所で、同様の懲罰方法が行われて一人が死亡、一人が小腸を四十センチ切り取る手術を受けるほどの内出血を起こしたという。刑務官五人が逮捕起訴されたが、戦後も六十年近くなるというのに、天皇制下の悪習がまだ残っていたことには驚いた。加害者が直接手を下さず、外傷も残らないので闇から闇へ消し去ることが可能だったからである。

  倒れた朝鮮兵の最後は不明であるが、「天皇の軍隊」の陰惨な裏舞台を見せつけられた思いであった。

  部隊の編成も終わり、五月末のある夕べ、ラッパ隊吹奏の先導のもと、南鮮へ向かって四十四部隊の営門をあとにした。平壌には再び戻ることはなかった。無論、岐陽工場へもである。

  最初の駐屯地は、全羅北道裡里(りり)邑(町)であった。京城から南下し、大田で分岐して西南岸の木浦(もつぽ)に至る湖南線の要衝で、麗水線、郡山線が接続していた。

  この地は朝鮮一の沃野である全北平野の中心地で、穀倉地帯であり、郡山はその米の輸出港であった。農場経営の先駆は既に明治三十六年に始まり、米屋や地主が進出し、日本人所有農地の三割をこの地で占めていた。居留民も二百人を超え、朝鮮人よりも多かった。

  日本人が朝鮮で地主になったのは、土地を買ったのではなくて、土地を担保に金を貸し付けて、抵当流れにして土地を取ったのである。それは、明治四十一年に設立された国策会社、東洋拓殖株式会社(略して東拓)も同様であった。裡里にも東拓の支店があった。随所に○○農場なる看板を見かけたが、それらの土地は、地主となった日本人が平均して五,六割高い小作料を朝鮮人より取っていた。朝鮮人は、自分の作ったおいしい米を日本へ輸出し、不味い外米か粟などを食べていた。土地を失った農民は、小作人になるか、鴨緑江北岸の間島地区の流民となるか、玄界灘を渡って在日朝鮮人になるしかなかった。一見、空襲もなくのどかな全北平野も、実情は深いところに苦難の根を持っていた。

  師団司令部が裡里農林学校に、私たちの連隊本部と第一大隊本部が裡里工業学校に、第二大隊本部が裡里小学校にそれぞれ駐屯した。四六四連隊が最後尾で、四六一から四六三は郡山方面の海岸線に散った。

  裡里から湖南線で四駅南の井邑(せいゆう)護朝部隊の百五十師団司令部があった。百五十師団は西南岸の木浦まで全羅南道一帯に展開していた。

  その師団軍医部に若い日の松本清張が衛生上等兵として勤務していた。上等兵ともなれば、内務班では神様であるが、軍医部では兵隊はもう一人の一等兵のみで、あとは軍医部長以下将校、下士官なので相変わらず初年兵と同じように飯炊き・食器洗い・洗濯などの雑用に使役されていた。如何にも清張らしいが、時間をさいて京城の本屋で手に入れた英語の教科書を勉強していたという(『半生の訳』)。

  ちょうど雨季に入り、田植えの人手不足の勤労奉仕で、一日全員出動した。衛生兵は赤十字印のついた鞄をもって待機していたが。けが人は出なかった。

  六月末に、第二大隊は裡里と郡山の中間の地境里(村)へ移動した。小学校に駐留したが、周りは見渡す限りの田んぼであった。生徒たちはどこへ行ってしまったのだろう。ときどき、近くの女教師の家へ、衛生兵が揃って風呂を借りに行った。五右衛門風呂であった。

  第二大隊には軍医が二人いた。外科の長尾中尉はバリバリ張り切っていたが、戦闘が始まらねば用がなかった。内科の源馬少尉は、温厚篤実な町医者という感じであった。召集されたのであろう。少し齢をとっていた。二人とも慈恵医専の出身だった。

  食事が出来ると「検食」として一食分、医務室へ運ばれて来る。軍医の検査を受けるためである。形式に過ぎなかったが、長尾軍医はいつも「おいっ、中谷食え」とチラッと見るだけである。私たち急造衛生兵は、おすそ別けに預かる訳であるが、毒味役であるから最悪の場合も考えねばならなかった。

  医務室は、畳の室があったから、宿直室だったかと思うが、校舎とは運動場を間に離れて独立していた。診断に週番上等兵に連れられて来る兵は、大隊行李要員の第二国民兵の四十歳代が主で、腰が痛いとか脚が痛いという老人病が多かった。長尾軍医の指示で、カンボリジンという神経痛のくすりを皮下注射してやるが、された兵は迷惑だったと思う。衛生兵教育で一度も注射などしたことはなかったからである。

  部隊の編成が外地の平壌だった関係から、内地の郷土部隊とは違い、全国から集まってきた兵士で構成されていた。衛生兵仲間で「外人部隊」とうわさしていた。師団長や部隊長など幹部は東北、第二大隊の幹部と兵は岡山、大隊行李の輜重兵は鳥取(主に第二国民兵)、私たちのような朝鮮での召集兵、朝鮮の志願兵、徴兵された初年兵と雑多であった。

  ある日、私は大隊副官に呼ばれた。副官は大隊本部の中隊長役であり、彼は幹候(幹部候補生)の中尉で、岡山の女学校の先生だったという。「連隊で幹候の試験があるから、受験せよ」ということだった。私は衛生兵の方がのんきだったし、所詮下級将校は消耗品に過ぎなかったので、受験する気はなかったが、半ば強制的に受験させられてしまった。

  合格発表を見て驚いた。筆記試験の軍人勅諭など殆ど白紙だったのに、序列が三分の一ぐらいのところで合格していた。私みたいな輩(やから)が指揮官になっては、日本もいよいよおしまいだなと思った。陸軍二等衛生兵が陸軍兵科幹部候補生(二階級上がって上等兵待遇)となった。上等兵の襟章は隣に寝ている上等兵が譲ってくれた。幹候の襟章は売っている店もないので、諦めた。集合教育は、原隊の平壌第四十四部隊で行われる予定とのことで、それまでの間、今まで通り医務室勤務となった。木村衛生准尉(昇進していた)が「中谷少尉殿」とおどけて敬礼をするのには困惑した。

  平壌で部隊編成中に、物資収集の名目でたびたび公用腕章を出してくれた木村准尉殿が、今度も私に紅葉外出を命じた。中途半端な立場で准尉殿も困ったのではと思う。「医務室日報」を連隊本部医務室に届ける仕事であった。「医務室日報」は、医務室で軍医が診察した傷病兵の数・病名・薬の種類・練兵休(訓練・勤務に就けず班内で休む兵)、入室者(入院するほどではなく、医務室内で休んで経過を見る)などを記録した文書である。連隊本部は、裡里工業学校にあった。幹候試験はここで行われたが、その時、川崎軍旗少尉が連隊長と共に、六月七日宮中で授与された軍旗を見せて貰ったが、結局、軍旗祭も行われないうちに戦争が終わってしまったから、軍旗も焼却されてしまったのであろう。

  連隊本部のある裡里工業学校へは、郡山線で通った。地境より三十分ぐらいかかり、駅より更に学校まで三十分歩く。毎日同じ汽車に乗る女学生がいた。彼女は、部隊の駐留している小学校に隣接している××農場の門から出て来たから、農場の娘だったかと思うが、防空頭巾を背負い、紺絣のモンペ姿(編注②)にズックの学校靴を履いていた。動員されていたのだろうが、顔立ちは千葉早智子に似ていた。千葉早智子といっても,彼女を知っているのは昔の美青年たちだけで、東宝かP・C・Lの女優だった。成瀬巳喜男監督の「妻よばらのようにの主演女優である。

  連隊本部へ通った時のことは、長くなるので番外編でまとめることにする。

  (次回、「Ⅰ-24 敗戦」へ続く )

 

 

 


雨宮日記 6月14日(土)の6 地方選のポスターを自宅に貼りました

2014年06月14日 19時50分09秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月14日(土)の6 地方選のポスターを自宅に貼りました

 来年のいっせい地方選のポスターを貼りました。わが家は中区ですので、、共産党で県議に立法補する新人・平賀高成候補と、共産党現職で市議に立候補する小黒啓子市議の2枚のポスターです。

 


雨宮日記 6月14日(土)の5 放射能の学習会第1回

2014年06月14日 19時49分58秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月14日(土)の5 放射能の学習会第1回

 午後。今年も原発の連続学習会をやります。今年は『静岡発!未来は私たちの手で』(500円、A4班、42ページ)を使って、善4章あるので、1章づつやっていきます。今日は第1章で放射線と放射能。

 まあまあ、集まったかな。

 


雨宮日記 6月14日(土)の3 明日は父の日でした。長女夫妻が寄ってくれました

2014年06月14日 19時39分59秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月14日(土)の3 明日は父の日でした。長女夫妻が寄ってくれました

 長女夫妻が、孫(長男)を抱いて、寄ってくれました。うわ、大きくなったね。もう5ヶ月です。なんだかきょとんとしているので、もう「人見知り」のはじまりだそうです。少しあやしていると、やっと笑ってくれました。

 写真は明日が「父の日」なので「お父さんに」とぼくがもらったお酒。ありがとうございます。おいしく飲みます。