雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 6月14日(土)の1 図書館に行きました

2014年06月14日 19時27分07秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月14日(土)の1 図書館に行きました

 図書館に行って、5冊返して、2冊は再び借りて、新しく3冊、計5冊借りましたあ。本の購入費はわずかなので、かなりは図書館で探して借ります。中央図書館になければ市内の図書館、、なければ圏内の図書館も探します。

 

 


雨宮家の歴史 24 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-22 入隊」

2014年06月13日 18時04分33秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 24 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-22 入隊」

  朝鮮第四十四部隊は平壌駅近くの東町にあり、平壌医学専門学校も近くにあった。この医専の教授だった坂田氏が親戚に当たり、一晩厄介になり、家庭の味を感じたことがある。孝男叔父の親戚というくらいで深くは知らなかったが、戦後に奥さんが孝男叔父の娘婿の姉であることを知った(「第二部 11孝男叔父」参照)。

  その奥さんと部長が入隊を見送ってくれた。部隊の営門通りに出て驚いた。二月に入り、寒さのピークにもかかわらず、祝入営の幟が幾流もたなびいていて、周囲は熱気に包まれていたことだ。内地では禁止されていて、見られなくなった入隊風景である。

  日本政府は昭和一七年五月八日、朝鮮籍の者に対する徴兵制実施を閣議決定した。これには朝鮮総督府は驚いた。徴兵適例者で日本語の分かる者が約三割に過ぎず、日本語のしゃべれない皇軍兵士の生まれる可能性があったからである。

  朝鮮では、既に昭和13年に志願兵制度があって、在隊していた。昭和十八年秋、学徒出陣の時、法的不備により朝鮮籍学生には適用できなかった。そのため志願による徴兵ということにしたが、笛吹けど踊らずで半強制的となった。

  昭和十九年一月の入隊日には、官民一体のお祭りさわぎで盛り上げた。それは昭和十九年四月の第一回徴兵検査や、入隊を円滑に行うためである。私が入隊日の朝、出会った風景は、これら第一回徴兵検査で合格して入隊する壮丁を見送るためのものであった。当局は派手にするることを奨励したのである。この日入隊した私たち衛生兵教育要員の三十一名のみが内地籍で、他の入隊者は全員朝鮮籍であった。

  朝鮮第四十四部隊は、歩兵第七十七連隊の留守部隊で、原隊は第三十師団に属し、師団司令部と共に連隊本部・第一大隊は、ミンダナオ島に駐留していたが、第二・第三大隊はレイテ島に派遣されて全滅した(五千三百余名のうち、生還者は二百七十名のみであった)。

  留守部隊の兵舎はペチカの煙突が見える赤煉瓦造りの大陸風の建物で、衛生兵教育者全員、近藤隊第五班に編入された。燃料不足でペチカは朝晩しか使えなかったが、室内は余り寒さを感じなかった。というより感じている閑などなかった。うわさに聞く内務班生活であったが、衛生兵全員が同じ班となり、戦友もなく、古兵殿も炊事・衛兵・ラッパ手などの勤務兵だったので、思ったほどの私的制裁はなかった。特に同時に入隊した朝鮮の初年兵たちの逃亡を防ぐために、各中隊とも中隊長命令で私的制裁を禁止したことにもある。夕刻の雪の降る営庭での彼等の軍歌演習を聞いていると、たどたどしい日本語で幼稚園児並みであった。総督府が心配したことは事実であった。

  作家の武田麟太郎は『わが懐かしき兵営生活』で次のように書いているという(カン徳相著『朝鮮人学徒出陣』)
  「驚いたことには、北鮮の涯てから来た「同胞」(朝鮮の初年兵のこと)は、ほとんどニッポン語がわからないのである。これでは訓練もできない。各中隊では、あわてて班内に「アイウエオ」を書いた紙をはり、ニッポン語の教育である。ニッポン語もろくろくにしゃべれず、毎日ビンタばかり食わされているうちに、望郷の念にかられ、妻子の顔見たさに、ぞくぞくと逃亡し始めた。脱走は無論夜である。「ベンジョ、イッテキマス」などと、不寝番をゴマかして襦袢袴下の寝巻姿のまま、ドロンであった。毎晩、どこかの中隊で非常呼集のラッパの鳴らぬ夜はなかった」

  私の転属した野戦部隊でも、南鮮へ出動前に逃亡が起きた。そのことは次章「23 南鮮へ」で書く。
  衛生兵教育は、部隊の西に隣接する平壌第二陸軍病院で行われた。病院の玄関前の芝生に座っての、軍医による講義が主であった。病院付の現役衛生兵も同席して聴いた。
  しかし教育期間中、半分は病院の防空壕掘りの使役に駆り出され、衛生兵として基礎的な注射の打ち方とか、薬剤の使用方法などの実務教育は一度もなかった。衛生兵がヨーチン(切傷などに塗る沃度丁幾(ようどちんき)のこと)といわれる所以も、むべなるかなと思った。輜重兵のことを「蝶々トンボも鳥のうち」と言われたのと同じである。

  しかし「人のいやがる軍隊へ、志願で出てくる馬鹿もいる」と嗤われる軍隊へ入って、私は却ってホッとした。奇異に感じるだろうが本当である。入隊する前の工場での生活は、生産に直接関係する仕事ではなく、寮と工場とを夜空の星を仰いで往復するのみの、五月病のような状態であった。その私を救ってくれたのは、一枚の召集令状であった。最初は身の不運を嘆いたが。しばらくするうちに起床ラッパは七時であり、工場のように五時に起きなくてもよく、最初の一週間の術科教練も、学校教練で習得済みなので苦もなく、陸軍病院での軍医の講義も芝生の上の話であり、内務班も規制はなく楽であった。

  寒い冬が過ぎて、少し温かいなと感じた夜半に、舎前の窓越しに雨の音を聞いた。明くる朝、さんさんと降りそそぐ朝日のもと、営庭の芝生は,一夜で緑色に変わっていた。大陸の春は、一晩で冬枯れの芝生を追い払っていった。

  暖かくなり、衛生兵教育も終わりに近ずいた四月末のある日、病院の満開の桜の樹の下で(北鮮は四月末に桜が満開になる)、軍医が「今日は諸君にすばらしいニュースを送る」と一呼吸おいてから「アメリカの大統領ルーズベルトが死んだ」と誇らし気に言った。私たちは軍医と共に万歳を三唱したが、大統領が死んだだけで、アメリカには何の変化もなかった。

  既に沖縄が決戦場になり、内地もB29の空襲にさらされていた。次の米軍の上陸を予想される南鮮に二ヶ師団が増設され、急増衛生兵が配属されたのである。

  私が転属したのは、第百六十師団歩兵第四百六十四連隊第二大隊本部であった。師団には四六一から四六四まで歩兵が四ヶ連隊あり、いずれも二大隊編成の小師団であった。百六十師団は通称を護鮮部隊といい、もう一つの百五十師団は護朝部隊といった。両方で朝鮮を護る意味であった。朝鮮海峡の済州島には三ヶ師団約六万名の兵士が駐留した。部隊の編成は平壌の原隊で行われ、二大隊は武道場に起居した。衛生兵は医務室に集まって、医療器具・薬品の整備に当った。

  兵隊は一銭五厘のはがきで、質はともかく数は揃うが、武器や医薬品は絶対数が不足していた。不足を補うため、四中隊の松本衛生兵と二人で、公用腕章をつけて街に出た。市電に乗って大同江東岸の船橋里(せんきようり)の試験場まで行ったが、めぼしい物はゴム管ぐらいだった。しかし、止血に使えるので先任下士官の木村曹長は大変喜んだ。ある日、街の写真館で記念にと、交替で帯剣を付けて写真を撮った。今残っている写真を見ると、若かったなと戦時中を思い出す。

  今思っても、二等兵の私たちにたびたび公用腕章を出してくれた木村衛生曹長が不思議な人だった。出動準備で忙しくてかまっておれなかったのかも知れない。私一人の時など,途中で憲兵や私服警官に呼び止められはしないかと心配したものである。朝鮮籍の逃亡兵が出ていたからである。

  ある時、ふと思い出して公衆電話で工場へ電話してみた。朝鮮の主な都市は、既に電話はダイヤル式に自動化されており、工場へも軍の配慮から、特別に平壌のダイヤル番号が一本入っていた。部長は突然のことに驚いたようだったが、次の日曜日に出張所で会うことにした。

  その日。私は親戚の坂田さんの家で部長よりの連絡を待った。部長が出張所へ着いたら電話をくれる手筈であった。ちょっと手違いがあったが、出張所で食事をしながら師弟の別れを惜しみ、部長は工場へ私は部隊へ戻った。幸い最後の別れとはならず、戦後、部長と私は浜松で再会することが出来た。

  ( 「 Ⅰ-23 南鮮へ」に続く )

 


雨宮日記 6月13日(金)の4 時には浜岡原発裁判の事務局として集中的作業をします

2014年06月13日 17時55分07秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月13日(金)の4 時には浜岡原発裁判の事務局として集中的作業をします

 浜岡原発裁判の集中的な作業をしています。第7次原告へのお礼ハガキを自分のプリンターで印刷して、宛名を書きます。ところが安いプリンターなので、149枚印刷したところで、あと61枚残して、労働拒否しました。

 もっと高価な「後ろから入れて前から出す」プリンターならいいのですが、これは前から入れて、曲げて印刷して前から出す仕組みです。

 まず浜松外の東部・中部の原告から優先することにして、96枚手書きで宛名を1人で書いて、早出郵便局のポストに出してきました。これから浜松・湖西の原告への作業です・

 以前は、ぼくが仕事をしていた時は、きれいな字を書く則子さんの分担なのですが、今は、へたなぼくの字、まあガマンしてください。


雨宮日記 6月13日(金)の3 則子さんの弟からそうめんいただきました

2014年06月13日 17時29分14秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月13日(金)の3 則子さんの弟からそうめんいただきました

 則子さんの弟が奈良県に住んでいて、いつもこの頃、、三輪そうめんを送ってくれます。

 興味深いのは、三輪そうめんの歴史的由来です。

  三輪麺小西の「手延べ麺の栞」にはこう書いてあります。「素麺製造の始まりは千二百余年前三輪の里からー崇天皇の御代に三輪の大神主であった大神朝臣狭井久佐の次男、穀主が此の地の小麦を持って粉にひき棒状に練り、更にこれを乾燥し、保存食として今日の素麺の携帯に似た物を作り上げ、広く三輪の人々にその製法を教え、先祖大物主の苧環伝説に「ちなんで、次第に糸の如く補足長く改良を加えられたものと思われます」

 


雨宮家の物 25 古い古い小さなクマのぬいぐるみ

2014年06月13日 14時20分16秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 25 古い古い小さなクマのぬいぐるみ

 古い古いと思っていたら、裏に「1991」と書いてあり「USA」製でした。

 ちょうど松城町から十軒町に引っ越した翌年のことです。

 すると、23年前、娘のどっちかに誰かがあげたものでししょうか。

 物をたどるのは自分史をたどることですね。

 


雨宮家の歴史 23  雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-21 召集」

2014年06月12日 18時05分44秒 | 雨宮日誌

雨宮家の歴史 23  雨宮智彦の父の自分史 「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-21 召集」 

  その日のことは今でも忘れられない。昭和二〇年一月二十八日、第四日曜日で休みだった。第一・第三を部長が休み、第二・第四を私が休んだが、日曜日でも現場は休日がなかったので、交替で月二回休みをとっていた。休みといっても、荒野の中に突如として現われたような工場なので、周りに家居など何もない。平南線(平壌ー鎮南浦)の岐陽駅前に、郵便局・駐在所・食堂などがちょっと集まっているにすぎなかった。鉄道線路の両側には低いリンゴの樹が連なっていた。ある休日に、そのリンゴを食べすぎて、洗面器一杯に吐いてしまったことがある。

  朝食のあと、私はふとんにもぐっていた。昼前ごろだったろうか「おーい、中谷さん、工場から電話だよ」と管理人の呼ぶ声が,ドアをノックする音と共に聞こえた。寮の電話は階下(した)にあった。私は彼の言った「召集らしい」という言葉ははっきりと覚えているが、それ以後の記憶はおぼろげである。電話は総務部からで、駐在所への召集令状の受け取り方の指示であった。渡鮮するとき、既にそのときの覚悟は決めていたが、いざそうなると私は大いにあわてた。

  駐在所には、朝鮮籍の巡査が令状の置かれた机を前に腰かけていた。令状は白色であった。二月十日、朝鮮第四十四部隊(平壌府)入隊、三ヶ月の教育召集であった。三ヶ月で教育が終われば臨時召集に切り替わるのは常態であったから、帰ることはあきらめねばならなかった。入隊後分かったが、アメリカ軍の上陸に備えて、南鮮に新設される野戦部隊の衛生兵要員の教育であった。

  朝日新聞の夕刊の「窓」という論説委員のエッセー欄があって、昭和六十三年六月十日付に「一銭五厘」と題して召集令状のことが載った。軍隊で教育係りの班長から「貴様たちの代わりは一銭五厘で来る。しかし軍馬はそうはいかん」とどなられた。葉書が一銭五厘だったのは昭和十二年四月までのことだから、この話はそれ以前のことになるが、現役入隊者への通知が葉書だから、それと混同されたのであろう。要するに「一銭五厘」は軍隊の非人間性の象徴であった。

  通常召集令状は、軍ー警察ー役所ー本人の順で渡される。私の場合は役所が抜けて警察より直接渡されたことになる。招集者の人選をするのは軍の連隊区司令部である。各府県の県庁所在地にあった。私は工場に赴任するとき、静岡連隊区にある兵籍をどうするか迷った。内地に残せば、召集の場合朝鮮海峡を渡って帰らねばならない。関釜連絡船は不定期になっていて、いつでも帰れるという保障はない。私の後輩が二人入社して赴任のため下関まで来たが、連絡船に乗られず引き返しているのである。考えた末、兵籍は平壌連隊区へ移すことにした。その代わり、いざという時、肉親に別れを告げることは不可能で、事実そうなってしまった。

  令状を受け取ったあと、研究部に行き部長に報告した。部長は「困った,困った」を連発したが、ともかく今後の対策を相談した。後輩は渡鮮出来ず、一人になってしまうショックがあったに違いない。

  入隊まで十日余りあったので余裕はあった。家へ至急電を打ち、ついでに不用な金を電報為替で送金した。いくら送ったか覚えていないが、後になって、父の八月十五日(敗戦の日)の日記に、一家の預金額が示されているのを見た。私の分として、入隊中の留守宅送金額を含めて、銀行に一、二〇〇円、郵便局に七九〇円あった。しかし、引き揚げた時、生活用として二〇〇円しか引き出せなかった。預金封鎖されていたのである。

  出発の日、壮行会が社長出席のもと、工場事務所で行われた。工場の召集第一号であったから丁重であった。私も何か答辞をしゃべった筈であるが覚えていない。社長・専務以下連名の日章旗を送られたが、戦後、ソウルで米軍に接収されてしまった。宝物だったが、最近、よく新聞紙上で日章旗の返還される記事を見るので、一日千秋の思いで待っている。

  私の衣類・寝具・書籍類は部長が自分の室に預かってくれた。万が一の僥倖を願ったが、それらは空しく北鮮の地に消えてしまった。誰かのお役に立っていればいいとも思う。

  二月八日、日の丸の小旗を振った少年工たちに送られて岐陽の地を離れ、平壌の旅館に二泊した。会社出張所が市の中心部の寿町にあり、本社は京城、支社が東京にあった。

  私は二日間、これが娑婆の見納めかと、映画を観ることにした。しかし、失望した。かって私を興奮させた「望郷」「駅馬車」「舞踏会の手帳」のごときものは一つもなく、ただドイツの戦意高揚映画だけだった。映画館内も客がまばらで寒々としていた。

  私が泊まった室は三階で、暖房のスチームも余り効かなかった。入隊前夜、部長と同郷のN氏が来て会食をした。N氏はトラックの運転手で、工場へ出張して来れば、私の部屋へ泊まってしゃべり合い、無聊を慰めていた。彼は浜松市営バスの運転手だった。私は下手くそな「白頭山節」をうなった。

  泣くな 嘆くな 必ず帰る
  桐の小箱に 錦着て
  アア 会いに来てくれ 九段坂

  私に愛情を傾けた人はいなかったので気楽であったが,気楽であったが寂しくもあった。その晩、部長は一緒に泊まった。

 


雨宮日記 6月12日(木)の9 無料ブログなので広告がついてきます

2014年06月12日 17時47分43秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月12日(木)の9 無料ブログなので広告がついてきます

 平和運動と戦争のこと「も:書いているので、今日見た方は、この戦車げーむ?の広告を見ていると思います。

 すくなくとも戦車は仏さまにに似合いませんね。仏さまたちが戦車に乗って「進めえええ」「撃ててええ」というのもイメージに合いません。


浜松の仏像・銅像・モニュメント 5 龍雲寺の石仏 その4 正門の横の石

2014年06月12日 16時56分48秒 | あるはま(歩く浜松)

浜松の仏像・銅像・モニュメント 5 龍雲寺の石仏 その4 正門の横の石

 正門の脇の円柱に6地蔵が刻まれているのは珍しいです。ぼくは初めて見ました。

 ただし、かなり欠けているので、、お顔がわからない仏さまもあります。


遠州の遺跡・寺社・地名 再訪編 蜆塚遺跡横の「山神社」

2014年06月12日 16時46分02秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 再訪編 蜆塚遺跡横の「山神社」

 「遠州の遺跡・寺社・地名」のシリーズナンバーは初訪問したところだけにつけていますので、再訪編はナンバーをつけません。

 遺跡と古墳と神社の関係では、初期に気付いた令の1つです。

遠州の遺跡・寺社3 山神社と蜆塚遺跡 2009年11月21日 16時42分10秒 | 遠州古代史

 2009年には、まだ山神社の方向が、宗源院・西来院・普済寺・曳馬城の方向を向いていることには気付いていません。