書きなぐった文章は、そのままでは他人が読んでもわからないことが多い。
読み直しても、書いた直後では書くということの余韻に引きずられて読みにくさに気づかない。
しばらく時間を置くと、妙ちくりんなところが目立つようになる。
自分ではなく他人が書いたものを読むつもりで読んでみると、おかしなところがなおよくわかる。
そのときは、頭が再稼動した後だから、メモリーがチャラになって、書いてあることが読む順に整理されながら頭に入ってくるからだろう。
整理された文章が、自分の最初に考えていたことを言い表しているかどうか、そのあたりで折り合いをつけることになる。
折り合いをつけずに、いつまでもいじっていると、考えていたこととは別の文章に化けていき、他人が書いたもののようになってしまう。
朗読のつもりで読んでみると、読まれたときの都合のようなことが表に出てきて、まことにしらじらしいものになっている。
N町で朗読される文章の多くはしらじらしいものだが、それに似てくる。
メディアの記事も、入念に推敲されると、執筆者がはじめに書こうとしたこととは、まったく別のことに読み取られてしまう。
そんなものを、私たちは毎日読まされているのか。