「父親の死んだ年に、ものごとを深く考えた」という人がいる。
それなら父親は、せめてそういう時期が来るまで生きてやらなければならないということになる。
「良い思い出を残すのは面白い父親だ」とも言っていた。
私の場合は、写真でしか父親を知らず、自分もとうとう面白い父親になりそこなった。
娘には気の毒だが、いまさらどうにもならない。
面白い父親はいなかったが、面白い叔父はいた。母の2番目の弟だった。
クルマの名を覚えること、鉛筆画、メンコ遊び、レコード鑑賞、ハーモニカ、薪の割り方、サイホンの実験、尻をドスンとついてはいけないなど、雑事万端、みなその叔父から教わった。
いちばんの思い出は蓄音器の修理である。
ゼンマイ式の手巻きの蓄音器だったが、首を傾けた犬のマークが、立派な木箱のふたの裏に描かれていた。
あるとき急に回らなくなってしまったその蓄音器を、四畳半の部屋に新聞紙を敷いた臨時工場で、切れたゼンマイを取替えて直してしまった。
レコードは、数は少なかったが、バイオリン、琴、長唄、流行歌、浪花節、漫才と、多彩なものだった。
趣味は多彩、仕事は一筋だった。
晩年は耳が不自由になり、面白い話もすらすらとは出てこなくなっていた。
やはりインプットとアウトプットのバランスがそうさせていたのだろうか。
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叔父 |
豊島 与志雄 | |