人に限らず、動物は何かのグループに属しながら生き続けます。
グループには、書き記されていてもいなくても、なにがしかの掟があります。
グループは、じっとおし留まることよりも、動きのためにできるものです。
そこに「とりまとめ」という行為がなければ、人のグループは存続しません。
鳥や魚のグループは、生存本能が働くときにだけできて、あとは多分ばらばらなのでしょう。それらのグループは存続の必要がないからです。
グループ存続のための「とりまとめ」は、あるときには大げさに言えば暴力行為に近いものにもなり得ます。
時間という強迫観念のもとに、その「とりまとめ」が行われると、飛び交っている情報や世の流れに逆らわないことだけに意識が集まって、暴力行為度が増すことになります。
「なんでもいいから、そういうことにしておこう」そうして作られた世論、そんなことが審判の名目に仕立てられ、「えっ」と思うような奇妙なことが、当然のようにグループ存続の道具立てにされます。
葛飾水元の「しばられ地蔵」さんに、まじめな顔をして手を合わせていた人を思い出しています。