河津桜は満開、花粉症をだいじにお持ちの方には、お気の毒な季節の到来です。
私は無理に名づけられたようなその症名を信じませんから、多少目がかゆくても空気のせい、ほこりのせいだと思って過ごしています。
ほこり、埃と誇り、字を並べてみると、つくりはなんとなく似ています。
へんは大違い、土と言、土はそのまま見えますが、言は文字にしないと見えません。
目に見えるほうは、役立たずで取り除かなければたまる一方、それが固まってしまえば空気の流れも止まるというものです。
言のほうは、文字にしないと見えないとうっかり書きましたが、そうでない見え方もありました。
誇りは、人の姿にも、することにも顕れます。
「誇り」を教育の根幹におけと説く人がいます。
そのとおりだと思います。
心の芯に誇りを待つことを教えられなかったヒトは、人間の姿をしていても、鬼畜のような行いをします。
うっかりであったか、ずぼらであったか、誇りを教え込まずに育ててしまった親は、不幸なことに、わが子が、人間ではなく鬼畜になってしまっていることに気付かないことが多いようです。
いったん鬼畜になってしまえば、この世で生まれ変わることには、何万分の一の成功率しか望めないでしょう。
何万分の一かの更生確率に期待するには、また何人かの犠牲を覚悟しなければなりません。
南無阿弥陀仏。