世の中につまらない出来事が多くなると、人びとは面白さを求めます。
そういう時代には、美術も面白術に傾いてくるようです。
伝統に従わないもの、びっくりするようなもの、あり得ないものが好まれます。
美しいということが、揃い整っているということと読み違えられると、人びとは、自分が美しくありたいという欲求をもっても、美しさは、感動の源泉ではなく、お追従の対象としか見られなくなります。
ゆるきゃらという奇妙な動物模型が県のカンバンになり、子どもたちはその空気の中で育ちます。
ワー、キャーと叫ぶだけが感動の瞬間であり、感動の表現はそれに集約されます。
実際に感動を得たとき、そこで感動を伝える言葉を思い浮かべることはできなくなっています。
どうしてもそれを伝えたい、あるいは向けられたマイクに何か言わなければというとき、口にのぼるのは「感動した」という、失語症のつぶやきのような、全く空虚なサウンドバイトでしかありません。
面白さを求め過ぎると、面白くも何ともないことしか言えなくなってしまうようです。