国会でむやみに人の罪を責めるのは、そこを告解の場と間違えているのかもしれません。
議員候補者には、選挙前に質問力検定試験をと、昨日書きました。
しかし、質問の場の区別もつかないような擬会人が増えるのは、その先生がたを選んだ結果ですから、やはり選び方も改めなければ片手落ちでしょう。
そこで一つの思いつき、選挙権は常識検定をしてから与えるようにすることです。
ただ権利があるから、いや権利ではなく義務だから、そんな動機だけで投票をしに行く制度では、ろくな人選びはできません。
選挙権付与年齢を2年下げて、18歳にしようなどというのは、とんでもない間違いで、むしろ逆ではないかとさえ思います。
ここでまたしかし、ということになります。
検定ということが、本当に実在の人間の能力と心情を確かめる決め手になるのでしょうか。
3~4歳から演技を仕込まれれば、質問力は記憶と演技でなんとでもなります。
演技の仕込み中に世間を知れば、常識も人並みになるでしょう。
もしそれらの検定制度ができたとしても、こんどは、お受験産業と並行して、お稽古産業が増えるだけのケーザイコーカしか得られないとすれば、何をしているのかわからなくなります。
やはり検定では所定範囲内での能力はわかっても、心情、こころねまではつかめないのです。
こころねは、文化のなかで、とろとろと育んでいくしかなさそうです。
春の海 ひねもす のたりのたりかな