人が怖がるものは、うわべの姿、あるいはうわべを見るもっと手前の「怖いもの似たサ」が多い。
この写真、土佐のブロ友の撮った写真を切り取って拝借したもの。
___やまとおのこさん、黙って拝借、お許しください。___
これが怖く見えずに可愛く見えるのは、相当のモン好きだろう。
怖く見えた人が、話してみると、実はまことにこころ優しい。
それはよくあること。
人だけではない。
財政赤字を危機信号としか見なければ、怖い怖いですくむ一方、日本の国はだんだん干からびていってしまう。
人が怖がるものは、うわべの姿、あるいはうわべを見るもっと手前の「怖いもの似たサ」が多い。
この写真、土佐のブロ友の撮った写真を切り取って拝借したもの。
___やまとおのこさん、黙って拝借、お許しください。___
これが怖く見えずに可愛く見えるのは、相当のモン好きだろう。
怖く見えた人が、話してみると、実はまことにこころ優しい。
それはよくあること。
人だけではない。
財政赤字を危機信号としか見なければ、怖い怖いですくむ一方、日本の国はだんだん干からびていってしまう。
さあどうぞと言われても、こんな看板がかかっていては。
「偽物市場/信用第一 !」
これで誘いに乗るもの好きに、どれくらいの期待を寄せているのか。
神経というか心底というか、読み取れないのがネット・コメント。
希望を感じさせるはずの日の出の風景が、空虚に見えるのはなぜか。
欄干は、人が立つために設けられているものであるのに、そこに人がいないからだ。
演者のいない舞台、演壇に誰も立っていない会議場、教師の立っていない教壇、漁船の出ていない漁場、それぞれにみな空虚だ。
宝くじで5億、買わないくじは当たりようがないからこの話は置いて、べつのゴオク。
誤憶、思い違い、思い込んでしまっていて実はそうでなかったということ。
あまり聞かない熟語なので、あるとかないとかは訊かれても知らない。
「朝」という歌がある。
http://www.youtube.com/watch?v=L46Kdg6RaJM
朝はふたたびここにあり
朝はわれらと共にあり
埋れよ眠り行けよ夢
隠れよさらば小夜嵐
諸羽うちふる鶏(くだかけ)は
咽喉(のんど)の笛を吹き鳴らし
きょうの命の戦闘(たたかい)の
よそおいせよと叫ぶかな
野に出でよ野に出でよ
稲の穂は黄にみのりたり
草鞋とく結え鎌も執れ
風に嘶く馬もやれ
これは土岐善麿の詩と思い込んでいたが、島崎藤村だった。
待って、そして見た日の出はまことに心地よい。
5億も誤憶も、どこかに飛んでしまう。
負けん気は、人間だけが持っているものではなさそうだ。
根元を舗装で固められても、じっと我慢などしていられない。
人間どもは勝手気ままだから、緑を欲しがりながら、根にはあまり気を配らない。
背丈枝張りに見合った根の張り具合がどうなりたいのか、木の気持ちなどにお構いなく押さえつけようとする。
黄色でつけた印、どういう手を考えているのか、アスファルトがだめなら今度は鉄格子か。
都は、人々の集まる大きな町で、都合は、すべてをまとめた合計のことだった。
金勘定にも「都合いくら」という言葉が使われていた。
それとは別に、ものごとの具合、あるいは事情という意味に使われ、また「都合がよい」「都合が悪い」と、日時の適否にも使われている。
相手の都合を尋ねる場合、「ご都合」と前に「ご」を付けるが、前だけでなく後にまで文字が加わると、だんだんおかしな意味に変わっていく。
「ご都合如何」「ご都合主義」となり、時のことでなく、場合あるいは立場の表現に使われると、適用品位が落ちていく。
「ご都合情報」というのもありそうだ。
この場合、知らせたいご都合と、知らせたくないご都合がある。
知らせたいご都合は、知らせるだけでなく、そう思わせたいご都合もあって、これがなかなかの曲者で、形を変えて何度も何度も知らされ、それが事実実態で抜き差しならないものであるかのように人々に思わせてしまう。
知らせたくないほうは至極単純で、Webに流されている情報も、一斉消滅させてしまう。あるいは、消滅させたことにしてしまう。
消滅させたことにした情報は、その瓦礫がどこかに残っているから、人々は瓦礫を見て消された部分と消したご都合とを想像することになる。
そうしてできた疑心暗鬼の袋詰めは、だんだん罪深いものになっていく。
ご都合は罪業にもなる。
これは「梱包ひも」であると、ていねいに用途までわかる品名が書いてある。
人間のひもは見分け難いが、こういう材料のひもは見ればすぐわかる。
むかしはわざわざ書いてなかった。
ひもは梱包以外にもあらゆるところで役に立つから、梱包ひもと名づけるのはどうかなどと言うつもりはないが、ああそう呼ぶのだったかと、初めて知ったような気になるのがおかしい。
いまは、商品として店に並べて売るために、品名をはっきり書かなければならないことになっているのか、それとも流通過程のどこかの関所で、品名を名乗らないと通れないところがあるのか、とにかく名前がついている。
品名というものは、見たことのないような品物に出会ったとき、何ものなのかを知るには、書かれていると助かる。
それ以外にどう必要なのか、考えていたら思い当たった。
仕入れから販売までの数量管理や取引上必要なのだった。
心配することはない、買う者にはどうでもよいことだったのだ。
やっと咲いた3月8日の河津桜。
三浦海岸駅前で、十何年見てきたがこれほど遅いのは初めてですと言いながら、小父さんがほっとしたような笑顔でビラを配っていた。
「これ何の花」「菜の花」
花を愛でながら歩く人の会話は、聞いていて楽しい。
見慣れたあぶら菜とは少し趣が違うと思っていたら、葉の形がまったく違っていた。
あぶら菜の葉は平らで、ここに植わっていた菜の葉は縮れている。
チリメンハクサイというのもあるそうだが、根元の様子は白菜のようには見えない。
花の観賞用に作った新種なのだろうか。
遺伝子組み換えなどというつまらぬ細工をしてなければよいのだが。
「鬢のほつれ」という唄を思い出す。
♪ 鬢のほつれは 枕のとがよ それをお前に疑られ
つとめじゃえ 苦界じゃ 許しゃんせ
http://sasakimikie.seesaa.net/article/59957527.html
仕事仲間の合図にしても
「びんほつ」などと声高に
いやな言葉は、それだけが耳に残る。
聞こえよがしに思わず発する言葉で、およそ品格が定まる。
符丁は色気をそぐもの。
くだけた調子のつもりでも、見せたがっては空気を壊す。
調子が外に出て目立てば、もはや調子ではなくなる。
ほつれは、まとまりがなくなることだが、ほつれた様は、たくまずしてそうなってこそであるのに、はじめから化け物のような髪をして、ちかごろはなぜカメラの前に立つのか。
あれは見る者を苦界に追いやる。
狼は、寝るために敷く草をでたらめに置くだろうと人間が勝手に考え、狼藉という言葉が生まれた。
置かれたものが草でなく、花になると落花狼藉。
狼藉が乱雑になった状態の表現だとすると、散りながらどこかに飛んでいってしまう桜の花びらは、どこかぴたっとこない。
風で一度に散っていく、まだ落ちる先に届いていない有様のほうが、この言葉に当てはまる。
椿の花などはむやみに落ちるから、まさに落花狼藉である。
椿の仲間のこの花が落ちても、一つだけでは狼藉に見えない。
狼藉という状態をつくる、つまり狼藉を働くには、数を必要とする。徒党を組まなければ狼藉に至らない。
講談に出てくる、武士が襲われたときの「狼藉者め」というせりふは、相手が大勢だから当てはまるので、ぱらぱらと取り囲まれたぐらいでそうつぶやけば、酔眼で二重三重に見えているところを見破られてしまう。
はじめ狼藉に及んだ者が、相手の勢いに慄くあまり、反対に相手を狼藉者呼ばわりすることもある。
自分たちで踏み潰しておいて、相手がやったことにしてそれを永く言い伝えるという非道なことも起こりうる。
何かといえば引き合いに出される事件には、そういうものが多い。
話がもともと引き合いに出すために作られているのだから、目的どおりに何度も繰り返される。
そういうのは、狼藉でなくなんと呼ぶのだろうか。
陽の差さない桜の花は薄汚く写る。
昨日も曇って寒かったので、撮るのはやめた。
この写真は一昨日3月3日ひな祭りの日のもの。
このあたりのさくら祭りは2月11日(土)~3月11日(日)なのだが、終わりの3日前ぐらいには咲き揃うだろうか。
3月11日までなのに、なぜか3月1日にも3月3日にも最終日と勘違いをして、ひとにもそれを話した。多分だいぶ来ているなと思われただろう。
間違いに気づいたのは、3月3日の夜中、ふと目がさめたときだった。
咲かないまだ咲かないと、思い続けていたせいだろうか。
固執は妄想や誤認のもとになり、つまらぬところに間違いを撒き散らす。
桜の教え、心しよう。
メモ用のサインペンの買い置きが底をついてきた。
手当たり次第にいろいろなものを使っていたが、大文字の殴り書きには、筆圧がいらずに太く書けるのがよい。
するすると書けそうなのはフィッシャーのスペースペン・アストロノートらしい。
温度、気圧、重力に無関係、水中でもOKというから使い勝手はよさそうだが値段勝手がよくない。
書くものの質とバランスがとれそうもない。
ユニ6Bあたりが手軽でよさそうか。
ステッドラーのマルス ルモグラフには8Bまであるらしい。
今朝から使い始めた STABILO-OHPen はなかなかよい。
このインクが切れるまで、まだ間があるから優柔不断をキープしておこう。