・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

止めて便利なこともある:3

2014年02月12日 | つぶやきの壺焼

止めて便利になったことをもう一つ。

今の季節には問題ないのですが、パソコンの過熱を防ごうとテーブルから少し浮かせて使っています。
夏にパソコンのまわりを触ってみると、底が熱くなっています。
そこで、厚紙を折り曲げて四隅に置き、15ミリぐらいの空隙をつくりました。

厚紙は挟んだだけなので、ときどきずれていきます。
厚紙の下に薄い板を置いて、板の上に乗ったままずれるようにしましたが、板とテーブルの摩擦が勝って、やはり動き出します。

厚紙の塊を板に固定してやり、ずれがどうやらおさまりました。
固定といっても、小幅のマスキングテープでぺたっと着けただけなのですが、このテープ、剥がしたければ剥がれて、それまではしっかり止まっている、なかなかの優れものです。

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止めて便利なこともある:2

2014年02月11日 | つぶやきの壺焼

止めて便利になったことがまだありました。

熱いもの、はさみにくいもの、鈍くなった指先、素手では具合の悪いとき、トングは大いに役立ちます。
広がりを適度に抑えるように、外側にリングがはまっています。

そのリングが油断のもとでした。
焼肉の操作中にうっかりトングを持つ手を緩めたら、ピヤンッと思いのほか大きく広がって、先端についていたタレが飛びました。

開き止めのリングは、次につかみにくくならない限度まで、せいいっぱい広がる位置で止まるようになっていたのです。
しかし、トングでそれほど大きなものをはさむことはありません。
このはねっ返りを抑えるには、開き止めリングの動きをもう少し制限してやればよいのです。

そこでリングにもう一つ外側からリングを付けてやりました。
もとのリングだけのときは、ヒンジのピンの手前まで動いていたリングが、又の内側で止まるようになり、はね返りはなくなりました。

材料は0.9ミリのステンレスワイヤが5センチほどです。
この太さになると、ちょっと硬いのですが、切れてまたはね出すこともないでしょう。

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止めて便利なこともある

2014年02月10日 | つぶやきの壺焼

「止める」のは邪魔をすることですから、まっ先に浮かぶイメージは不便になることでしょう。
ところが、逆の場合があるのです。

作業用エプロンの背中で結ぶ紐がそれです。
エプロン本体の左右端についたリングを通して紐を結んでおかないと、作業中にだらだらと広がってきます。

リングの大きさは、紐を通しやすいけれども邪魔にならない、ちょうどよい寸法にできています。
しかし、紐を手探りで通すにはちょっと小さいので、これが面倒です。

使う都度紐を通さなくてもすむようにするには、通したままにしておけばよいのですが、先に何かぶら下げると結ぶときに邪魔になりそうです。
紐には何も付ける必要はありません。結び目を作ればよいのでした。

抜けないように止めてしまって、便利になりました。

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集めるよりも育てたほうが役に立つ

2014年02月09日 | つぶやきの壺焼

選手は集めるより育てようという監督がいます。
自宅から1時間以内で通えることを参加条件にしてメンバーを募ります。

交通機関のトラブルなど、練習への遅刻の理由にはさせない、往復が大変などと要らぬ同情を互いにさせないということでしょうか。

大勢集めてそこから拾い出していた半世紀前の人の集め方、人材というあまり気持のよくない呼び方も、その方法にはちょうど合っていました。
いまは見込みのありそうな人間を育てていく時代のようです。
この方法では見込み違いということもあって、まだ完璧ではありません。

いずれは最終仕上げだけでよい人しか採用しないときがくるでしょう。
「出来る」というのは自分の問題なのです。
そのとき、検定合格証の枚数や、履歴書の書き方などの装飾文面は、きっと頼りにならないでしょう。

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貧困は働かせたいからなくさない

2014年02月08日 | つぶやきの壺焼

「世界から貧困をなくそう」と大声で叫ぶと立派な演説になります。
「世界の貧困は決してなくならない」と叫べば、それが小さな声でも眉をひそめられます。

事実をじっと見つめたとき、どちらが大嘘で、どちらが本当に見えるでしょうか。
「 」部分に、TVで常套手法になった隠し板を貼り付けてみるとどうでしょう。

大声の立派な演説と、小さな声の眉をひそめるような話と、どちらを信用したくなりますか。
人間の耳は巧くできているのか、下手にできているのかわかりませんが、それぞれ自分の聞きたいことが信用できる話に聞こえてしまいます。

貧困がなくならないものであることは、地球温暖化よりは、はるかに確からしいことでしょう。
人間には働きたい人と、働きたくない人がいます。
働きたい人がいる限り、貧困はなくなりません。貧困でなければ働かなくなるからです。
貧困ゼロ、働く人もゼロ、そのとき、人間の生活に必要なものを誰が作りますか。ロボットですか。では、ロボットは誰が作りますか。

○○ゼロという叫び声は、みなほとんど似たようなものに聞こえてきます。

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網棚に新聞を残してはならない理由

2014年02月07日 | つぶやきの壺焼

網の形をしていなくても、それ以外の名前では呼ばれない電車の網棚に、置き去りの新聞をあまり見かけなくなりました。
通勤時に乗らなくなればそれを見る機会が減るのはあたりまえで、現象が見えないからと言って、それが減ったことにはならないのですが。

新聞を読んだら、捨ててしまわずに次に見たい人が受け取ればよいのにとも思っていましたが、それでは新聞の売り上げが減ります。
新聞は読む人が減ると困るのか、売れなくなると困るのか、どちらが良くないのかという疑問は、愚問に属します。
どちらも良くないことを、一方だけが困ることとしてしまうのは、わかりやすいというだけの意味しかなく、原発即ゼロ論と同類で、あまり賢い考え方ではありません。


新聞を読んだ後でも、もう読まなくても、網棚に置かずに回収箱へと一時言われましたが、回収箱から二次回収する人が出てきて、選り散らかしの残骸で、箱の周りの始末に手間がかかるのか、回収箱も見かけなくなりました。
タバコの吸殻を投げ入れるバカが出てきて、回収箱を止める理由立てを手伝ったのかもしれません。

網棚になぜ残してはいけないのか、そのわけは記事にあるようです。
新聞には特色があって、スポーツ新聞はそれがはっきりしているようです。
どれを見ても同じことしか書いてない大新聞よりは、特色のはっきりしているほうがかえって安心とも言えます。
知って欲しくないことを報らされないのが、世の中いちばんの困りごとですから。


新聞の特色には、ある種の好みを売りつけるものもあります。
人の好みは、時間帯で変わります。24時間好みが変わらないのは、好みよりも偏執に置き換わっていると診たほうがよいでしょう。


あるお父さんが、スポーツ新聞を、毎朝売店に寄って買わなくてもすむよう、配達してもらうことにしました。
家を出るとき、郵便受けから新聞を抜き取って行けば、いちいち買う手間が省けます。
しばらくして、記事が自分の好みに合わなくなっていることに気付きます。
ある朝少しだけ早く家を出て、駅売りの同じ新聞を買って比べてみました。
なんと、配達されたのとは記事が違うではありませんか。
新聞屋さんに配達を止めるよう電話をしたら「もうやめちゃうんですか」と嫌味を言われました。

記事は、売れる好みに合わせて印刷されます。
印刷、そうです、同じ日の同じ新聞でも、版が変わって印刷されるのです。
好みに合わせて印刷された新聞は、次の時間帯には網棚に残っていてはいけないのでした。

<記事の違う話は、「高嶋ひでたけのあさラジ! - AMラジオ 1242 ニッポン放送」から>
 ⇒ http://www.1242.com/program/asa/

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雪道とエスカレーターの類似点

2014年02月06日 | つぶやきの壺焼

雪道は滅多に歩かないので、気を引きしめて歩かなければなりません。

油断禁物の通路は、雪の降らないところにもありました。
エスカレーターです。急停止することもあり、ときにはバックすることもありますから。

エスカレーターを通路というと、横断歩道のゼブラマークのあるところでしか道路横断をしてはいけないと決めている方から、あそこは通路ではない、歩いてはいけないのだとお小言も出るでしょう。
しかし、エスカレーターが急停止したとき、じっと立っているときと歩いているときと、どちらが応変動作がしやすいでしょうか。
これは実験してみないとわかりません。その場合、予告なしでなければ実験にはなりません。
さあ、困りました。

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予定されてない発言に人格が顕れる

2014年02月05日 | つぶやきの壺焼

何か言われたときに、返事のない選手には、きびしく答を求めるスポーツの監督がいます。
返事、返答、受け答え、こういう当たり前のことをしない習慣が、現代人についてしまったからです。
ラジオ、テレビに、パソコン、スマホ、それもイヤホンで集中どっぷり、となっては返事どころではありません。

おしゃべりの人も、返事はしません。おしゃべりどおしが寄れば、口は動きますが会話ではなく、自分のしゃべりたいことだけを言い合うだけで、やりとりにさえなっていません。

要人と呼ばれる人が、時がら場所がらを忘れて、とんでもない発言をしてしまうのも、返事をしない習慣がそうさせてしまうのでしょう。

「席に臨んで間髪を入れず」と座談の名手への褒め言葉もありますが、肝心なのは出てくる言葉、用意されてなかった、メモも原稿もない発言に、どうしても人となりが顕れるようです。

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エレベーターという短時間の乗り物

2014年02月03日 | つぶやきの壺焼

人生というたった二つの文字で、人のたどる道をくくってしまうと、その言葉が、とたんに嫌な熟語の仲間入りをします。
人生という言葉が、身近な人のことを指すとき、不思議なことに、言葉の嫌味度が急に増えます。

ふとした出会いをきっかけに、人のたどる道が変わることがあります。
自分のたどった道の状況や景色が、長く続くほど、記憶は薄くなります。
とかく長話は、長かったということしか記憶に残りません。
記憶の凝縮される工程が保存の邪魔をするのか、記憶断片のつなぎめが多くなるからか、それはわかりません。

エレベーターに「一緒に乗り合わせた」それだけで、表情まで残る記憶もあります。
中村雄二郎氏の講演の帰り、乗り合わせたエレベーターで、聴いた帰りとしか予測できないはずの同乗者の私に、笑顔で向こうから会釈されたとき、聴講の感想が即座に出なかったことが、いまだに残念です。
出会いの瞬時の記憶は、どうやら無言の残念と一緒に保存されるようです。

何十年前でしたか、ほかのこととの関係から計算しなければ思い出せない、昔のことです。

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とりまとめという暴力もある

2014年02月02日 | つぶやきの壺焼

人に限らず、動物は何かのグループに属しながら生き続けます。
グループには、書き記されていてもいなくても、なにがしかの掟があります。

グループは、じっとおし留まることよりも、動きのためにできるものです。
そこに「とりまとめ」という行為がなければ、人のグループは存続しません。
鳥や魚のグループは、生存本能が働くときにだけできて、あとは多分ばらばらなのでしょう。それらのグループは存続の必要がないからです。

グループ存続のための「とりまとめ」は、あるときには大げさに言えば暴力行為に近いものにもなり得ます。
時間という強迫観念のもとに、その「とりまとめ」が行われると、飛び交っている情報や世の流れに逆らわないことだけに意識が集まって、暴力行為度が増すことになります。
「なんでもいいから、そういうことにしておこう」そうして作られた世論、そんなことが審判の名目に仕立てられ、「えっ」と思うような奇妙なことが、当然のようにグループ存続の道具立てにされます。

葛飾水元の「しばられ地蔵」さんに、まじめな顔をして手を合わせていた人を思い出しています。

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休日か祝日か お休みの日

2014年02月01日 | つぶやきの壺焼

2月11日は、火曜日でも、「国民の祝日」なので休日とされています。
1月13日は、この週の月曜日が「国民の祝日」とされ、休日でした。

年に15回あるこういう日になぜ休むのでしょうか、それは休日だからということになっています。
その日が祝日だからとは限りません。

国民の祝日に関する法律
 ⇒ http://jump.cx/hdy

その日は休む日なのか、祝う日なのか、祝う日だから休みにしてお祝いをしようという気持は、祝日でないのに休む日ができてから、どこかに行ってしまったようです。

祝日には、当然のことに、それぞれいわれがあります。
国旗や国歌を嫌う教育をされて大きくなってきた人たちは、祝日のいわれの中に、すっきりしない祝いごとを見つけ出すでしょう。
それでも、祝わないから休まないというわけにはいきません。

祝日だから休むのでなく、休日だから休むということを決めてしまった法律は、善法なのか悪法なのか、答えは法律に善悪はないということになるでしょう。
本当にそうなのでしょうか。

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