・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

決まり手に ずっこけ を

2015年03月16日 | つぶやきの壺焼

相手が手前に倒れ込んでも、最後に押していれば、決まり手は「押し倒し」とされます。
前に倒れたのを押し倒しと呼ぶのは、やや無理ではないかと思えても、呼び名を決めていなければ仕方ありません。

粘る相撲が少なくなって、自分から倒れてしまうのをよく見かけます。

押し込んで勢い余って、先に足を土俵の外に出してしまう「勇み足」というのがあります。
土俵の中で自分から転んだとき、その決まり手に「ずっこけ」というのはいかがでしょう。

「ずっこけ」の黒星が多い力士は、その対策の稽古に力を入れなければなりません。
星の色は同じでも、「ずっこけ」は不名誉、案外この名が鞭の役目をするかもしれません。

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「品」という名の亡霊

2015年03月15日 | つぶやきの壺焼

「品」という言葉は、さまざまな意味に使われます。
1.一品、二品と数えること
2.品目、品評、新品、中古品、珍品、絶品のように区別すること
3.品格、品性、品行、品位、気品、上品、下品といって格をあらわすこと

三つめの「格」をあらわすことには、「品」という文字のが暗示しているような内包的性格のようなところがあって、面白い気がします。
「品」という文字がつくと、形あるものの意味、つまりそれがある元もとの意味が変わってしまいます。
信仰の対象である仏の姿を表現した仏像が、鑑賞の対象である美術品になってしまっています。
人のこころの表現様式であった絵画は、鑑賞の対象から集客用品になってしまっています。
品というモノになった行きつく先は、売買される「商品」、またその先は「投機」の対象です。

もともと形のあるものは、品という字がついても、まあそんなものかとしておけばよさそうにも思えるのですが、形のないことが「商品」と呼ばれると、背中のどこかがムズムズする嫌な気分になってきます。
「保険」という制度を「商品」と呼んではばからない、元来は社内用語で、顧客には聞かせないはずであったその呼び名を、TVのCMにまで引っ張り出して見せたり聞かせたりするに至っては、おそれいりましたというほかはありません。

こういうCMを平然と作り、これはよいぞと高価な宣伝料を支払う人たちは、カネの亡者という言葉の意味さえ、かみ砕いて説明しなければわからないでしょう。

「品」という字は、モノにもコトにもつきまとって性格を変える亡霊のような、また、それにかかわる人を亡者にしてしまうような、偉大な力と奇妙な性格とを併せ持っているようです。

品川近辺に縁のある方には不快かもしれません。ごめんなさい。

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度を過ぎれば 成り果てる

2015年03月14日 | つぶやきの壺焼

世の中につまらない出来事が多くなると、人びとは面白さを求めます。

そういう時代には、美術も面白術に傾いてくるようです。
伝統に従わないもの、びっくりするようなもの、あり得ないものが好まれます。

美しいということが、揃い整っているということと読み違えられると、人びとは、自分が美しくありたいという欲求をもっても、美しさは、感動の源泉ではなく、お追従の対象としか見られなくなります。

ゆるきゃらという奇妙な動物模型が県のカンバンになり、子どもたちはその空気の中で育ちます。
ワー、キャーと叫ぶだけが感動の瞬間であり、感動の表現はそれに集約されます。

実際に感動を得たとき、そこで感動を伝える言葉を思い浮かべることはできなくなっています。
どうしてもそれを伝えたい、あるいは向けられたマイクに何か言わなければというとき、口にのぼるのは「感動した」という、失語症のつぶやきのような、全く空虚なサウンドバイトでしかありません。

面白さを求め過ぎると、面白くも何ともないことしか言えなくなってしまうようです。

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させない技と しない鍛え方

2015年03月13日 | つぶやきの壺焼

スポーツに限らず、させない技と、しない鍛え方はだいじです。
何をさせない、しないのか、けががその一つです。

どんな優れた技をもっていても、体の機能が万全でなければ、それを発揮できません。
しない鍛え方は本人の努力次第ですが、させない技は、からだだけではなく、こころのはたらきがなければ身につきません。
ただただがむしゃらがよいなどと、もし、親方やコーチがだれにでも言っていれば、いつかどこかでよくないことが起きます。

一生治らないけがをさせない技、これはむずかしい課題です。
体育大学では、そういう共同研究をしているのでしょうか。

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敢闘賞に一番制を

2015年03月12日 | つぶやきの壺焼

この一番はよく頑張って勝ったという相撲に、一番限りの敢闘賞を出とよいと思います。
協会から、つまり入場者からの、その日のご褒美です。

行司軍配の判定や確認だけでなく、審判のプラス思考の物言いです。
審判がこれはと思う取り組みを協議して、即時表彰を勝ち名乗りのときに行司が宣言します。
「本日の敢闘賞にかなう」
この賞は、取り組前には、誰にも予想ができません。
もちろん横綱、大関は対象外、敢闘して当たり前ですから。

負けが見えるとすぐあきらめてしまう気抜け相撲が減ると思うのですが、いかがでしょうか。

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もう4年になります

2015年03月11日 | つぶやきの壺焼

「福島 復興状況」で画像検索をしたら、出てきたのは会議の写真ばかりです。
復興という言葉を知らない人が見たら、会議のことと思うかもしれません。

集中復興期間の終わりが近づいていると、ニュースは報じます。
これには、集中が十分でなかったという意味が込められているように思います。

たとえば、仮設住宅の解消が進まないのはなぜか、報道されるのは、手が足りないなど、知らせて都合のよいことだけです。
メディアが報じなければならないことはなんでしょう。
報じられて困ることがあれば、それは何なのでしょう。
そこには、メディア自身の都合は入れるわけにはいきません。

被災地復興の総合工程管理は、だれの責任下にあるのでしょうか。
復興庁設置法によると、復興大臣は、「内閣総理大臣を助け、復興庁の事務を総括することを目的として」置いた職務らしいのです。
事務の総括が主目的では、工程管理も事務のうちなどとうそぶく理屈しか出てこないでしょう。
序での責任しかもつようにしていないのでは、ついでの仕事しかできません。

前途遼遠、被災地の方には、また我慢の1年のはじまりです。
ここで念仏は不謹慎なので、やめておきます。

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動き回る子どもをおさえると

2015年03月10日 | つぶやきの壺焼

ネコは車の前を急に横切ります。
イヌはめったにそうしません。つながれているからです。

イヌでも、自由に走り回れれば、走行車両直前横断ゲーマーは増えるでしょう。
むかし、イヌがまだ自由な生活を許されていたころ、大きな犬が目の前に飛び出して急ブレーキ、後の座席に寝ころんでいた娘が、座席の前に転げ落ちたとこもありました。

ひとの子も、自由であれば走りまわります。
走り回るのが危険、うるさいと思ってはいけません。
大人なら歩をゆるめと通るような家の中の通路でも、子どもは巡回ルートを勝手につくって、何度でも走り回ります。
それでも、けっして置いてあるものにぶつからないのです。
狭いことろをすり抜ける要領を、そうして身につけていきます。

すりぬけがどこで役立つのでしょうか。
社会に出て、身の危険を感じたとき、ボケっと立ち止まるか、すくんで身を固めるか、素早くかわして難を逃れるか、その違いが出てきます。

子どもの動きを束縛すれば、すりぬけの感覚を身につけられません。
すり抜けることを覚えない子供が大きくなれば、おしゃべりとお芝居のほうは達者になるでしょう。
電車の中で、近くにある手首をどれでもよいからつかまえて、痴漢だ痴漢だと騒ぎまわる、人迷惑な演技も身につけます。
じっと息を止めるようにしていて、いきなり手首をとらえるような早業に移れる、それはいかにも不自然でしょう。
たちの悪いのは計画的、よくても行き当たりばったり、そんな大ウソが多いと思うのですが、いかがでしょうか。

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買えば賞金の増える宝くじ

2015年03月09日 | つぶやきの壺焼

宝くじに絶対に当たるという方法はありません。
しかし、絶対に当たらないという方法はあります。

「買わないくじは当たりようがない」
むかし、写真雑誌のコンテストで、応募意欲をかきたてるために審査員の大先生もこの言葉を使っていました。

「買わないくじは賞金が少ない」
宝くじもこうしたらどうでしょう。
もちろん「買われるくじは賞金が増える」ことにします。
買う人が少なければ、賞金の額を減らし、買う人が多ければ増やす、変動賞金制です。

いま、どれだけ売れていて賞金がどうなっているかを、一定時間刻みに売り場で開示することなど簡単にできます。
収益総額を予算額に合わせておけば、売れ行きによって決算の行方を心配することもありません。

引き潮に乗っているカジノなどを始めるより、気がきいていると思うのですが、いかがでしょうか。

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語彙検定はいかが

2015年03月08日 | つぶやきの壺焼

検定ばやりのいま、ゴイケンテイというのはいかがでしょう。
語彙の保有力だけでなく、創作力、応用力も試せます。

検定には自動車運転のように、実生活にかかわるものと、そうでない趣味領域のものとがあります。
語彙検定は言葉を使う仕事に人には実用検定、そうでない人には趣味検定、どちらにもなりそうです。

この言葉のテストは、見たこともないような字を知っているかどうかの検定などより、はるかに実用に役立つでしょう。
すでにどこかの会社で行っているような、「挙措を失う」「ナビエ・ストークス方程式の解」など一般人の生活とは無縁の言葉を持ち出してきて、語彙と読解力を試す博知検定とは違います。

ここで提案する方法は、こういうものです。

◎ 使用禁止語を設けてものごとを表現させてみる

たとえば、平和、安全、改革、福祉、環境、この五つの言葉を禁句にして、望ましい生活について語らせる。
あるいは、努力、結果、アピール、この三つの言葉を禁句にして、スポーツ選手の心意気を語らせる。


この稿、書き始めに、奇妙なことが起きました。
「ごいけんてい」で変換したら「ご意見態」という字が現れたのです。

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三種困惑

2015年03月07日 | つぶやきの壺焼

生活ではまじめでも、公的なことや政治になると、何かにこだわってみたり、逆にいい加減であったりする人がいます。
その反対に、公的なこと政治のことではとてもまじめなのに、私生活はいい加減の人もいます。

それぞれにわかりやすく、個性でもあるので、人ざまざまと思っておけばよいのですが、困るのはそれとは違うもう一種のヒトがいることです。
生活感はどこにも感じられず、公的なこと政治のことは筋が通っているかのようであっても、実は自分ひとりが目立ちたいだけ、ときに突飛な態度を示すこともある、しかし演説だけは立派にやってのけるというヒトです。

この三種めが紛れ込むと、空気は急に汚れ乱れます。
役者と呼ばれる仕事をしていた演技のプロが、政治に首を突っ込むと、往々にして困惑のタネである三種めになりやすいように感じます。
演説はお手のものですが、見せるのはただただ演技で、演じている間、その余韻の漂う間、見る人聞く人を酔った気分にさせる、それだけの効果しかもたらしません。
そんなことに国家の命運やら生活のすべてやらを託すことができると錯覚させてしまう、これこそが三種めの困惑なのですが、いかがでしょうか。

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教えないほうがよいこともある

2015年03月06日 | つぶやきの壺焼

何の都合なのか知らされないままに、図体だけは大きくなった18歳の子どもに、国会議員、地方議会議員、地方公共団体の長の選挙権があることにしようという法案が決められようとしています。

18にもなって、年下の子供に、殺傷凶行の仲間に入れと引っ張り込むようなバカがいるという事件の取り調べ中に、なぜこんなことをあわてて決めるのでしょうか。

人として、してはならないことがわからないうちは、まだ子どもです。
してはならないことが、身に沁みてないのは、やはり教育の仕方に問題があるのでしょう。
貧富の差などは、影響があったとしても、ずっと外縁のことでしかないでしょう。
おカネモチでも、退屈まぎれに、してはならないことをしますから。


小学校の学習指導要領には、道徳の章に、してはならないこととして、
▼ わがままをしない
▼ うそをついたりごまかしをしたりしない
▼ だれに対しても差別をすることや偏見をもつことをしない
これだけしか書いてありません。

ほかには、ああなるよう、こうするようということが、ずらずら並んでいるだけです。
してはならないことが、これは教えるほうのこととして、もう一つだけありました。
道徳の時間に関して数値などによる評価は行わない、とされています。
できるはずのないことはしないという、あたりまえのことです。

何かだいじなことが、抜け落ちていないでしょうか。
教えてはならないことが示されていないのです。
決められたことを教えれば、あとは何を教えてもよい、俺は私は先生だから、そう思っている先生が、本当にどこにもいらっしゃらないでしょうか。

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見学は 見ているだけの学び方

2015年03月05日 | つぶやきの壺焼

学ぶことは、訓練とは別のことです。
知るだけで身にはつきません。

退避演習だけでは、火を見たら、はじめから逃げ出してしまうことしか覚えないでしょう。
消火隊のホースさばきを遠くから眺めている、そんなのは防火訓練にはならないのです。


放火癖をもつ人の多いN町では、いつなんどき尻に火がつくかわかりません。
煙を見つければすぐ消せる消火の達人は、そんなとき、いいから、やっておくから、まあ見ていてくださいと言うでしょう。
心得や技を渡したくない、伝えたくないのではなく、啐啄の機をとらえる面倒を嫌うのかもしれません。

やらずにすむなら任せておこう、若い先生は、つい楽チン街道を選びます。
楽をさせておく、苦労をさせない、その好い気分が、議事堂の小児人口比率を右肩上がりにしていくのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

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火は用心よりも まず消すもの

2015年03月04日 | つぶやきの壺焼

だいじなことと急ぐことは、どちらを先にしなければならないでしょうか。

家の中でどこかが燃えだしたら、なぜ燃えているかなどと考えることはしないでしょう。

だれが火をつけたか、そんなことは後回しで、何とかして火を消そうとしなければ、ボヤにさえならずに済むことでも大火にしてしまいます。

火を消さずに、周りからうちわであおいでいる、火祭りを楽しむような、観光気分がN町には漂っています。

火祭の感想など、放送してもらっても、何の役にもたちません。

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流れを読むのは 乗るためだけでない

2015年03月03日 | つぶやきの壺焼

「流れで」という言葉は、便利な解説用熟語です。
説明のしようもないことを、どうしたこうしたなぜですかと、おバカなニュースキャスターから聞かれたときに、「流れで」がよく使われます。
その返事が出たとき、質問が下手だったとは、聞いているほうはなかなか気づきません。

流れは、その場そのときの空気の中で感じとらなければわかりません。
しかし、流れの変化は、時間軸に沿って、その気になってたどってみるとわかります。


何年か前から、ダンスが学校教育の必修科目に入っていると聞きましたが、ついに文部科学省も狂いだしたかと耳を疑いました。
説明を見ると、「イメージをとらえた表現や踊りを通した交流を通して仲間とのコミュニケーションを豊かにすることを重視する運動で、仲間とともに感じを込めて踊ったり、イメージをとらえて自己を表現したりすることに楽しさや喜びを味わうことのできる運動」だからと書かれています。
そこには加えた理由の記述はありません
「わかるだろう」でおしまいです。 

ここに顕れている教育方針の流れは、言葉よりからだで、あるいはそぶりで、意思を伝えあう原始への回帰にベクトルが向いてます。
意思などどうでもよく、その場が楽しければ嬉しければ、それでハッピー、いいではないかと思わせたいのかもしれません。
ネコやイヌを可愛がるようなやり方と同じに子どもを育てる方法を身に着ければ、使われる言葉は急激に貧困に向かいます。

もう古びかけたグローバリズムの舟に、乗り損ねては大変と、滝が迫っている今頃になって、イヌ掻きで追いかけているような、いやな情景の流れが目に映ります。
毎日TVカメラの前で時の流れに乗り続けている人たちは、流れがどちらに向かっているのかは、たぶん気にしていないでしょう。
くわばらくわばら。

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誇りは 後付けが効かない

2015年03月02日 | つぶやきの壺焼

河津桜は満開、花粉症をだいじにお持ちの方には、お気の毒な季節の到来です。

私は無理に名づけられたようなその症名を信じませんから、多少目がかゆくても空気のせい、ほこりのせいだと思って過ごしています。

ほこり、埃と誇り、字を並べてみると、つくりはなんとなく似ています。
へんは大違い、土と言、土はそのまま見えますが、言は文字にしないと見えません。

目に見えるほうは、役立たずで取り除かなければたまる一方、それが固まってしまえば空気の流れも止まるというものです。
言のほうは、文字にしないと見えないとうっかり書きましたが、そうでない見え方もありました。
誇りは、人の姿にも、することにも顕れます。

「誇り」を教育の根幹におけと説く人がいます。
そのとおりだと思います。

心の芯に誇りを待つことを教えられなかったヒトは、人間の姿をしていても、鬼畜のような行いをします。
うっかりであったか、ずぼらであったか、誇りを教え込まずに育ててしまった親は、不幸なことに、わが子が、人間ではなく鬼畜になってしまっていることに気付かないことが多いようです。

いったん鬼畜になってしまえば、この世で生まれ変わることには、何万分の一の成功率しか望めないでしょう。
何万分の一かの更生確率に期待するには、また何人かの犠牲を覚悟しなければなりません。
南無阿弥陀仏。

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