・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

錯覚時代:30 謝罪

2018年12月16日 | つぶやきの壺焼

まず謝罪、それが平和解決の方法という錯覚は、国どうしのあいだがらを、年を重ねるほど悪くしていきます。

謝罪は、そのときの情に訴える便法なので、無情の相手にそんな手は利きません。
無法の相手に法をかざして見せるのと同じことです。
謝罪を求める無情の相手は、謝罪という態度がほしいのではなく、次に望めるものを誘い出そうとしているのです。

「謝罪の前には息を止める」というコツがあるそうですが、あのいまわしいとき、隣の国にうっかり頭を下げてしまった首相は、そのとき息ではなく脳のはたらきが止まっていたのでしょう。

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錯覚時代:29 法制

2018年12月15日 | つぶやきの壺焼

何ごともまず法律を決めればきちんとうまくいくというのも、人間の錯覚のひとつです。
魚や鳥の群れの見事なグループ活動に法律はありません。

自動車は屋外で走るものだから性能測定は屋外でなければならないという法律を定めておいて、測定のばらつきの制御に困惑するという、しくじりの例も何年か前にありました。

こういうあまり賢くないやり方が法律になってしまうと、こんどはその法律に違反したことをやり玉にあげて手柄顔をする醜い人間をつくりだします。

とかく「決めごと」が先に立つと、「もめごと」のたねになるようです。

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錯覚時代:28 拘束

2018年12月14日 | つぶやきの壺焼

「私は党議拘束に従う」と、何度も吹聴する人がいます。
どんな議案にも、採決のときに決められた党議拘束からはずれることはしないというのは個人の心情であって、それを正義貫徹の証と見るのは、民主主義~多数決~・・・という、ある種何かの信奉による錯覚ではないかと思います。

厳格な党議拘束制を敷いておいて、一定時間審議の形を整えさえすれば、与党案はすべて可決できるでしょう。
拘束をなくせば個別の利権に結びつきやすいという欠点はあるにせよ、政党の態をなさない身勝手な人の集まりであるグループ活動団体が、会期中のある瞬間だけ一つにまとまるというのも、動物昆虫類の生態に似て、ときに気味悪ささえ感じてしまいます。

黙ってしておけばよい当たり前の計算を、準備万端してあるとあからさまにチラつかされると、ここから先は言わないとしばしば断りを入れる話も、その先に何があるのかと、聞く者をかえって不安の縄で縛りあげるのではないかとも感じています。

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錯覚時代:27 サイバー危機

2018年12月13日 | つぶやきの壺焼

ただ今安全、その状態は危険がないという保証にはなりません。
50年同じことをしてきた、何も困ったことは起きなかった、だから何も危険はない、これは大きな錯覚です。

危機の訪れ方には、徐々にその強さを増すジリジリ侵攻と、急に状態の変わるショック異変の、異なった形態があります。

日常生活の身の回りのことがつつがなければそれでよし、長生きできればそれが何より、いつもニコニコみんなで万歳、危ないことは考えない、考えなければ起こらない、お花畑の害虫はそう思うから湧いて出る、今のままが最上と思い込んでいる人が多いことこそ安定の証、これもみなどうやら錯覚のようです。

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錯覚時代:26 名義

2018年12月12日 | つぶやきの壺焼

「無所属の会」が解散する方針を確認したというニュースがあります。

解散したのでもなく、解散することを決めたのでもなく、解散する方針を確認したと、とりあえず言っておこうという、何とも歯切れの悪い総会の結論です。
こうしておけば、方針を確認したけれども、まだ解散はしていないと、都合のよい時期が来るまでいつまでも言い続けることができます。
まさかと思って調べたら、さすがに政党交付金は無所属の会には出されていなかったようです。

では、なぜはっきり解散したと言い切れないのでしょうか。
考えてみれば、どこにも所属しない人の寄り集まりに、解散という行為は成立しないのでした。
これはこれは、ばかばかしい錯覚です。

この先どうする、半年後にどうする、必ず来るそのときには会の奇名が邪魔になってきます。
解散する方針だと言っておけば、時と場合に応じて、まだまだ離合集散が意のままに表明できるという相談がまとまったのかもしれません。

聞けばこのおじさんたちは、無所属と言いながら前の所属政党から籍を抜かすに、交付金だけは受け取っているようなのです、いやはやどうも。

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錯覚時代:25 自由

2018年12月11日 | つぶやきの壺焼

この国で多くの人が、多分抱いているだろうと思える共通な錯覚があります。
自分は自由にものを言うことができているという思いです。

学校教育から始まって、世間の人々の考え、メディアから吹き込まれるニュース、勝手に作られドラマ、そういうものが積もりにつもって、皆が多分そう思っているだろうということが、そう思うわなければならないことに変わっていき、世の人々はそれに頭と心を縛られて暮らしています。

その縛り方は、普段の生活に差し支えるようなきついものではありません。
当たり障りのなさをだいじにするように、やんわりと締め付けられているのが、むしろ始末の悪いところです。

たとえば、12月8日という日の思い出しかたがあります。
それを知らない人も増えて、うっかり違うことを教えてしまう語りかけにもそれが現れます。
時の為政者の肝の据わり方、そこに至るまでの外交手段の拙劣さによって、戦争に引きずり込まれた日を、大悪事に手を染めてしまった日であると決めてしまっている、そんなことも縛られの代表例になるでしょう。

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錯覚時代:24 断罪

2018年12月10日 | つぶやきの壺焼

裁きという行為は、裁かれる者を悔い改めさせるであろう、その思いは大きな錯覚を生みます。

実の裏側にある虚こそが、人の交わり方の底流であるという信条を持つ者に、詐欺、背任が罪であるという意識は持たせようがありません。

情状はわずかにあるものを汲みとるものであって、嘘ばなしを捏ねて作り上げるものではありません。

嘘がつくためにあり、それを吐く息と同質としている人を裁く場合には、判決の刑は求刑より重くなるのが通常という判例を積み上げていったらどうかと、ふと思いました。

わかりやすくひと言にすれば、うそつきは思い切りこらしめてやれ、ということです。

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錯覚時代:23 国交

2018年12月09日 | つぶやきの壺焼

国交は、二国間の外交関係とされています。(Wikipedia)
外交のことであれば、その関係の保ち方は様ざまです。

二国の一方が、あの長い国連憲章前文を尊重して「寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、 国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ」と努力を重ねてみても、もう一方が、相手を永久に憎み続けなければならないという奇妙な国是を掲げていたのでは、友好関係を保てるはずはありません。

(図はYazawa KeiさんのFacebookから)

脳の芯にまで沁み込んだ恨の思想は、援助を受けながら憎み続け逆らい続ける外交戦略しか生み出しません。
こういう場合に、個人間の友好や文化交流などで、ちぐはぐな外交関係が改善されていくというのは重症の錯覚と言えるでしょう。

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錯覚時代:22 経営

2018年12月08日 | つぶやきの壺焼

高額報酬への批判を避ける目的で、年20億円前後の報酬のうち、10億円前後を退任後に後払いで受け取ることにして、毎年実際に受け取った報酬額のみを報告書に記載していたという、ずうずうしい外国人経営者が、いま取り調べを受けています。

どれほど贅を尽くした生活をしても、日本でならば毎日100万円、年に4億円は消費し切れないでしょう。
証券、不動産、財宝など資産を買うのは消費には入りません。
残りの16億円を、関係会社を含め14万人に均等に配っても全員に1万円のお年玉を渡せます。

日本人はとにかく黙ってよく働く、自分だけは意のままに手に入れるだけ精一杯分捕れると思ってきたのが大錯覚でした。

それをまねようと、国のこと先のことには一切お構いなく、よその国に手をのばして、とにかく今のうちに稼ごうと躍起になっている「経営者」と呼ばれる人たちも、それで自分の子孫が悠々と生活できるという錯覚に陥っています。
経済界というところは、錯覚ゲームの賭博場のようになってしまっているようです。

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錯覚時代:21 暴力

2018年12月07日 | つぶやきの壺焼

スポーツは体を張って競い合う人間行動の一部分です。
生活のほとんどすべてがスポーツという職業に就いているのが、プロのスポーツマンです。
スポーツ・プロの生活信条が、それ以外の一般人と同じでなければならないと思い込むのは錯覚の一種でしょう。

安穏な生活環境のなかで、安全第一に育ってきた人は、スポーツの美しく競い合う一面だけを見て楽しみます。
体を張りながら、多くの人を楽しませる形式美を整えるには、その陰に激しい鍛え方が必要です。
スポーツ界の激しさが、一般生活者には暴力に見えることあります。

弟子を鍛える過程で、鼻の骨が折れたわけでもない、ほっぺたが腫れたぐらいのことを暴力だと騒ぎ立てるのは、騒ぎを売りものにするメディアの卑屈な商法に過ぎません。
「お母ちゃん、ぶたれたよー」と訴える子の泣き声を伝えてみても、そのスポーツの向上には、まったく役立ちません。
暴力に見えたことが、実際に別の暴力を受けた被害者の行為であったかどうかなどとつなげてみたところで、話を面白くしたいだけのネタづくりでしかありません。

叩くことがなんでも暴力と見る、これも錯覚なのでしょう。

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錯覚時代:20 甘え暴力

2018年12月06日 | つぶやきの壺焼

暴力行為にも強弱があります。
その強弱と、その現場で消費されるエネルギーとは、負の相関関係にあるようです。

むやみに暴れまわり、他人が運転している車をひっくり返すなどは、心根の弱さのあらわれです。
強そうなところを大勢の人に見せたい、その底にあるのは、何をしても許されるだろうという錯覚なのでしょう。

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錯覚時代:19 言論工作

2018年12月05日 | つぶやきの壺焼

相手の失言を引き出すための奇問連発、引っかけ質問という、こぎたない策略があります。

少し手が込んだものに、引っかけ質問のタネになりそうなことを、意思表明を装って発表する言論工作もあります。

隣国を憎み続けなければならないと教え込まれてきた政府首脳が、「未来志向への協力」などと、崇高めいた抽象概念をちらちらさせてみるという方法もとられます。

言論には言論をもって応えなければならないとすれば、これは失言誘導のよい種をまいてくれたと、バカな記者は喜んでそれを取り次ぎます。
そこに痛快な名答がでました。
発言の一つ一つに政府としてコメントすることは控えたい

引っかけはずしに、無答という回答方法があることに気付かなかったのは、検索依存症にかかっている記者たちの錯覚だったようです。

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錯覚時代:18 悠々遅滞

2018年12月04日 | つぶやきの壺焼

世界は日々新たな動きを見せます。
国の行政の中枢では、動きの早い世界の情勢に即応した行動をしてもらわなければなりません。
国民の多くは、信頼できる優れた官僚の方々がその通り行動されているものと念じています。
各省からの情報も、多くの人が常に新しいものに触れられるよう用意されているものと思っていました。
ところが、どうやらこれが錯覚であったようなのです。

各省からは年に一度白書や青書と名付けられた情報集成が発表されます。
そのうちのひとつ「外交青書」を開いてみました。
冒頭の項目がこうなっています。

第1章 2017年の国際情勢と日本外交の展開

あれ、古いのを見てしまったかと、表紙を確かめると2018年版に間違いありません。
なんじゃ、これは、三日前の古新聞という歌の文句を思い出しました。

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錯覚時代:17 海難

2018年12月03日 | つぶやきの壺焼

初冬の荒海を越えて流れ着いた船を見ると、その船乗りがさぞ大変な思いをしただろうと、同情の念が先にたつのが日本人のこころです。
ところが、漂着船の数が増え、去年の倍の30隻近くともなれば、同情が錯覚であることに気づくでしょう。

漂着船に人が乗っていたかのような痕跡があったことも報じられますが、途中から姿の消えた船乗りのことは探りようもありません。
はじめから人が乗っていなかった何かの実験漂流か、あるいはいやがらせの偽装漂流かもしれません。

処分の費用は国費で負担と聞いても、全国民にツケが回されるということですから、それまででよいとは思いません。
船を流した国に請求すべきでしょう。
相手が北か南かわからなければ、両方にすればよいではないですか。

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錯覚時代:16 見た目

2018年12月02日 | つぶやきの壺焼

この皿の中のものは、見ないほうがその味の評価を間違わないかもしれません。

一見、それが曲者です。
一見が、「見た目」の場合は錯覚のもとになります。
視覚過敏の人は、この錯覚を起こしやすいのです。

お隣の国への見方も、もうかる、きれい、そろってる、それに目を奪われればアウトです。

「見た目」は「甘言」と二人連れで目の前に現れますから。

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