セネカは、ワインを飲み酩酊することが平静さを維持する手段であると言った。「時折、我々は、酒に溺れることなく、それをたらふく飲み酩酊状態に達するべきでさえある」。といっている。
溺れずに酩酊状態になる。
酔っ払いの本道とは、このあたりの真実を解明すべき使命を帯びたものだ。
推察と検証を重ねつつ8時間程も呑み続ければ、酩酊と泥濁と喪失の狭間で酔っ払いは揺れ動く。
夢かうつつか、うつつが夢か。
溺れたいという欲求を振り払うように呑んでみることで、物事が起こることそれ自体ではなく、それらの物事が起こしうる架空の臆病な見識に恐れをなす自己がいることに気付く。
それも儚き束の間の夢。
眠りに打ち勝つには、諦念に溺れることのない探求と未知なる物、たとえば死と言うものへの共感覚に目覚め、平静さを無くさないことを要する。
酩酊することは、もしかすれば2度と繰り返すことのない物事への臆病さを取り除く為の疑似体験だとしたらどうだろう。
倦怠と吐き気と頭痛と浮遊感に悩まされながらも、翌朝には生還の果実をじっと眺めてみる。
うたかたの安堵。
呑むことで私はこうして、生きている喜びをかみしめられている。
もしそれが悲しいことであれば、嬉しいこととはいったい何を指すのであろうかと思いつつ、きっと今日も酒を遠方に眺める。