知恵者や賢者とはどのように出来上がるのでありましょうや。
全般的なお地蔵さんたちの、賢者の顔つきを見るたびに思います。
先日、新成人たちへのメッセージの中で、誰かが言っておりました。
「何事も当たり前だと思ってあきらめないで、世の中を疑ってかかりなさい。」と。
借り物でない、自分の言葉で自分の気持ちをしっかり話せるようになるには、疑問を発することが一番のようです。
つまりはこういうことではないかと。
懐疑心を働かせて感情を薄めてしまうこと。
自分の視点とはかなり違った視点を取り入れてみよう。
自分の考えとは相容れない情報に真摯に耳を傾けよう。
自分の考え方の弱点を正直に認め、自分の信念と対立する考え方の長所をしっかり見つめよう。
本当らしく見える説明に満足せず、都合よく見える理屈にも乗らないで。
言うは易し行うは難しではございますが、少しでも気に留めることで、少しは賢者の風貌に近づけたりなんかしちゃわないだろうか。
したり顔ではない、知恵者や賢者の風貌には未だ程遠い愚禿のあたしも、遠き昔は新成人でございました。
日本の未来は、うぉううぉうもよろしいですが、将来を託す新成人の方々が、私らに大いなる疑問を持ってくれることをすすめる次第でございます。
おじぞうさんに手をあわせながら、そんなこんなをおもっちゃったりする今日この頃です。